Silent History 140






控えめだが確かな固いノックが三度耳に届いた。
一日の仕事を終え、医学書で気になっていた項目を調べていたところだ。
デュラーンからの客人が現れたことで、宮仕えしていたころの記憶が少しずつ浮き上がってきた。

人も多くさまざまな症例を前にした。
必要とあれば広大な史料室から好きなだけ資料を引っ張り出し、まる四日風呂に入るのも忘れて閲覧室に籠ったこともあった。
入口に呼びかけると、薄く扉が開いた。

薄暗い室内の光に青白い顔が照らし出される。
仄明るい灯りの下で、彼の漆黒の髪は濡れたように艶やかだ。
デュラーンにはない色をしている。
その大きな瞳も、女と見紛う細い輪郭も父であるディラスとも兄であるユリオスとも似ているとは言えない。
今は亡き王妃の顔を思い出そうとしたが、その柔和な顔つきとも重ならなかった。

ディラス王が他に産ませた子だろうかとも考えた。
だとすればファラトネスの王女も気付いているはずだ。
第一あの堅すぎるほど堅く、亡き妃を深く愛していたディラス王が他に子を生すとは考えにくい。

椅子を引き、デュラーンの子へ座るように促した。
こちらの涙を誘うほどに傷心で蒼白な顔をしている。
不用意な一言でここまで彼を貶めてしまったのが悔やまれる。

「あんなことをいったけれど、僕が答えられることは少ないんだ、本当に」
「知っていることだけでいいんです。おれは、今混乱していて、どうすればいいのか分からない。今のままでは何もできない」
「君のお母様、デュラーンの王妃は元より体の強い方ではなかった」
ファラトネスのラウティファータ女王は若く活発で幼い姫君たちと走りまわっていた。
同じほどの年回りのデュラーン王妃も仲はよかったが、ラウティファータと同じように駆けまわったりはできなかった。
一人子を生し、日常生活を送るに不自由は少なかったが、ユリオスの
相手をして庭を跳ねまわることはなかった。
ラザフが視線を滑らせた机の上に、白く厚い装丁の冊子が置いてある。
王妃の病症を記した彼のメモだ。
正式なカルテはデュラーンに置いてきたが、彼が走り書きしたものについては他の書類とともに故郷に戻って来ていた。
もう二度と胎を結ぶことのできぬ体であると記録に残っていた。

「おれが、母の子ではないと。それだけは確かなんだな」
祈るように固めた拳の上に額を乗せて体を縮こませた。
震える肩をラザフは手のひらで温めることしかできない。

「その手記を見せてくれ」
赤くなった目を上げて凛と口を引き結んで、ラザフを睨み上げた。
今手にできる唯一の証拠だ。
子宮、病巣、切開。
言葉を追う度に母との絆が切り刻まれていく。

それでも母は母だった。
有り余るほどの愛を注いでくれた。
兄と何の変わりもない、愛で包んでくれた。
死に別れるまでの僅かな時間だったが、母の温もりは指の先まで染みついている。
別れて泣いて、泣いて、せめて心の中から消えないようにいつも思い出すようにしていた。
薄れていく記憶を繋ぎ止めるように、母が好きだった花を部屋に飾った。
母が歌ってくれた歌を口ずさんだりした。
庭を歩いた。
兄やタリスらとはしゃぎ回った木のあたりから、緩やかな丘を見上げると母が傘の下で微笑んでいた。
同じように丘の下に立っては思い出を重ねて、芝生の頂上を見上げた。

「では父が」
「デュラーン王は厳格な賢王だった。僕がデュラーンにいたときも、心の底から王妃を労わり、王妃だけを愛していた」
弱っていく王妃を前にして死への心構えはある程度できていたにしろ、愛妻を失った王の沈みように城は廃城のようだったという。
王は人を遠ざけ、一人城の奥底に籠り王妃を悼んだ。
しかし国を放り出すなど責任感の強いディラスにできるはずもなく、責を全うすべく王座に戻るも執務の間に心ここにあらずと窓の外を眺めることしばしばだった。
孤独と傷心の彼を癒したのは二人のまだ小さな息子たちだった。
二人は父の側から離れようとはせず、ラナーンなどはディラスの膝に纏わり付いたままだった。
ユリオスは父の手を引き、母とよく歩いた庭園を巡った。
まだ治りきらない傷を抉るようなものだったが、涙を堪え唇を噛み締めながらもディラスは庭を毎日歩いて回った。
朝と夕、二度の散歩では必ずユリオスが手を引きラナーンがディラスの服を握り込んで側を歩いた。
庭園は庭師たちによって変わらぬ清らかさと美しさを保っていた。
瑞々しい季節の花、青々と目に鮮やかな若葉、苔を拭いとられた噴水、掃き清められた白い土道、縁石は欠けることなく滑らかに小路の曲線を飾っている。
何年も見続けた、目に馴染んだ庭のはずだが、たった一つ欠いている。
そこにいるはずの笑顔、小さく愛らしい笑い声、太陽の下で手招きする白い手は決して戻ることはない。
二度と触れることができない王妃、死の現実と冷たさを前にしても、王は新たな温もりを求めようとはしなかった。
何者も王妃の代わりになれない。
王の身近にいる女人はディラスの姪、ユリオスとラナーンの従妹に当たるエレーネくらいのものだった。

