Silent History 138





冷たくなった朝食の皿を下げながら、ラザフの妻は辛そうに目を細めた。
部屋に閉じこもったままのラナーンを我が子のように心配したが、今はそっとしておくのが一番だと、扉越しに声をかけるだけで扉を叩く手を引いた。

「申し訳ない」
タリスはしばらく医者の家で世話になりそうなことを詫びた。

「申し訳ないのはこちらのほう。本当に、何と申し上げていいのか」
妻はもう一つの皿に手を掛けながら首を振った。
夫のラザフも書斎に籠ったきり昨夜から姿を見せない。
飾り棚に置いてあった酒瓶も消えている。

「こんなことがあった後では居心地は悪いかもしれませんが、どうぞお体を休めて下さいね」
妻のその言葉が今のタリスやアレスには一番ありがたかった。

「あなたは一体どこまでを御存じなのです」
台所から引き返してきた妻にアレスが間を置いてから尋ねる。
タリスの前に食後の茶を出す彼女の手が止まった。

「詳しいことは何も。夫は誠実で仕事熱心な人です。デュラーン王室内での仔細は妻である私にすら口を開きませんでした」
ラザフは王室付きの医師だった。
デュラーン王妃の主治医であり、彼女は一患者だった。

「デュラーンなどとは比べようもないこの小さな町で、それなりに忙しく働いてきました。皆さんも頼ってきてくれて、それが本当に嬉しいようでした」
デュラーンでの華やかな生活から一転して質素な家へと移った。

「私はデュラーンにいたころのあの人をよく知りません。ですが二度ほど、遠いあの地から夫に手紙が届いたことがありました」
アレスの前へもカップを置き、彼女も二人の向かいに腰を下ろした。
冷めないうちにと勧めながら、彼女は俯き加減で唇を湿らせた。
何年も前の話だ。
それが、デュラーンからの客人が来るなど想像もしていなかった。

「一度目は王妃が崩御されたとの知らせでした。ラザフはすぐにでも馳せ参じたいとの思いでしたが、身籠った私を残して行くことに躊躇い、第二の故郷を踏むことはありませんでした」
以降はファラトネスのレンとのやりとりが続くことになるが、王室の動向についての話はほとんどしなかったという。
レンはレンで、ラナーンのことを他に漏らすことはなかった。
成人を迎えるまで王室直系については公にしないというのが、デュラーンのしきたりだったからだ。

「二度目はユリオス様ご成人の知らせでした。その折にもご挨拶へとの思いもあったようですが」
ラザフの父が亡くなり、医者として忙しくなってきた頃だった。
デュラーンに向かうとなれば二三日の旅程という訳にはいかなくなる。

「デュラーンの王都に比べれば小さな町ですが、ラザフを頼って来てくださる方はたくさんいらっしゃいます」
奥の方から重く木の床が軋む音が近づいてきた。

「ああラザフ。朝食は」
「今日はいい」
洗面所へと消えた姿が再び食堂に現れ、少し目の下に陰の残る顔をタリスとアレスに向け呟いた。

「すまないな」
そのまま併設される診療所へと歩いて行った。

「ファラトネスの友人とはファラトネスの内情やデュラーンの血族については一切やりとりはしていないようでした。友人のレンという方、たしかタリスさんの世話係でいらっしゃるとか」
「秘書か補佐と言ってほしいな」
妻は少し唇を緩めた。

「たいそうな堅物だとラザフは言っていました」
「確かに無駄なことは言わない。規律、規範だのにはうるさい」
「好き放題暴れまわるタリスの手綱かハーネスだ。またの名をお目付け役」
「ラナーンさん、あの方の生まれについてこちらに届かなかったのは、デュラーンの掟のため、友人の誠実さのため。どうか、ラザフの口にした事実が誤りであってほしい」
彼の誤解であってほしい。
デュラーン王妃の体はラザフが帰国した後、奇跡的に回復し二子を懐妊していたのだと、そうあってほしい。
ラザフの妻は机の上で組み合わせた両手を、祈るように強く力を込めた。

