Silent History 135





一人国境から離れ、荒野を進む。
手に入れた足は次の町で捨てた。
分かれ道はない。
迷う時間はもう過ぎた。
後悔も泣き言も終わったこと。
一人で地面を踏みしめ、ただ行く先のみを見据える彼女の目は強く、澄んでいた。

領域内にはバシス・ヘランの追手たちが散っている。
それでも危険を潜りってでも戻るべき場所が彼女にはあった。

息を潜めて注意を払い、耳を欹て気配を探る。
大きな街に着き安心する間もなく、背を壁に凭せ掛けて地図を広げた。
街の地図、広域図。
見比べ、筆を入れながらルートを定める。
地図をこれほどじっくりと眺めたのは久しぶりだ。
いつも流されて生きてきた。
あちらに行けと命じられれば向かい、そっちだと指されれば歩いていく。
いつも何かに繋ぎ留められ、結局何も決められなかった。
もうそんなのは嫌だから。
ラナウとラナエを繋いでいた鎖は、ラナエが引き千切った。
彼女が命と引き換えにしたラナウの自由。
再び鎖に絡め取られてなるものか。
今度捉えられれば、バシス・ヘランはラナウの意思を何としてでも捻じ込んでカリムナを作りあげようとする。
ラナウはラナウでいられなくなる。

地図を丸めて筒に押し込む。
腰に巻き付けた最小限にまとめた荷に筒を結わえた。

この街は豊かだ。
活気に満ち、物や情報が目まぐるしく行き交う。
言葉が飛び回り、笑い声が上がる。
バシス・ヘランを思い出す。
あの街も賑やかだった。
中央にカリムナがいて囲むように街が形成されていった。
カリムナを失った空っぽの街の人間たちはその存在をまだ信じている。
彼らにとってのカリムナはまだそこにいる。
ラナエが消し飛んだことを知っているバシス・ヘランの者たちは周辺に知られる前に、何としてでも新たな支柱を据えるはずだ。

「水の音」
周りを見回してみるが水路は見当たらない。

「ここから?」
背にしている壁に耳を押し当てた。
壁を伝って音が流れてくる。

水の揺蕩うカリムナの間。
懐かしいと思うなんて。
それほど時間は経っていないはずなのに。

壁に両手を押し当て、体を離すと地面を削るように力強く歩を進めた。
闇が迫るまでまだ時間がある。
まだ行ける。
一番手の薄いルートを選んだ。
森の話はラナエにしかしていない。
二人きりでいられるときに話して聞かせた。
バシス・ヘランからすれば、手は出せないが受け入れられる存在ではない。
人の足で小さな繁栄を願う森に住む流民たち。
一方、それではゆっくりと朽ちて行くだけだとカリムナを立てたヘランの民。
後者に身を置くラナウと森とは密接には結びつかないはずだ。
ヘランの追手は領内を出、国境を越えると踏んでいる。
実際は国境に背を向けバシス・ヘランとは反対側から森に入ろうとしている。
ヘランは先んじて機動力の高い湯女を送り込んだが、第二陣、第三陣と送り込んでいる。
カリムナを立てねば滅びるだけだ。
死を背にした彼らは広い大地の中、たった一人の女を探す。

時間を消費すればするほど動きは縛られる。
先に森に到達するか、捉えられるか。
人の意思をヘランに奪われ、人の肉体も地脈に食われそ、れでも生き続ける道。
誰のために身を捧げよというのか。
そこにはもう何もないというのに。

身を震わせたのは後ろ向きな想像が脳裏を掠めたからではない。
絡みつくような濁った空気を感じたからだ。
背中に汗が浮かぶ。
冷たい汗というのを体感している。
角を曲がり、細道に入る。
広い街だからこそ、一つ奥へ入れば道は毛細血管のように細部まで行き渡っている。
商業地区に隣接して密集度の高い住居地帯が纏まっている。
広い道に逃げ込むより本能的に狭い居住区に飛び込んだ。
角を曲がり、奥へ奥へと踏み入っていく。
すれ違えないような隙間か道かという路地を駆け抜け、壁に手をついて足下に転がる塵箱を飛び越えた。
どこか身を隠せるような空き家か街から抜けられる通路などないか。
方角に注意を払い、街の外周に近づいているはずだが都合のいい抜け道などなかった。
露店の前を駆け抜け、石の階段を跳ね上がる。
足音は聞こえず、気配も遠ざかった。
距離は離せたようだが、巻いたという安心感はまるでない。
捕まるのは時間の問題のように思えた。

