Silent History 120





灯のない無人のテラスは、誰の耳にも届けたくない話をするのに最適だった。

背の高いガラス窓を両手で重そうに押しあけて開口一番、タリスは暑い! と小さく叫んだ。
バシス・ヘラン内部は、巡る静水で冷やされているが外は熱風の大地が広がっていることを忘れていた。
温度差でたじろぎはしたものの、慣れてしまえば暑さもまた心地いい。
街を渡って来た乾いた風が体を包む。
昼間太陽を浴びた石造りの建物は、夜になっても熱を吐き出している。
日が高いうちに一望した街は、緑に包まれていた。
神が棲み、神王派が息を潜めて暮らしていた街のように人と木々がせめぎ合ってはいないが、街のあちらこちらから瑞々しい葉のさざ波が聞こえていた。

ラナーンに目を向ければ、ここにきて切りそろえられた髪の裾に微かに汗が浮いていた。
背は伸び、骨格も少女のような柔らかさは薄れたものの、アレスのように頼りある体格には及ばない。
細い首筋にに指を這わせて、肌へ薄く膜を張った汗に筋を作る。

くすぐったさに飛び上がるラナーンを可笑しく思い、更に首の根に指を絡ませて、部屋に帰ったら体を拭かなきゃなと口にしながら悪戯の手を止めない。
タリスの戯れにラナーンは後ろへ飛び跳ねて避ける。
欄干に腰が乗りそうになったところで、タリスがラナーンの腕を掴んで引いた。
悪戯っぽく細めた目は夜闇で妖しく光る。
魔性の手に絡め取られる瞬間はこのときなのだろうと、ラナーンは背筋がざわめくのを感じた。
魅惑の眼差しとすれ違い、耳元で囁かれた。

「秘密の話を聞かせてやろうか」
ずっと幼馴染をしていても未だにタリスのことが理解できない。
彼女が大人になるにつれ、どんどん掴みきれなくなる。
それは彼女が女でラナーンが男だからなのか。

「何の話を?」
「聞きたくないか? アレスの話。さっき口にしたばかりだろう?」
「そう、だった」
ようやく肩を解放してくれたタリスは、ラナーンの目の前で踊るように軽やかに回って隣に並んだ。
下ろした長い髪がほの甘い香りを立てて広がった。
高鳴る鼓動は見知らぬタリスを前にしているからか、あるいはアレスの秘密を知ろうとする好奇心からか惑う。

「ファラトネスに仕える侍女たちはみな美人揃いだろう」
今さらの話だ。

「タリスの趣味だろう?」
顔容が美麗というだけではない。
立ち居振る舞い、言葉遣いに気配りまで矯正されるというよりも、ファラトネスの城の空気に染まっていく。
朗らかでどこか柔らかい。

「アレスもあれでなかなかの素材だ」
改めて言われなくても分かる。
アレスに集まる好意的な視線はいくら鈍感な人間でも側に居続ければいつかは気付く。

「身内を褒めるのはかなり恥ずかしいものだけど、顔つきは整っている。体躯は見ての通りだな、無駄な肉は付かず申し分ない」
屈強さと俊敏さを兼ね備えている。
ラナーンより筋肉量は多いはずだが剣を交えれば翻弄される。

「頭も切れる。まぁ、ある一点に対しては執着心と言うか、猪突猛進というか、それは別にしても」
一言でいえば、魅力的な男といえる。
アレスに執心する女はいても、彼の周囲からは女の匂いはしなかった。

「デュラーンであれファラトネスであれ、思いは寄せていても恋愛の点においてはみなアレスを遠巻きにしていた。王家の寵愛を受けている重臣という立場もあっただろうが、何よりアレスにその気がなかっただけだろうな」
思えばアレスの口から女の話を匂わせることはなかった。
年頃の男にしては珍しいのかもしれない。

「城に仕える侍女で、若くして夫に先立たれた者がいた。以後、一人身のまま長く城に尽くしてくれていた侍女だった」
ファラトネスの中にいる無数の侍女は年齢幅が広い。
特定するのは無理だった。

「アレスは一時期その侍女と懇意にしていた」
庭を連れ立って歩く姿、親しげに顔を寄せて話しているのもタリス自身が目にしていたので偽りはない。
落ち着いていて器が広く一目置かれていた侍女とまだ年若いアレスとの間満ちる空気は和やかなものだった。
指を絡ませ合うような濃密なものでなく、一回りは違う二人の年齢差を感じさせない淡い情交だった。

「半年くらい続いてそれっきりだ」
「知らなかった。アレスに恋人がいただなんて」
「過去の話だけどな」
「その、女の人は?」
「まだファラトネスにいる。アレスとも挨拶と軽く話したりはしてるが、二人だけのところは見たことがないな」
複雑な気持ちでヘランの外壁に視線を上らせた。
アレスのことをよく知っていたつもりでいて、アレスはラナーンに向けない顔を持っている。

