Silent History 118





静謐で清らかな空気は他より冷たく感じられた。
水は小川のように音を立てず、しかし滞ることなく水面を揺らがせながら揺蕩う。
バシス・ヘランの中は外の雑音から隔絶された静寂の空間だったが、カリムナの間はさらに異質だった。
水路が廻っているのではなく、むしろ水の上に数本の橋が渡っているに近い。

カリムナに付いている側女は三人、遠目で顔つきは明らかではないが部屋の外で肌に受けた緊迫感とは別のものが満ちている。
清浄な空気だ。
正面の帳の向こうに透けて動く影がカリムナだ。

影が左に顔を寄せ、入口まで届かない声で指示すると側女たちが陽炎のように立ち、流れる手つきで帳を開いた。
左右に割れる薄絹の下より、幾重にも絹を重ね着た少女が現れる。

ラナウと面差しは似ているが、目のかたちは柔らかく、頬笑みは柔和だった。
口元に指を当てる幼さが残った仕草は、ラナウよりも年下にすら見えた。

「本当はお迎えに上がるところなのですけれど、ごめんなさい」
「こちらこそ、お勤めのところをこんな場所までお邪魔してしまって」
橋梁へ進み出たタリスが膝を折り最敬礼で挨拶をした。
ラナーンとアレスも続き歩み出して最敬礼の姿勢を取る。
長く垂れた服の裾が水面に浮かぶ橋梁から漏れ、水に触れた。

「どうぞ顔を上げてください。人払いもしておりますので、気を楽に」
背にした入口の前にイグザ、並ぶようにラナウ、入口からクモの巣のように走る橋梁の中央にラナーンら三人がいた。
他に側女三人に囲まれてラナエ。

「ラナウ、久しぶりね」
ラナエが差し出すというより、ラナウに触れようとでもするように手を伸ばした。
吸い寄せられるようにラナウが橋を滑らかに渡っていく。
彼女の通った後には裾が靡かせた水面に波紋が広がる。
静かな分だけ小さな動きが、静寂の囁き声のように澄んで見える。

「ただいま。このところここに籠りっきりって聞いたけど」
ラナエの様子はイグザとの連絡で常に耳に入ってきていた。
バシス・ヘランから出られない身でありはしても、以前は中庭を散歩したりはしていた。

「大丈夫よ。この前会った時と変わりなく」
「まあ、ここから一歩外に出れば、堅苦しくて息苦しいからね」
このバシス・ヘランがホームのラナウでさえ、心底寛げるのはカリムナの間だった。

「もう今日はもういいの?」
「ええ、ラナウがお友達を連れてきてくれたもの。そうだわ、紹介が遅れてしまいました」
ずっと部屋に籠っているせいか、青味がかった白い顔をラナーンらへ向けた。

「ラナウとは双子の姉妹で、ラナエと申します。カリムナのお仕事は祈ることなのです」
「祈る?」
「ええ。そうですね地下から湧き上がる力の流れ、地脈を探り糸を紡ぐような感じかしら」
「不思議な感じだ」
「目を瞑ってみて下さい」
ラナーンが目を閉ざしたのを認めてから、ラナエはアレスとタリスへも視線を投げた。
彼らの側にいたラナウと入口を守っているイグザも目蓋を下ろす。



「想像して下さいね。真黒な暗闇の中、足下深くに青白く細い流れがあります」
光を閉ざされた黒い世界、上下も左右もない空間に投げ出された体の下に、青く光る川が流れる。
一筋、二筋、絡み合うように同じ方向へ流れていく。
一本の大河ではなく、細い流れが合わさってできた流れだった。

「少し離れて見ると、川は一つではないことに気付きます。ほかの流れが右から合流し、その先では分かれていく」
木の枝のように。

「人の体に張り巡らされた神経のように、静脈のように」
それはあくまでラナエの言葉に導かれた想像に過ぎないが、ラナエの目を借りて大地の脈動に触れている気がした。

「手を伸ばして下さい」
それぞれがそれぞれの暗闇の中で自分の手を伸ばした。
地脈には遠く届かない。
遥か遥か下を流れる大河なのだから。

「ここは暗闇の世界、地脈の世界、カリムナの目、大丈夫もう少し手を伸ばして、意識を下方へ降ろします」
静寂がカリムナの世界へ意識を集中させ、しかし不思議なことに回りに広がる世界は上下左右三百六十度。
人間が両目で捉え得る約二百度の限界の外にいた。

「カリムナは自由に地脈を行き来できるわけではありませんが、こうして手を伸ばして地脈に触れることはできます。地脈の川から一本、青い糸を引き上げて下さい」
意識の手に引っ掛けるように持ち上げた糸は切れることなく、するすると引き上げられていく。

「他の川からも、ひと筋」
他の川からも、ラナエの言葉に合わせて繰り返して引き上げていくと糸は総になった。
光の束を抱えて、ラナエは言葉を止めた。


「糸の総を頭上高くに掲げて、指先まで伸ばして」 背伸びをするように想像の指先は、暗闇の天井を突くように伸ばされる。
ゆっくりと両手を開き、光の束は頭上から分かれて行く。
指先は頭上から弧を描き、手のひらは上を向いたまま耳の横に並び、過ぎて肩の高さで止まった。

