Silent History 153





浴室に満ちる湯気の粒子が流れる向うで、二つの影が床に折り重なっていた。
湯の流れる音が二人の会話をかき消した。
上に圧し掛かっていた影が身動ぎし、密着していた細い腰を浮かせた。
下の影から伸びる手が、触れていた腰から滑り落ちるように力なく離れた。
蒸気の向うで蠢くシルエットに、アレスは目を凝らした。
名残惜しそうに顔を寄せたままの女、その長い髪は束ねられていたが、水濡れて乱れ零れた房が艶めかしい。
細い顎、折れそうな首、水を含んだ布が膨らんだ胸へと張り付いている。
布越しに女の姿態がそのままに現れる。
女が頬を寄せるもう一体の影は人形のように動かない。
女が体を剥がして横たわったもう一体の影の腕を、撫でるように取った。
手を引かれ、もう一体も息を吹き返したかのように上半身を持ち上げた。

膝を立て、床に肘をついたラナーンの裸体、アレスと彼との間に立ち込めた湯気を渡って、妖艶な美女が姿を現した。
昼間に前にしていた清楚な印象はすっかり置き換わっている。
流れるような仕草とゆったりとした動きはそのままだが、だからこそ品のある艶美さが際立っていた。

「いい格好だな」
鼻先で笑うようにアレスがマリューファの姿に目を細めた。
頬に張り付く髪を掻きあげて、彼女は顎を突き出した。
布を通して肌は透け、胸元は露わになっている。

「あの子、何者?」
恥じることもなく、マリューファは果敢に強い目でアレスを見上げた。

「デュラーンの男って、みんなああなの?」
「お前たちはみんなああなのか?」
マリューファの口角が僅かに上がる。

「襲われでもしたのかしら?」
平然と言ってのける。
アレスとの距離を縮め、胸板に手を這わせた。

「誰でもって訳じゃない」
「生憎、身持ちが堅いのを剥がす方が好きなんだ」
「燻ぶってるのじゃなくって?」
「拾い食いはしない主義だ」
マリューファはアレスに体を寄せ、顎を見上げた。

「ラナーンを落としきれなかったからこっちに流れてきたか?」
「あの子は、嫌い」
「興味を示さなかったからか」
「まるっきり、子供だもの」
強気な言葉とは裏腹に、目尻に涙が滲んでいる。

「相手にされなくて悔しいか」
マリューファは唇を噛んで容赦ないアレスを睨みあげた。

「あいつも、自分のことを嫌ってる」
「あの子のことを話す時は、人間らしい目をするのね」
手を伸ばしアレスの右頬を包む。

「誰かを愛するには、まず自分を愛さなければならない」
「あなたの言葉?」
「どうだったかな」
アレスは頬に熱を伝えるマリューファの手を剥がした。
手のひらを握りこみ、そのまま頭上に引っ張り上げる。
マリューファから小さな悲鳴が上がり、爪先立った足が突っ張る。
アレスの手に握られた手の骨が軋みをあげる。

「ふざけた真似は終わりにしよう。昼間の打撲、まだ痛むんだろう」
「どういうつもり」
悔し涙が痛みの涙に変わる。
アレスの空気が変わった。
棘のように全身に突き刺さり締め付ける。
これ以上打撲を増やしたいかと、無言で迫られる。
反応次第では手が握り潰される。

「こっちの台詞だ。これ以上下世話な話をしたくない」
捻り上げたマリューファの腕越しにラナーンを見た。
彼はゆっくりと立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。
体つきはデュラーンを出たときより男に近づいた。
だが、仕草も歩き方もまるで子供だ。
恥じらおうにも、恥じらう相手を女として見ていない。

湿った黒髪は艶やかさを増していた。
水を含んだ肌は透き通るように滑らかだった。
繊細な指が、マリューファの手を吊り下げているアレスの腕に縋るように絡み付いた。
懇願するようにアレスの腕を引く力に折れて、マリューファの手を下ろした。

「ここの人間の意思か」
一連の干渉についてだ。

「私たち個人の意思よ。あなたたちに危害を与えるつもりはありません」
「迷惑は十分被ったけどな」
マリューファは反省することなく体を引いてアレスと距離を取ると、ラナーンに振り向いた。

「外でお渡ししたいものがあります。後ほど」
体に張り付く服の裾を引いて礼をし、颯爽と浴室を横切って扉の向こうに消えた。
去り際の鮮やかな女だった。
しばらく間を置いて、アレスが黙り込んだラナーンを伴って浴室を後にした。
着替えにもたつくラナーンに手を貸すのは何年振りだろうか。