「噂になることもなく今では話が出ることも稀だ。ファラトネスの注目を集めていたアレスと恋仲になっただけで謂れなき中傷に
晒されるのではと危惧したが、それもなかった」
霞が晴れるようにあっという間に消えてしまった。

「嫉妬からくる目立った嫌味を言われることもなかったのは、彼女の人徳だな」
欄干に凭せ掛けた腰を浮かせて、ラナーンの前に回り込んで微笑んだ。

「そろそろ戻るか」
タリスに声を掛けられたが、しばらく動く気になれなかった。
目は余計に冴えている。

「そうだな」
ラナーンを連れて半円のテラスを出、部屋への廊下を歩いているとタリスは背後の足音が途絶えたのに気づいた。

「タリス、もう一回りしてから帰るよ。まだ眠れそうにないから」
明日の予定が決まっているわけでもない。
眠れないのに寝台に縛りつけられる苦痛はタリスも知っている。

「わかった。先に戻るよ」
後ろ手に手を振りながらタリスは真夜中に降って湧いたときと同じく整列する柱の陰に消えた。




静穏というには空気が締まり過ぎているようにも思える。
無人で無音の中、どこに行くでもなく歩き始めれば、常夜灯に導かれるようにカリムナの間に続く長い廊下までやってきてしまった。

「またか」
数十分前の繰り返しだ。
どうにも足はカリムナに向きたいらしい。
まだ夜が明けるには早いが、誰もが寝静まった真夜中だ。
さすがにラナエも床についたはずだとカリムナの間へと目を細めれば、扉は薄く開いている。
警備が巡回しているとはいえ不用心な気がした。
いや、これだけ広いヘランだが彼らからしたら家族の部屋の扉が開いているという程度の認識なのかもしれない。
好奇心がむくりと顔を上げて、ラナーンは真紅の廊下を踏みしめた。
一歩を踏み出せば躊躇の壁は崩れ、幾重もの扉を潜りカリムナの間へと突き抜けた。
身辺警護もいない。
誰にも阻まれることなく容易に進めた。

「こんばんは、ラナーン」
「こんばんは」
間の抜けた挨拶に先制を打たれ、ラナーンは入口で立ち尽くしてしまった。
当然のように昼間と同じ水路の中央に坐するラナエに対面した。
彼女の微風のような軽やかで細い声は、空気を渡るようにラナーンの耳に確かに届く。

「せっかくなので、こちらまで来ませんか」
細腕を持ち上げて、ラナーンを帳まで招き入れた。

「不用心です。まだおれが何者かも分からないのに」
「あら、ヘランに引き籠ってばかりだけれど、人の善悪は見抜けます」
「悪い人間はそもそもイグザが通さないでしょう」
「矛盾してる」
「え」
立ったままのラナーンに座るように促して、手首を引いた。

「あなたはいい子だわ」
「変な感じだ。おれより若くも見えるのに」
ラナウと同じ年齢のはずだが、姉と妹程に離れて見える。

「カリムナになって初めて思ったんです。物事は何かを手に入れれば何かを失う。常にバランスで成り立っているのだって」
「外見が若いままというのも、カリムナであるから?」
答える代りに、ラナエは目を伏せた。

「遠い遠い海の向こうの島国のお話を聞いたことがあります。カリムナに似たひとは他にもいるんですね」
眠れない長い夜のお伽噺にでもしましょうかと、ラナエが話を始めた。

「島をひとつ、たった一人で支えているカリムナがいるのですって。ある日激しい落雷と嵐に見舞われた時、カリムナは嵐を納めて左腕を失った。またある日他国が攻め入り、島を守って右脚を失った。そうして島を守り、人々の安寧を祈り、体を削って守ったカリムナは」
最後は目も顔も手も体もすべて溶けて白い砂になってしまった。
よくよく見てみれば、砂は島の周りを取り巻く鮮やかな珊瑚の砕けた物と同じだった。
カリムナは島になって消えた。

「カリムナの最後もそうなるのかしらね。命を削り、民を守り」
「美しい話だけど、悲しいな。そのカリムナをカリムナとしてじゃなく、器としてじゃなく、その人自身を好きだった人たちはきっと泣いたんだろうね」
「ラナーン」
「カリムナは孤独だ。おれは地位や器でなく、愛されるのならただの人として愛されたい」
「カリムナも、誰か一人を愛することができるなら」
涙を堪えて縋るように手をラナーンに重ねた。


一瞬、体が水路の水に沈んだのかと思った。
いきなりの洪水、床から湧きだし闇と光が屈折しながら部屋が水で満たされ、体は下へ引き込まれる。
手を握り合ったラナエを覗き見ると、彼女の顔も驚きで固まっている。

