Silent History 125





カリムナの間の厚い壁が震える。
立てないほどの地響きではないのに、膝が震えた。
これは変革か、崩壊か、滅亡か。
その先に再生はあるのか。
あるいはすべて無に帰すのか。

それでもわたくしは見届けねばならない。
受け入れねばならない。

一際大きな揺れが体を突き上げた。
堪え切れず壁に縋った。

目の前は青い嵐だった。
カリムナの祈りの世界でしか見ることができない、地脈と言う名の青の流れ。
それが現実世界で可視化し、噴出している。
奔流は収まるどころか部屋の四方を突き崩さんばかりに荒れ狂う。

嵐の中心にカリムナが座する。
傍らには遠い異国の貴人が愕然と吹き荒れる青の壁の前で座り込んでいる。

青い光と風は、カリムナの間に満ちる水を巻き上げ渦を巻く。
激化する嵐に他の人間も気づくだろう。
カリムナは前を見据えたまま動かない。

これは彼女の選択だ。
この嵐は彼女が秘めてきた感情そのものだ。
白波のない水面の下に抑え込んできた激情だ。

人としての生を踏みにじってカリムナに仕立て上げた。
彼女のすべてを奪ったつもりでいたが、彼女は捨てられなかったものがある。
嵐の中にいて、穏やかだった。
自暴自棄な薄笑いなど微塵も見当たらない。
彼女は極めて冷静だった。
彼女は待っているのだ。
訪れを、そしてそれは終焉を意味する。






荒々しい衣擦れと靴音が扉の向こうからした。
どうしたことだ、騒々しい。
アレスは地図を小さくまとめて、鞄の中に押し込んだ。
先日、カリムナの怪現象に巻き込まれたばかりだ。
アレスが目を離した隙に、またカリムナの元に向かうなど、敢えて渦中に飛び込む行為は理解に苦しむ。
カリムナの指示らしいが、気分が優れないと断ればいい。
過ぎてしまったことを引きずっていても仕方がない。
溜め息を小さく机に落として椅子を立ち、音を落とし気味ながらも少々乱暴に叩く扉を開いた。
扉を開くと息を乱した女が一人、瞳は同様に揺れている。
部屋に続く一本の廊下には他に人影はない。

「何の用だ」
「荷をお纏めください。出立のご準備を」
「フリア、だったな。いきなり何だ。ラナーンはそっちに行っているはずだ。訳を話せ」
殺気を含んだ低い声に、フリアは怯んだ。
しかしここで黙り込んでいる時間はない。

「ここはじきに崩壊します。ご出立下さい。タリス様とラナウ様へも側女の一人が参りました」
「ラナーンはどうしたと聞いている」
「カリムナが、ラナエ様が地脈を」
カリムナの世界を覗いたことも、カリムナでもないフリアが現象を説明するには情報が不足していた。
だがアレスにはその一言で状況を察した。

「またか」
しかし今度の規模は以前の比較にならない。
一刻を争う。

「タリスとラナウはここに戻って来るんだな」
「はい」
アレスは寝台の傍に寝かせてあった剣を素早く帯刀する。
ラナーンの個室に飛び込むと剣を掴み、後を追ってきたフリアに押し付けた。

「デュラーンの宝剣だ。タリスとラナウを頼む」
振り返ることなく、呼びとめることも許さない背中は扉の向うに消えた。
預かった宝剣はアレスのフリアへの信頼だった。
カリムナはあえて側女らを傍らから離した。
年長の側女は若い二人の側女をアレスとラナウらの元へ使いにやった。

「お役目は果たします。必ず」
重いデュラーンの宝剣を強く胸に押し付けた。






「アレスはどこだ」
飛び込んで来るなり、タリスが鋭い声を叩きつけた。

顔の固まった側女が直々に、食後寛いでいたタリスとラナウを食堂から引っ張り出した。
見据えた瞳はタリスらに有無を言わせない真剣さを秘めていた。
ただ事ではないのは空気で伝わった。
またラナーンかアレスが厄介なことに首を突っ込んだに違いない。

