Silent History 152





白濁した湯から腕を突き出して、湯をすくい取った。
たっぷりとした水に浸かったのは何日ぶりだろう。
考えるのを途中で止めて、鼻の下まで湯の中に引き込んだ。

旅をしていく道で、いつも目の前にあるのはアレスとタリスの背中だった。
アレスはラナーンの剣の師でもあるから当然だ。
タリスはそのアレスとほぼ互角の腕前だった。
共に腕の立つ二人の陰にラナーンはいた。

タリスは状況を楽しみ、好奇心で前に進んでいる。
アレスは。
彼はいつもラナーン望むものを与えてくれる。
だからこそ、この状況に満足していていいのだろうかと焦りが出る。
アレスがくれる気遣いや優しさに報いていない。
アレスが側にいるのは嬉しい。
同時に、ラナーンがアレスにできることは何か、いつも考えるが思い浮かばない。
アレスの情を受け入れることで、彼を縛り付けているのではないかと感じる。

ラナーンはもうデュラーンの子であることを捨てた。
それに従って同じくデュラーンから離れたアレスは、もう帰る場所はない。
血の繋がっていた父はずいぶんと前に失っている。
天涯孤独となったアレスを家族のように育てたのはデュラーンの王だ。
その王との絆をアレスは捨てた。
ラナーンについていくことで、デュラーンの王を裏切ったことになった。

「どうしてそのとき気付かなかったんだろう。大切な、ことなのに」
アレスの生き方を左右する瞬間だったはずだ。
ついてくると言うアレス、じゃあ一緒に行こうとちょっと遊びに出るかのような気軽さで彼を連れ立った。

意志薄弱。
真剣さが足りない。
流されるまま辿り着き。
言われるがままを受け入れて。
自分で何かをしたいと思って、実行したことはあっただろうか。

アレスも、タリスも。
出会ったシーマ、ラナウもラナエも。
みんな。
潔いまでに真っ直ぐに。

広い水面に両腕を広げた。
首を反らせて上半身を水面に寝かせた。
髪に湯が染みていく感触が、気持ちいい。
耳が水に沈み、外界からの音が閉ざされる。
聞こえる心臓の音。
米神を流れる脈拍。
白く大きな湯船から湧き上がった湯けむりは、大きく開いた窓に向かって吸われていく。
水の粒子たちは、黒い大気に溶けていく。
粒を追うように、掴むように指先を高い天井に伸ばす。

「おれに、何があるんだろう」
何をしてやれる。
悔しさと申し訳なさで、煙った空間が歪む。
目を閉じて、息を止めて、上を向いたまま湯の中に沈み込んだ。
涙が湯に溶ける。
目蓋の上に湯が被さり温かい。
鼻先まで沈み込み、体の力を抜いた。
このまま、眠ってしまいたい。
心地いい温度が体中を包み込む。

デュラーンでも、水の中にいるのが好きだった。
デュラーンの中にある泉で泳ぐのが好きだった。
城の地下を流れる水路。
女神の像は、水の中深くに沈んでいた。
それに触りに行こうと言い出したのはタリスだったか。
三人で、誰が先にあれに手を付けられるか。
ラナーンにタリス、それからアレス。
ユリオスには内緒だからな、とタリスに口止めされた。
酸素を胸に入れて、三人並んで飛び込んだ。

ラナーンが頭を下に、斜めに沈んでいく。
その隣でアレスが水を切って進む。
タリスは少し遅れていた。
像にしがみ付くように触れて、その顔を見た。
慈愛に満ちた、穏やかな顔。
母親はもうおらず、その顔も少しずつ記憶から薄らいでいったが、その像に少し似ていたようにも思う。
そう考えているうちに酸素が足りなくなった。
タリスは像に触れて早々に水面に向かっている。
上を向くと光を追って蹴って進む彼女の足が見えた。
まずい。
ラナーンは光に手を伸ばした。
アレスがその手を取ってラナーンを上へと引き上げていく。
苦しい、とラナーンの叫びがアレスに届いたのか、彼がラナーンの体を抱え込んだ。
アレスの首に腕を回してしがみ付いて二人で上っていった。
水面に顔を出したとき、先に水から脱していたタリスに脱力する体を引っ張り上げられた。
肺に流れ込んでくる酸素に喘ぎながら、あやすように背中を摩ってくれたアレスの手を頼もしく感じていた。

懐かしい思い出。
三人とも、あのときから変わらない。

あれから何年も経つのに。
変わらなければならないのに。




首筋に手を掛けられた。
肩甲骨まで手を回され、ゆっくりと引き上げられる。
何だ。
閉ざしたままの目を、水面に浮上したと同時に開いた。
眩しい。
そう感じるくらい長く沈んでいたのか。

「大丈夫!」
湯の中で体を引き起こされ、誰かの肩に頭を預けた。
背中の肌に、指が乗る。
そのまま湯船の端まで、湯の中を引き摺られていき縁に仰向きに寝かされた。
視界に飛び込んでくる灯りが眩しくて、目を閉じた。