「懐かしいな」
袖を通し、釦を止め、畳んで置かれていた服の裾を広げた。
みんなで遊んで泥だらけになった、小さかったラナーン。
侍女が着替えを手伝うといったが、アレスの袖を握ったまま部屋から出さなかった。
結局泥塗れの服を丸めて床に置き、侍女が取り出した新しい服に着替えさせるのは、それからアレスか兄のユリオスの役目になった。
そのお役目を解かれたのはいつ頃の話だっただろうか。

「いつも以上に大人しいな。どうかしたか」
着替えが完了し、まだ湿っている頭に布をかけた。

「逆上せたか」
「大丈夫。だけどちょっと、夜風に当たりたい」
頭を冷やしたいアレスも同意した。
気分を切り替えてすっきりと眠りたい。

浴場の外に出ると長い回廊が伸びていた。
左に行けば大広間。
右に行けば回廊の最奥に神王妃の像がある。

回廊の手摺に腰を下ろしていた巫女が二人いた。
マリューファたちとは違う。
アレスとラナーンが回廊に踏み出したのを見て、手摺から滑り降りて音もなく二人に近づいた。
手には大きな荷物を抱えている。
楽器だろうかと眺めているラナーンの目の前で、巫女は荷に巻き付けていた布を解き始めた。
中からはラザフの家に預けているはずの剣があった。
受け取ってすぐに検分したが異常はない。

「我々に敵意が無いことの証に」
「敵意がないのはイスフェラの謝罪で承知している」
剣は二振り、一つ足りない。

「タリスは?」
ラナーンが剣を手渡した巫女の顔を見つめた。

「部屋に戻られました。同じ家屋にお二人のお部屋もそれぞれご用意しています。足元も暗いことですし、ご案内いたしましょう」
巫女は手にしていた灯りを持ち上げた。

「ああ、ちょっと。散歩、していいかな」
ラナーンが回廊の右手に顔を向ける。
灯りは点々と点っているが奥になるにつれ闇は濃くなる。

「構いません。案内を付けましょうか。お戻りの時刻を伺ってお迎えに上がりますが」
「平気だ。躓くほどの暗さじゃないんだろう」
「奥神殿の外周には私ども巫女がおります。灯りをお求めください」
二人はラナーンとアレスを見送ると、左に伸びる広間へ足を向けた。



「どうした悲壮な顔して」
「何でも、ない」
昔からそうだ。
ラナーンは素直に自分の内面を現さない。
だがこのところそれが顕著になっている気がした。
自分の出生についてあやふやのままで、アレスやタリスとの関係がぎくしゃくするのは当然だ。
だからこそ、頼ってほしい。
頼れるのは自分とタリスだけだ。
お前を守れるのも俺たちだけだと、公言して憚らないがそれもラナーンの心には深く打ち込まれていないようだ。
言葉にしても、態度に示しても、空回りを感じる。
信頼はされている。
なのに距離がある。
この違和感は何だろうと、考えてはいるが言葉にはできない。

月明かりが柔らかく回廊の柱を包む。
墨を落としたような濃い影が並ぶ。
何人かの巫女と擦れ違った。
帯刀して軽かった腰にかかる重みに安堵する。
用意された衣装はゆったりとしていて、腰回りを隠すのにちょうどいい。
長く軽い裾を夜風にそよがせながら、夜の音に耳を澄ませた。
視界に入る情報が闇で制限されると、他の感覚が鋭敏になる。
木々のさざめき、衣擦れの音、床を擦る足裏の音、息遣い、気配。
空気の堅さ。
お前は今、何を思っている。
聞いたところでラナーンは答えない。
彫刻華やかなファサードが、回廊の曲面から姿を現した。
堂々たる風格だが、いかめしさは和らいでいる。

祀ってあるのは女神だという。
彫刻は波紋のような緩やかな曲線を多く用いられ、凹凸も滑らかでドレープを思わせた。
奥神殿、その周囲には巫女が言った通り、まだ巫女や神官たちが身を寄せていた。
高台から里を一望できる、広く取られた奥神殿をテラスは一周していた。
一人で椅子にかける者、手摺に寄り掛かり月を眺めつつ話をする者、皆それぞれの時間が流れていた。
書物を手にして言い交わしている者たち、遠くからは清らかな歌声も微かに響いて、一角はサロンを思わせた。
視線は送られるものの、絡み付くような好奇や入室を咎めるような目ではない。
彼女たちの間を抜けて、奥に進むと木の扉が構えていた。
アレスが扉に手をかける前に、両側にいた神官が扉を押し開いた。
中は思った以上に広く、夜のせいか柔らかく穏やかな光が壁に点っていた。
二人で並んで奥に進み、見回した。
神はどこに。











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