目に着いたのは露天商の陰に隠れるように少し奥まった店だった。
庇もあり、縮こまるか押し潰されそうに小さな店に、嵌めこんだように老婆が座っていた。
売り物もなくただそこに座っているだけだが、妙な存在感がラナウを捉えた。
占いか。
通り過ぎようとするラナウと店主との目が重なる。
逃げ場もない、地理も危うい彼女は縋れるものならば何でも縋る。

「街の外に出たいの」
店主に顔を寄せて小声で強く迫った。

「情報かい」
老婆が垂れた布の下から眼光鋭い目を覗かせた。
只者ではないことが一瞬で知れる。

「幸いこっちはそれを生業としていてね」
「道を聞きたいのよ」
「金は」
「あるわ」
腰の袋を探り紙幣を老婆の前に押し出した。

「全然足りないね」
「精一杯よ」
「あるいは、情報には情報を」
「情報?」
「知ってること。価値があればこちらも相応の情報を与える。単純だろう」
それが情報屋だ。

「私は」
言うべきか、口を閉ざすべきか。
しかしこれ以上時間は浪費できず、動くこともできない。
捨てるものと守るものを秤に掛けた。
バシス・ヘランにはもうラナエはいない。
守るものはそこにはない。

「私はカリムナの姉妹、ラナウよ。カリムナは死んだわ。バシス・ヘランは支柱を失い崩れていく」
「中に入るがいい」
話に興味を持ち、老婆はラナウを奥へと匿った。
表は老婆一人がまるで門番のように店で構えていたが、老婆の後ろに掛かる簾を抜ければ奥は深かった。
長い通路のように先が続いている。

薄暗い通路でラナウの額に何かが触れ、声を殺したまま飛び退いた。

「大丈夫だよ。ほら、入っておいで」
幾重もの簾を手探りで潜り、抜けた向う側でようやく物の形が見える明るい場所に出られた。
占いかと思ったのもあながち外れではない。
柔らかい光に照らされて、街の様子とは趣の違う独特の空間が開けていた。
呆けているラナウの腕を引いて無理矢理に椅子に座らせる。
手首を掴んだのはラナウより年が上で、二十も半ばを過ぎた女性だった。
細い体に吸いつくような素朴なドレスで、長い髪は編み込まれていた。
縦に長い彼女もラナウの前に椅子を引いて腰を下ろすと、親しい友人を前にしたような寛ぎようで傍らの円卓に肘をついた。

「話してみなよ」
「何を」
「ばあちゃんに話した物語の続き。面白かったらさ、あたしが逃がしてあげる」
白い歯を見せて屈託なく笑い、重ねて着けた腕輪を鳴らしながら手を振って話を催促した。

「面白いものなんて何一つないわ。全部置いてきたものだもの」
膝の上で両手を組み、祈るようにラナウは目を閉じた。






「女を見たな」
掠れる小さな声は通りを行き交う人の話し声にかき消された。

「女なんざこの街に半分はいる」
「知っていることを吐け」
「あんたは何も分かっちゃいないね」
一つ殴れば打ち倒せる。
骨の上に皮が乗っかっているような老婆が言葉だけは強気だ。

「一人で走ってきた女がいるだろう」
「さあ。目が悪いもんでね」
「匿うと無事でいられないのは分かるな」
「あんたがヘランの人間だからか。だったらもっと上手くやりな」
「下らないことで時間を無駄にしたくはないんだ」
体を端から切り刻まれるのはどうだと、老婆が両手を重ねて置いていたすぐ側に短剣を叩きつけた。
木製の台に斜めに剣が立つ。