飛び込むように踏み入れた室内には宝剣を抱え込んだフリアが構えていた。

「カリムナの間から地脈が噴き出しています。今すぐここから脱出を」
フリア一人の状況でタリスは悟る。

「あいつ、また一人で勝手な」
奥歯を噛み鳴らし、飛び出しそうなタリスの両肩をラナウが力一杯押さえる。

「アレスは何と」
「ラナウとタリスを頼む、と」
タリスは扉を睨みつけて黙り込んだ数秒の後、顎を微かに持ち上げて徐に口を開いた。

「私たちはどうすればいい」
タリスの胸元に、フリアは預かったラナーンの剣を突き出した。

「時間がありません。今すぐ荷をお纏めください。外へはわたくしたちがご案内いたします。状況はここを出る時にお話いたします」
間もなく、タリスが自分の荷を肩に、ラナーンの荷を右手に現れた。
ラナウへは纏めたアレスの荷を託す。
長いローブを羽織れば、輪郭は膨れるが不自然過ぎるほどではない。

「ラナウはどうする」
「このままで構わない。ヘランの人間は異変には」
ラナウがフリアに問いを投げる。
フリアは首を横に振った。

「しかし厚いカリムナの間の壁がいつまでもつか。参りましょう。どうか平静のままで、よろしいですね」
足音も乱さぬよう、引率する側女二人とラナウとタリスが揃って部屋を出た。
ラナウとタリスは嵌め殺しの窓の回廊を足早に進むなか、フリアから報告を受ける。
カリムナが引き摺り出した地脈の流れは徐々に勢いを増している。
過去に事例がないだけに被害がどれほどまで及ぶか予想がつかない。
壁を突き崩すほど物理的な力が生じているので危険なことには違いない。
カリムナがラナーンを巻き込むとは思えない、とは側女は揃って口にしていたが渦中にあることに変わりはない。

「アレスを信じるしかない。私たちは私たちができることをするだけだ」
まだ騒動を知らないバシス・ヘランの人間が澄まし顔ですれ違うたびに口を噤んだ。






尋常でない重さの扉を渾身の力で引き開けた。
壁には亀裂が走り、扉は歪んでいる。

嵐を貫いて、アレスの声が部屋に轟いた。
その声にラナーンが顔を上げる。

地脈は一段と勢いを上げ、衝撃は壁を殴りつけ突き崩した。
アレスは姿勢を低くして第一波を耐えた。
壁の残骸に押し付けた踵で体勢を立て直すと、前傾姿勢のまま前を見据えた。
カリムナに並んだラナーンの無事が確認できて安心はできた。
立つことも困難な嵐の中、カリムナの座ににじり寄る。




「やはり、あなたが」
身を乗り出したラナエが漏らした言葉をラナーンの耳は拾った。

「地脈の奔流が行くつく先」
掠れて震える声が途切れたとき、風の壁で滲んだアレスに並んでもう一つ影が立っていた。

「イグザ!」
切なく引き裂くような小さな叫びが上がる。
何度も何度も呼ぶ名が喉を通るたび内側から切り裂いていくかのように、痛々しく押し出されていた。
涙で濡れた声が、ラナーンに向けられた。

「みんなに愛されなくてもよかった。私にはイグザがいればそれでよかった。ラナウを欺き、民を偽り続けても、生きていけるつもりだった」
「バシス・ヘランの傀儡として、その肉体すらヘランに捧げるつもりだったのか。でも、カリムナが人間であることをやめられるはずはない」
「ええ。だれも愛してはいけなかったのです。カリムナは命尽きるまで、最後の一滴の魂すらヘランに捧げなければならない。けれど、私にはできませんでした」
最後の懺悔をラナーンは黙って耳を澄ませていた。

「カリムナには人を動かす力などありません。それならばいっそ、私はすべてを壊して」
小さな肩を震わせてラナエは声を絞り出した。
ただ命を削って生き続けることが、生きる意味ではない。
愛して、愛されることを知って、一瞬でも輝けたならば、それが幸せなのだとラナエは思い、願ってしまった。
カリムナに就くことと引き換えにしたたった一つの願いが消えるとき、ラナエは生きることの意味を失う。