「ディラス王が他に妃を持つなどあり得ない」
ラザフは断言した。
ディラスの血縁の子供を引き取ったという可能性もなくはない。
だがディラスの近親で我が子を手放さざるを得ない、事情のありそうな人間はラザフには見当たらなかった。

「デュラーンに帰るのか」
「帰る」
言葉を呑みこんで、泣き腫らした目に一二秒目蓋を下ろした。

「そのつもりはない」
目を開くと同時にラザフを正面から見据えた。

「君の連れからデュラーンを出た話は聞いた。王のやりようは、ディラス王らしからぬ強引さだとも思った」
エレーネとの婚姻をラナーンが承諾するはずがないと知ってのことだ。

「君はディラス王の愛情を信じないのか」
「そうじゃない」
ラナーンは首を振る。

「最初は父の考えていることがまるで分らなかった。もちろん今でも分からないけれど」
ラザフからはラナーンが王妃の子でなく、またディラスの子でもないことしか聞き出せなかった。
では自分の所在はどこにあるのか、誰の子なのか、今側にいる人間は誰も知らない。
絶望だ。
行き着いた先には道はなく、ただ越えられない壁が前を塞いでいた。
抜け道もなければ、壁に亀裂もない。

「父はおれを愛してくれた。母もおれを愛してくれた。それが事実で、真実で、すべてだ」
嗚咽がラナーンの口を塞いだ。
両親を憎むことなどあり得ない。
それ以上望むものなどないはずだ。

「だけど自分が何者か分からない。浮いてしまった体をどこにやればいいのか分からない」
歯の間から掠れた声を絞り出した。

「不安で堪らない。自分が自分でなくなる気がして」
膝の上で震える両手は白く血の気を失っている。
自分の一言でラナーンをここまで叩き落とし、希望の一粒すら与えないで放り出した。

「しばらく逗留してほしい」
何事かとラナーンは目を瞠った。

「今となっては部外者の身だが、でき得る限りの情報を探ろうと思う」
デュラーンが長きに渡り秘匿していた情報に触れようと言うのだ。
ラザフ自身の身にも障りがある。

「それがせめてもの僕なりの責任の取り方だから」
「おれはもうデュラーンの人間じゃない。すぐにでも出て行くべきなんじゃ」
「君はディラス王の子だ。血がどうであろうと、それは確かだ」
ラナーンの肩に手を置いてラザフが立ち上がった。

「君は変わらない。あの二人にだってそれは分かってるはずだ。とにかく腹に何か入れよう。いいね」
ラナーンが微かに首を動かしたのをラザフは肯定と受け取った。
妻に言えばすぐに何か拵えて持ってくるはずだ。
ラナーンも泣き腫らした顔を今は誰にも見られたくないだろう。



翌朝になってアレスがラザフの診療室を訪れた。
鼻筋が通り整った顔をしている。
成長期の十代だが、上にただ細長く伸びるだけでなく筋肉も育っており大人の男一人くらい軽く伸してしまえる。

三人の旅路を聞いたが、彼が引率したからここまでやって来られたと言っても過言ではない。
彼の行動力と計画性には感心した。
タリスが彼をラナーンの保護者だと冗談混じりで言っていたが、事実だろう。
彼の変わらない表情をしばし観察した。
あと二三年したら完全に子供らしさは抜けて引き締まり、精悍さが増して回りが放っておかなくなる。
最初の印象からしてもそうだったが、彼がひどく大人びて見えたのは、その腰の据わりようだった。

「もう少し、動揺しているものと思っていた」
「動揺はしていますよ。混乱だってしています」
その動揺と混乱の種を落とした張本人が言うべき言葉ではないが、思わず口をついた。

「だけど正直なところ俺にとって問題はラナーンが何者かってことじゃないんだ」
言い切ったその顔は微かに微笑んですらいた。

「ラナーンが絶望の縁で胸を痛めたり、自暴自棄にでもなりはしないか、それが心配なんです」
「そういうものなのか」
「俺はずっとあいつを側で見てきた。あいつが何であろうと、変わらない。あいつが積み重ねてきたもの、俺が見守り続けたものは変質しない」
「それを彼に直接伝えてほしい。彼女も思いは同じなのだろうか」
「タリスもラナーンを本当に大切に思っている。人間の人格が形作られるのはその周りの環境だというのがタリスの考え方だからな」
「それを聞いて少し安心した。僕は僕のできる精一杯をしようと思う」
ラザフはそこで言葉を切り、時計に目を向けた。
今日は往診の予定が入っている。

「不謹慎、かもしれないが。今あいつを支えてやれるのは自分しかないと思うと、少し嬉しくもあったりする。タリスに言わせれば歪んだ愛情ってことらしいが」
「歪んでいようが何であろうが、今彼に必要なのは好意と温かさだ。自分が必要とされていると感じている人間は強い」











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