「聞く相手を間違っているね。知りたきゃ金を積みな。情報屋を前に何をほざく」
短剣を引き抜いたヘランの男は、紙幣を二枚投げ出すと宙で刺し貫いてそのまま短剣を台に突き刺した。
紙幣を抜けて直立する剣は、老婆の手の薄皮を裂いていた。
それでも店主は小指一本動かさなかった。

「女はどこだ。白いローブを着ていた」
乱暴な男の質問に、老婆はようやく手を持ち上げた。
皺の寄った左の指先は真っ直ぐ老婆の左手にある階段の上を示した。

「偽ったら只では済まさん。脅しじゃないことは分かっているな」
「こっちだって商売だ。貰った金相応の仕事はするさ」
男が去り、どこからか現れたもう一人のヘランの人間も階段を駆け上っていく。

「そうさ。金の分だけはね」
老婆は老いた指を再び胸の前の台に重ねた。

「白いローブの女は確かに階段を上って行ったよ。だがそれが探してる女かは知らない。これっぽっちの金で人の命や人生を買おうだなんてね」






話が一区切り着くと、女は徐に立ち上がり円卓の向うを探った。
カーテンの中を探り布を引っ張り出す。
袋も取り出すと少々荒っぽく取り出した布をねじ込んだ。
何をしようとしているのかラナウには分からず、ただ椅子に腰を下ろしたまま女の手元を見ていた。

「ああ、喉が渇いた?」
水差しと器を目の前に置くと再び作業に戻り、詰め込んだ袋を上から押し潰した。
勧められ、水で口を湿らせると少し落ち着いた。

「腰の荷物、貸して」
やろうとしていることが分からず戸惑ったのを見て、女性は不快な思いも急かすこともせず無邪気に笑った。

「大丈夫だって。盗ろうなんて考えてないって」
腰の袋を外しをラナウは女に手渡すと、女はそれも袋に押し込んだ。
中の空気を押し出しながら口を折りたたみ、紐で丁寧に縛りつけていく。

「鞣革の袋だよ。ちゃんと油が含ませてあるから丈夫だし、これなら耐えられる」
「何をするのかさっぱり分からないんだけど」
「逃げるんだろ」
「ええ、でもそれとこれは」
「こっちだよ」
袋を提げたままラナウに背を向けて歩きだした。
ラナウは手にしていた器を机に置き、彼女の後を追う。
この家の構造は複雑すぎる。
どこまで奥があるのか、通路の途中で香辛料の匂いがし、その先からは水音が小さく聞こえてきた。

「こんなところに水路が?」
「水は苦手? なわけないよね」
話で出てきたバシス・ヘランは水に満ちていた。

「水は流れてる。一本でね」
街の地下には水路が張り巡らされている。
大水路から枝分かれした一本が彼女たちの足下を這っていた。

「水場だわ」
掘り抜かれているというよりは、地下水路の上に穴を開けたというような四角い水場だ。

「そう。飲み水はここで汲んで、野菜を洗ったりするのはここから運んでそっちで洗うんだ」
流れは見えるかどうかというほど緩やかなものだった。

「服を脱いで」
いきなりのことにラナウは固まった。

「この水路を潜れば隣の部屋に抜けられる」
「ここを泳げっていうの?」
裸で。
ラナウの目が丸くなる。

「だからちゃんと袋に入れた。服と荷物をね」
泳げるといっても密閉された水路を泳いだことなどない。

「数十秒息を止めるだけ。後は水の流れのまま泳いで行けばいい」
「どこまで行けばいいの。水路なら先はどこまでも続いているでしょう」
「水の中で目を開けて。中は薄暗いだろうけど、水の中に光が入っているのが見えるから。そこが隣の部屋」
隣は倉庫で、同じように水場がある。
光を辿って上に泳げば、今度は水場から上がれるからと説明した。

「倉庫を抜ければ街の外れに出られるよ」
ラナウは礼を言い、服を床に落とした。
女は荷物を裸のラナウの背中に結びつける。

「健闘を祈る」
「ありがとう」
「あたしたちはカリムナがいなくても死にはしない。あたしはあたしの足でここに立ってるんだ」
ラナウの肩を水場へと押し出した。
身が凍るような冷水に足先を浸すと、ラナウは息を深く肺に入れ、ゆっくりと水に身を沈めた。











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