「イグザを側に置きたかったんだな」
「卑怯だと思われようとも、人でなしと謗られようとも、それが変えようもできない過去、罪、私の願いでした」
ラナエにたったひとつの好機が巡って来た。

「地脈が乱れたとき、これが最初で最後の機会だと思いました」
「本心は、それだけか」
ラナエは折れそうな両腕を前に付き、座から重い体を引きずり出した。
人としての形を失った下半身が、撒きあがる服の裾から露わになる。

「私は酷い人間です。周りの皆から、大切な物を奪ってしまった。もしかしたら、私は。すべてが始まった昏く深い部屋から這い出したあの時から、人ではなくなったのかもしれません」
「ラナエは人間だ」

光は鞭となり、風は鋭く肌を裂く。
渦巻く青い壁の中、突き進む影は二つ。

「アレス!」
伸ばした指先を掠めた風が、冷たく皮膚を切った。
反射的に引っ込めた指を顔に近づければ薄く走った一閃の溝が赤に埋まっていく。

「無理だ、逃げろ! おれは大丈夫だから」
そんな言葉で止められるはずがない。
服が刻まれようと、腕で覆った頬が裂けようとアレスは突き進んでくる。

「イグザ」
「ラナエ一人で下ろすには重すぎる幕だろう。手伝ってやろう」
倒れ込むように、渦の中心に到達したイグザにラナエは手を沿えた。
同じく満身創痍で転がり込んできたアレスの肩をラナーンが支える。

「貴方がたがいらしてくれたから、私は最後の選択ができました。巻き込んでしまったこと、お詫びのしようもございません」
「止められないのか」
ラナエは静かに首を振る。

「カリムナは地脈の糸を手繰るだけ。神にはなれません」
顔の高さまで持ち上がった白い指先はカリムナの座の後ろを示した。

「イグザの部屋へと通じる水路です」
「隣室まで出られれば木の扉がある。アレスの脚なら壊せるだろうよ」
轟音にラナーンが強く目を閉じた。
樹の根が部屋の天井まで延び、ここから出せと言わんばかりに暴れ回る。
屋根が崩れるのも時間の問題だ。

「行くぞラナーン」
アレスがラナーンを引き上げて立ち上がった。

「どうか」
ラナエが縋るようにアレスの手首に触れた。

「ラナウを頼みます。お願いできる立場でないのは承知です。それでも」
「引き受けよう」
長いローブの下にラナーンを包み込んだ。

「ラナエ」
風にかき消されながらのラナーンのいつまでも続く叫びを、振り向かないアレスの背中とともに見送った。

「私は愚かですね。カリムナとしても人としても」
「そういう道に引きずり込んだ責任は自覚している」
「見えますか、イグザ。地脈が何か。神の所在が。私たちの行き着く先が」
「ああ」
指先が溶けていく。
風化するように、あるいは水に浸した砂糖がゆっくりとその身を溶かしていくように。
風の中、カリムナの間に通ずる扉の陰で側女が崩れている。

「魂は溶けて風に乗る。可視化するほど濃い地脈は人としての姿を飲み込んでいく」
イグザがラナエの半身を引き寄せる。
心地良いイグザの声が、胸板を通してラナエの耳に響く。

「あれは」
ラナエが体を反らして亀裂の走る天井を仰いだ。

「幻影か。幻覚、か」
風にかき消される影が高いカリムナの天井に浮かぶ。

「樹霊姫」
呟きは渦の巻きを縮めた嵐に呑まれていく。




ラナーンは風に捲かれ水嵩の減った水路に飛びこむ寸前、最後にラナエを振り返る。
奔流の中、沈んでいく二つの影は寄り添い見つめ合う。
交わしたのは、この時まで互いに告げることができなかった愛の言葉か。
風に阻まれラナーンの耳には届かないまま、アレスとともに水路へと飛び降りた。











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