「私にはそれ以上は何も分かりません。ですが彼が、あのまだ子供を抜け出せていない彼がこんな遠い地で、こんな辛い事実を知り得たとするならば、私は」
「そのお言葉だけで私たちは十分です。後は私たちが、時間を置いて直接ラザフに聞きます。それはご容赦いただきたい」
妻は黙って俯いたまま、二三度頷いた。






タリスがアレスに町へ出ようと提案した。
今はそれぞれ別れて考えた方がいい。
ラザフが悪いわけではない。
彼は事実を口にしただけだ。
ラザフの妻は無関係な上、騒動に巻き込まれた被害者だ。
それにも関わらず、温かい食事と部屋を用意して好きなだけ使っていいと言ってくれる。

「アレスは、知っていたのか」
「まさか」
タリスは一瞬のアレスの目に浮かんだ動揺を見逃さなかった。
襟元を引っ手繰るように掴み、素早く足を払って後ろによろけたアレスの背中を大木に叩きつける。
一瞬の出来事に受け身も防御も取れず、辛うじて不安定な斜めの体勢で体を立たせている。
タリスはアレスの襟を捩じ上げた。
ボタンの糸が弾ける。

「どういうことだ」
「真実のはずがないと思い続けていた。疑惑ですらなかったんだ。俺の中ではな」
抵抗する力もない。
普段なら動作を先読みしてタリスの指を避けている。

「どういうことなのか聞きたいのは俺の方だ」
脱力した緩い動作でタリスの胸元に組み付いた腕を払い除ける。

「お前は」
溜息一つ落とした後、苦笑交じりでアレスの胸を突いた。

「ラナーンのこととなると途端に腑抜けになる」
「何だと」
「腑抜けで軟弱で女女しい奴だ」
「おい」
「事実じゃないか」
タリスはどこか視点の浮いているアレスを睨み上げた。

「事実だろうが!」
体の横に垂らしていた右腕を僅かに後ろへ引いたかと思うと、拳をアレスの頬を力一杯殴りつけた。
アレスは踏み止まったが、殴られたことも信じられないように目線は地面に落ちている。

「しっかりしろ! お前が腐っていてどうする! だれが今、あいつを支えられると思ってる。私で、お前だろうが」
もう一発気合を叩き込もうかと拳を握りなおしたとき、アレスが彼女の拳を大きな手のひらで包み込んだ。

「悪い」
「冷えてきたか?」
体を伸ばして木の幹に背筋を密着させた。

「今できることをしようか」
「ラナーンを部屋から引きずり出すとでも?」
「そっちの問題はしばらくラナーンの様子を見守るということでいいだろう」
殴ってから遅いが、タリスは周囲を見回した。
診療所の回りで暴力沙汰など客の身分でとんでもないことだ。
幸い裏口からでたこともあり、家の前の道には人もいない。
また、これも殴ってから分かったことだが利き腕で力一杯殴りつけたので、完治していない傷口が痛んだ。

「腕、痛むのか」
すかさずこういうフォローをするところが憎らしい。

「私が殴る前に気付け」
腕に触れようとするアレスの手を払い除けた。

「それで、できることっていうのは」
「あの医者から聞き出す。何かの間違いだと信じたい」
「その前に、アレスが知ってることを話せ」
確信などなかった。
ただ酔ったデュラーン王が一言、二言呟いたのを聞いただけだ。
その時はほんの少しの違和感を覚えたがすぐにかき消された。
王は息子を深く愛していたし、亡き王妃も心からラナーンを愛していた。
兄のユリオスも従妹のエレーネも回りを取り巻くすべての人間が彼を愛していた。

「俺が知っているのはそれだけだ。あとは医者に聞くしかない」
「ひとまずはお互い落ち着こう。まだ足掻くには早い」
タリスがラナーンと出会ったときは、まだ王妃は存命だった。
体の弱い人だとは聞いていた。
まだ若く美しかったがラナーンやユリオスとともに走り回っている姿は見たことがなかった。
庭に建てた大きな傘の下、タリスの母であるラウティファータ王がデュラーン王妃の側に寄り添っていた。
彼女らが子供らを見る目は慈愛に満ちていた。
ラウティファータですらおそらくラナーンの生まれについては知らなかったのだろう。
アレスがラナーンと出会ったのはそのデュラーン王妃が崩御した頃だった。











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