何だ。
誰だ。
湯に残したままだった脚も湯から抜かれた。

頬が手で覆われる。
目尻に張り付いた髪を指先で摘み取られる。

瞬きを小さく繰り返して、眼前に覆いかぶさる影に目を凝らした。

女神像。
慈母の姿、それは何かに似ている。
目を閉じて、再び開くと影の輪郭が濃くなった。

セラ・エルファトーン。
水に突き落とされて、引き上げてくれた彼女。
同じ年恰好のはずなのに、ひどく優しく温かい少女だった。
目を閉じて、目蓋を持ち上げる。

アレス。
また、助けられたのか。
いや、違う。

マリューファ。
どうして、ここに。

「どうして?」
「体を拭く布を持ってきました。そうしたら、溺れていて」
「溺れて、ない」
「だって」
「服が、濡れてる」
「助けようとしたからです」
持ち上げた手が、濡れた彼女の脇腹に触れた。
頭が回らない。
少し、逆上せたのかもしれない。

「水をお持ちします」
覆いかぶさっていた彼女の口が動く。
情けないな。
いつも、誰かの世話になって。
ありがとう、と言おうとしたが喉が引き攣り声がでなかった。
目を薄く開いたままの目尻に、熱いものが流れる。
頭も体もふわふわと浮いたままだ。
どこにも定まらない。
居場所が見つからないようで落ち着かない。

「どうして泣くの? 鼻に水でも入りましたか?」
マリューファがラナーンの頬に乗せた手の、親指の腹で涙を拭う。

「あなたは私たちに似ているわ。私たちは痛みを抱えているから」
マリューファの唇がラナーンの耳に寄り、囁いた。
ラナーンは彼女の口を避けるように顔を横に向けた。

「違う」
「私たちは似た者同士。痛みは甘いわ。みんな、だからとても優しくしてくれる」
マリューファの手がラナーンの肩を押さえつける。

「そんなの、全然嬉しくない」
「嘘ばっかり」
ラナーンは震えた。
不幸面をしていた自分。
何もできないと嘆いていた自分。
何をどうすればいいのか分からない自分。
ただ口を閉ざし、感情を押しこめていた自分。
葛藤、そうすることを避けていた自分。
拒否も抵抗も意志もない。
そこに自分はいない。
すべてに対する嫌悪感が噴き出した。

「嘘。どこまで真実か分からない過去を聞かせて、同情を煽って、それで自分たちの思い通りになるとでも思ってるのか」
酷いことを言っている。
これは、自分だ。
過去を捨て切れず、逃げ出した故郷を見苦しいまでに引き摺っている。

「卑屈に閉じこもって、何もしないで。そんなのじゃ何も変わらない」
違う。
それは、自分のことだ。

「勝手なことを言わないで。あなたにそんなこと、言われたくない」
正論だ。

「私、あなたが嫌い。大嫌い」
ラナーンは顔をマリューファに向けた。
彼女の悔し涙がラナーンの頬に降ってくる。

「卑屈なのはどっち。何も考えないで、ただぼうっと立っているばっかり」
神王、その言葉は人の集まる神殿では、刺激してしまうから口にしてはいけない。
ラザフから聞いていたはずだ。

「何も、知ろうともしていないで、そんな勝手なことを言わないで」
「無力なんだよ。追いつけないんだ。変わろうとはしてる、でも」
「口ばかりね。あなたに芯はない。貫く強さなんてない」
知ってる。
助けてもらっているから分かっている。
未熟さや無知にイライラしている。
悔しさも情けなさもぶつける先が無い。
もやもやとした黒い煙はラナーンの中で燻ぶり、内側から喰っていく。

「あなたはずるい。優しそうな顔をして、真実を口にしない。一緒にいた二人にも。どうして?」
あの二人とはずっといたはずでしょう?
広間でラナーンたちの話をマリューファは聞いていた。
彼らの間にある空気を、客観的に見つめていた。
マリューファはラナーンの体の横に立てていた腕を曲げて、彼に体を寄せる。

「言う必要はない」
「また嘘。説明できないから、ね」
マリューファの耳の向う、天井から下がる灯りを見つめていた。
装飾の細やかなガラス玉に灯が点る。

ラナーンの耳元で話すマリューファの声が浴場に音として反響する。
タリスとアレス、二人に対しての遠慮に似た距離を感じた。

「恐がりなのね。二人に嫌われたくない?」
「ずっと一緒にいて恐いなんて感じるわけないだろ」
「ずっと一緒にいるからこそ恐いのよ」
「素性を隠さなきゃならないのはきみのほうだ」
密着したマリューファの体が熱かった。
堅い床に寝かされて、背中が痛む。

「そうね」
「きみとおれを一緒にするな。ここのひとたちの過去は痛ましいと思う。でも今のきみには何も感じない」
「冷たい人」
「初めて言われた」
「愛情を返そうとしたことはある? 恋をしたことは」
「さあ」
「他人と触れあうことを恐がっていては、誰とも繋がり合うことなんてできない」
マリューファが体を起こした。

「体は、ずっと冷たいままよ」
子供にするように、その額をラナーンの額に合わせる。

「真実を語りあえる相手がいないなんて、寂しいもの」
「それは、きみの話か」
「さあ」
「ひとつだけ聞きたい。おれは、似ているって。ここの子供にも言われた。誰に?」
「この里を歩き回ればいい」
マリューファがラナーンの腕を取る。
肘から手首に指を滑らせて、手のひらを握りこんだ。
そのままゆっくりとラナーンを引き上げた。

「お迎えが来たようね」
立ちあがったマリューファの足越しに、軽装のアレスが立っていた。

「水と着替えは外に用意しておきます。お休みなさいラナーン」
声を掛けられて、まだくらくらする頭を振ってマリューファの背中を見上げた。
彼女は一度だけ振り返る。

「あなたにとって、冷たい夜になりませんよう」











go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page
















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送