「これは、何だ」
これは夢なのか。
カリムナの力が引き起こす幻なのか、息は詰まることなく、言葉も交わせる。
水泡に揉まれながら、体は沈み込んでいく。

「これは、カリムナの祈りの中。どうして」
足下に淡く青い光の川が流れる。
まるで昼間にラナエの言葉で漂った想像の祈りの中だった。
あの時はそれぞれの頭の中にある想像の世界でしかなかったが、今はラナエと共有する世界だ。
漆黒の紙に筆で青の一閃を流したような光景だった。
ヘランとは違う静けさだ。
声はないのに息遣いのようなものを全身が包む。

「夢でも幻でもない。ラナエがここにいるのに」
「分からない。どうしてカリムナでない者がこの場に」
「しかし、本当にきれいなところだ。ラナエが言っていたように足の遥か下に川が。触れるのかな」
手も足も顔も容を失った。
寄り添うのはラナーンの意識とラナエの意識。
ラナーンは容ある手を下へ下へと伸ばした。
そのラナーンを追ってラナエも下へと降りる。

「だめ!」
絹を裂くような鋭い悲鳴でラナーンの手を止めた。
穏やかなラナエからは思いもよらない強い声にラナーンは光の筋に触れる手を慌てて引っ込めた。

「触れてはだめです」
「ごめん。カリムナの領域に」
「そうじゃないの。違う」
美しい流れにラナエの横顔が照らし出されたような気がした。

「あなたは引き換えにすることはありません。あなたのお友達が悲しむもの」
「カリムナが悲しいのならきっと、側にいるイグザも同じくらいに悲しいんだろうね」
二人だけの空間で、意識の交流で、ラナエは話す以上にラナーンの心に触れられた。
それは言葉にし尽くせない、ラナーンの純朴さや忘れかけていた陽だまりのような温かさだった。

「人々にもたらす豊穣と、カリムナは何を引き換えにしてるんだ」
「与えるものと失うもの。それ以上にこれは、カリムナ以前にラナエとしての罪の痛みなのです」
ラナーンにその痛みの根源は見えなかったが、肉体のないこの世界で、体の壁で阻まれていた意識や心に触れられた。
痛覚や熱感覚は存在しないはずなのに、ラナエの奥底は冷たく痛く締められるように苦しかった。

「眠れないのはカリムナの体が騒ぐから。大きな波が来るのです」
遠くから、確かにこちらに向かってやってくる波をカリムナの目は捉えていた。

「堰き止められていた大河が決壊したように、強く大きな流れがやってきます。こんなのは初めてで」
「来たら危険なのか」
「手を触れなければ大丈夫。人が生きる地面の遥か下、異なった空間でのことですから」
「やり過ごせばいいのか」
ならば問題はない。

「ええ」
それでも引っ掛かりが消えないような弱々しい相槌を打った。

「ここまで来れたのですから、特別に。イグザも知ることができないカリムナの秘密を教えましょう」
ラナエがラナーンの意識の一部に混じり込む。
離れても動いてもだめだと注意を入れてから、青い川の中へと降りていく。
ラナーンと重なりながら意識の手を伸ばし、光の一筋を掬いあげるとゆっくりと上昇していく。
長い髪のようだ。
幾筋もの糸の先は川の流れに乗っている。
ラナエは引き揚げた糸を握る手を開いた。
指は見えないが解放された糸は横へと広がっていく。

「何度見ても美しい光景です。見えない水面を青い糸が渡っていく。豊穣の光に照らされているとどこか温かくなる」
ラナエがラナーンの意識を引き連れ、カリムナの水を昇っていく。



水の中から顔を出すように、肉体を取り戻したのは一瞬の切り替わりだった。
ラナーンは自分の体を確かめるため、ラナエに重ねた自分の手を見下ろした。

「戻ってきた」
「動けますか」
手を開いては握り、変調のないことを確認した。
床で腰の位置をずらした時に感覚に違和感を覚えて眉をしかめた。

「やはり」
「脚が痺れている」
「感覚は」
「鈍い」
血流が圧迫された座り方をしていたわけではない。

「安心して下さい。直接触れてはいませんし、すぐに感覚は戻ります」
そのときに悟った。
これがカリムナの代償だ。
ラナエがお伽噺にした話は偽りではない。
真実だと確信しているラナエが恐れないはずはない。

「ラナーン。カリムナは動けないのです。明日、またいらしてください。あなたにだけは話しておきたい」
「ちょっと待て、動けないって。ソルジスのために脚を捧げたのか」
「今日はもうお部屋にお戻りを。立てますか。ラナーンのご友人を呼びましょうか」
「大丈夫だ」
「あの背の高い男の方」
「アレスか」
「強い方ですね」
「カリムナになれるか?」
「ラナーンが離さないでしょう?」
「おれはそんなに独占欲が強くない」
「どうでしょう。当たり前のことこそ見えないと言いますから」
「おやすみ、ラナエ」
「おやすみなさい。どうぞ真っ直ぐにお部屋に向かってくださいね」











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