Silent History 157





素足に近い感触をひたひたと楽しみながら、朝の微風に纏めきれず零れた髪を潜らせた。
神殿では巫女や神官らが早くも活発に動いている。
綿に麻を織り込んだ軽い服にサンダルを引っ掛けて、ゆったりとした歩調で神殿の回廊を歩く。
朝餉の用意をしているのか、どこからか流れてくる良い香りがほどよく胃袋を刺激する。
生乾きの髪は緩く布で巻き、背中に垂らした。
エメルとフォーネ、侍女たちがいれば髪の水を抜き、綺麗に整えてくれるのだが。
妙に懐かしさに胸の奥が焼けて、髪に手を乗せた。

幼馴染たちが側にいると、故郷がずっと付いて回っているようなものだから、懐かしさや寂しさを感じることもないだろうと思っていた。
だが、離れてみてよかったのかもしれない。
近づいていると見えないもの。
本当に大切だったものが見えてくる。
いかに自分の国を愛していたかが分かってくる。

海沿いの肌を焼くような日差し。
祭りでは夜も昼のような熱気。
眩く光輝く白い城壁。
涼しげに風に身を躍らせるファラトネス国旗。
日陰で汗を冷やしながら心地よさに目を細めた微風。
どれもが懐かしく愛おしかった。

箱庭のように小さな世界に、小舟を走らせて遊んで。
楽しいながらも退屈で、どこか高くにどこか遠くに飛び上がりたいと空を仰いでいた。
そのどこかが見当たらないまま過ぎて行ったファラトネスでの生活、それら穏やかな世界。
夜獣(ビースト)という一滴がファラトネスの殻を破った。

夜獣(ビースト)が湧き出す空間の裂け目。
神門(ゲート)があったが、人の手により破壊された場所。
森があった場所、神の棲んでいた場所。
すべては神が知っている。

緩やかなスロープを下がっていった。
幅の広い下り坂の向うから老婆がゆるゆると足を運んでいる。
余所者がうろつこうとこの集落の人間は気にしない。
そうまで信頼して受け入れていいのだろうかと、タリスの方が案じてしまう。
距離が縮まった老婆に朝の挨拶で呼び止めて、スロープの下へ目を滑らせた。

「祭壇はこの先にあるのですよね」
暗に、部外者の自分が行っても構わないかと聞くが、老婆は躊躇うことなく枯れた左手を広げた。
祭壇の場所を示し、詳しくはその辺りにいる誰にでも聞くといいとまで教えてくれた。
タリスが礼を言うと、老婆はまた同じ歩調でスロープを上って行った。
タリスもまたゆっくりとした足運びで下り坂を歩いていく。
美しい場所だと思う。
だがとても狭い里だ。
それでもほとんどの人間がこの地を去ろうとしないのは、ここを出たら死んでしまうことを知っているからだ。
壮絶な過去は、何百年経っても彼らを解き放つことはない。
外の世界のどこにも彼らの居場所がもはや無いことを知っている。
戦うか。
奪い返すか。
そうしてまで新たな地を求めようとしないのは、もう血が流れるのを見たくないからだ。

今のこの地の生活を可哀想に思うのは、外の人間の身勝手な思い込みかもしれない。
この地の人々が幸いか、不幸に沈むのかは彼らが決めること。
外部が憐れんだ目で見たとしても彼らは救われない。
迫害と虐殺によって彼らに癒えない傷を負わせた事実が消えることはない。
彼らは許したとしても、罪が拭われるわけではない。
では罪を償うべきは誰か。

神殺し。
これはヒトと神との戦いだった。

いや、戦いですらない。
一方的な破壊だ。
その狭間にいたのが、彼ら神王派の人間、流民。

スロープの終わりに来て、緩やかに曲がった奥に扉が見えた。
装飾の美しいそれが祭壇だ。
神が寄る社。
扉を押し開ければ、巫女らが朝の清掃を始めていた。
忙しない彼らの間を抜け、奥の壇へと進んでいく。
祭壇の奥には紗のカーテンが幾重にも掛かり、奥は森へと続いている。

数段の段の端から、傾斜に沿って縁が立っている。
一枚岩に透かしを入れながら彫り抜いた縁は背を高くしながら祭壇を回りこんでいた。
結晶を含む石灰岩の肌触りは冷たく滑らかだった。

繊細で見事な彫刻に、タリスは指を這わせて触感でも感動を味わった。
顔を寄せて、熱い溜息を吐く。
細部まで埃が溜まることなく拭われているのも、神と祭壇への敬意の表れだった。
ファラトネスの姉君たちにも見せてやりたいくらいだ。
職人たちが知ったらとてもよい刺激になるはずだ。

「気に入ったかい」
「それは、もう」
「それを持っていかれたら困るけど、彫刻細工は持ち帰れると思うよ」
「それはぜひとも」
喜びの顔を上げてタリスは一瞬顔を曇らせた。

「これは私も気に入っているものだからね。無くなるととても寂しい」
そう言って、段に腰を下ろし祭壇の縁を撫でていた。
突然現れた人間に、タリスは少なからず動揺したが、心の揺れを押さえ込んで微笑んだ。

「神官か巫女なのか?」
「どちらでもないね」
中性的で整った顔立ち。
軽やかな耳障りのいい声。

「私はファラトネスから来た、タリスいう。聞き及んでいるでしょうが」
「ああ。そういうものだからね」
「記憶の共有。便利なものだ」
「特権のようなもの。しかし君たちより自由はない」
「そもそも不自由を感じたことがあるのか」
「君たちの視線で話してみただけのことだ。自由とはヒトが求めるものだからね」
周囲が賑やかになってきた。
大声で叫ぶようなことはしないが、巫女、神官が互いに囁き合って足音が増えた。

「ようこそ神さま」
迎えの儀式が始まる。

「いつもいきなりの登場なのか」
「そうだね」
「だったら準備する方も大変だ」
部屋にいた半数の巫女が外に散っていくのをタリスは遠巻きに眺めていた。

「前もって書簡でも入れておいた方がいいのか?」
「ヒトに気を遣う神も面白くていいが」
タリスが笑って隣を見た。

「他に二人いるだろう」
「アレスとラナーン」
「そう。二人にも会ってみたい」
「呼ばなくても来る」
会話が途切れ、衣擦れと足音が部屋に反響した。
隣で物言いたげな顔をして黙り込んだタリスに視線を落とした。

「何か?」
「現れた理由を知りたくて」
「解けかけた紐を結び直しに来た」
神門(ゲート)の結界のことか。
タリスは無意識に顎を引いた。

「昔よりあなたの出没回数が増えているという」
「珍獣か害獣のように言わないでほしいな」
神と言えど笑いもするし軽口も言う。
人間と変わらぬ風貌をしているし、ちゃんと二足歩行で地に足を付けて歩いている。

「いろんな場所で綻び始めている。ここも他に違わない」
「空間の裂け目か」
「お陰で昔とは役目が逆になってしまった」
「神の仕事?」
「そう。魔の流れを正しく導く、フィルターみたいなものだった」
散っていた人間たちが部屋に集まって列を作り始める。

「それが今や神門(ゲート)を塞ぐ栓として存在している」
流れをせき止めればどうなる?
神からの問いかけだ。

「決壊する」
「その日はそう遠くない。だがそれはヒトが望んだ結末だ」
神からの別離。
世界のシステムを神殺しで破綻させたのは他ならぬ人間の手だ。

「私たちはどうすればいい。私は崩壊を望まない」
「さて。私は私の役目を全うするだけだ。破壊された神門(ゲート)から魔が溢れだし、この地を染め上げるその日まで」
教えてはくれないのか。
その一言をタリスは呑みこんだ。
それは我儘と知っている。
彼女も紛れもないヒトの一部だからだ。

「さっき、何のためにここに来たのか聞いていたね」
神が段に足をかけて一段ずつ滑るように降りて行く。

「君たちは匂いを運んできた」
「匂い? 外部の人間がこの里に紛れ込んだからか」
「とても昔の、とても懐かしい匂いだ」
「私は何も感じない」
「私たちだけに感じられる匂いだからね」
タリスを振り返り、神は二つに割れた人の列の間を悠々と歩いていく。
タリスは祭壇から下りると列の外側を歩いて神を追う。
長い長い人の列は回廊を抜け、タリスらが昨夜酒席を持った広間へと続いていた。
列の途中に見慣れた顔が二つ並んでいる。
その前で神が立ち止まり、二人へと体を正面に向けた。

「ラナーンとアレス、だね」
二人が硬直した。
アレスは早くも身構えている。

「三女神。何とも高貴な香りだ」











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