扇状に散り、走る光の筋。
繰り返し引き上げては解放し、カリムナは半球の中心にいた。

「遠くから見ればきっと、大きな樹に見えるでしょうね」
どうぞ目を開けて下さい、とラナエが呼びかけた。



「いかがでしたか? あくまで、私が見ている世界を想像して貰っただけですが、それがカリムナの祈りというものなのです」
「光の筋は、どうなっていくんだ」
「引き上げたからと言って、そこに地脈ができるわけではありません」
ラナエが頼りない指先を濠に浸し、問いかけたタリスへ微笑んだ。
タリスは彼女の側に寄る。
引き上げた指を、床に押し付けて水の筋を引いた。

「地脈から引いた力は一時的なもの。すぐに消えてしまいます」
水路から床へ垂らした水のように、乾いてしまう。

「地脈から引き上げた流れは、地精といいます」
ソルジスの繁栄は、カリムナが地脈から引き上げ、地上に放出した地精によるものだというのがよく分かった。

水が湧き出でて立つ水泡のように、透き通りつつも温水の中にいるようなラナエの声は、耳に心地よかった。


「世界にはさまざまな神様がいます。天にいらっしゃったり、物に宿ったり。ソルジスでは地脈は地の神が司っていらっしゃいます」
「カリムナはいわば媒介者。神の生み出す地脈をソルジスの大地に導くためのね」
イグザもカリムナの側に控え、ソルジスでのカリムナの立場を説明した。

「三十七いるカリムナが媒介となりソルジスに豊穣をもたらす。バシス・ヘランには異形は現れない。カリムナがいるからだ。アミト・ヘランの異形は、ラナウたち巡廻士が抑えているしね」

カリムナの間の高い天井が密室の圧迫感を取り払う。
円形の部屋の天井近く、内円一周に環状に並んだ窓は外と繋がっていない。
嵌め殺しで隣室の天井が見える。
カリムナの間を核にバシス・ヘランが広がる。
まるで柱だ、とアレスは思った。
あるいは大樹か。
坐した彼女は不動の木の幹に思える。



「よろしければバシス・ヘランを見て回って下さい。かなり広い造りになっていますので、丸一日歩いても飽きないかと」
ラナエの勧めをアレスは素直に受け取った。
ソルジスの中心で、ソルジス人であっても、願っても入れない場所だ。
カリムナとヘランのシステムも実に興味深かった。

「ラナエ、そちらのを一人借りられるか?」
イグザがカリムナの側女へ振り向く。

「そうね。では、フリアに案内させましょう」
名前を挙げられた少女の肩が動く。

「いいかしら?」
「わたくしでよろしければ」
長い衣服の裾の中で、片足を立てて姿勢を正した。
両手の指先は床に立てて、背筋を美しく伸ばしたまま頭を下げる。

「私はここでラナエともう少し話がしたいから」
また後でとラナウが手を振った。






「カリムナってもっと近づき難いものかと思ってた」
口にしてから、しまったとラナーンが顔を赤くする。
失礼に当たるかと思い、並んで歩くイグザの顔を覗き見た。

「実際はそうでもないだろう? すべてのカリムナが彼女のような感じなのかは分からないけど、ラナエは話しやすいよね」
カリムナの間を出た隣室まで出ると、すぐ後からカリムナの側女もやってきて茶の用意を始めた。
イグザに一式用意して渡し、もう一式を両手にカリムナの間へと戻った。

「カリムナの選抜って何をするんだ?」
弓型の柔らかい長椅子の上でラナーンが器に口をつけた。
湯気が仄かに甘い香りを上らせた。

「普通はね、選抜に掛けるまでもないんだ。力が強いか弱いか、カリムナに相応するかしないかなど、分かる者には分かるからね」
「それだけ二人の力が拮抗していたってことか」
アレスが膝の上に器を置いて、椅子に背を預けた。

「そう。だから選ぶことにした。石を使ってね」
「石」
呟いてタリスが黙り込んだ。
以前ラナウに連れられて立ち寄った『家』での出来事が頭を過ぎったからだった。
『家』で子供たちの世話をしていた母に案内された林の奥。
今となっては珍しい天然の魔石が岩に埋まっていた。
天然石も、ラナウの力に反応して光っているのを思い出した。
タリスが思い出したのと同じく、ラナーンも瞬きが増えている。
アレスも一瞬眼光が鋭くなった。
場所が場所だけに、天然石のことも子供たちのことも口にはできなかったが、三人は暗黙のうちに記憶を重ねていた。

イグザは双子の姉妹について話を続けた。
カリムナ候補たちにひとつの試練を課した。

「ラナウの仕事は知っているね」
ラナウが信頼しているとはいえイグザの素性は未だ知れない。
ラナーンたちがアミト・ヘランに踏み込み、ラナウの仕事に立ち会ったことまで迂闊に漏らすことなどできなかった。

「アミト・ヘランで異形を抑えている」
警戒を解そうと、イグザの方から切り出した。

「使っているのはバシス・ヘラン秘伝の魔石だ。人工石だけどね」
「天然ものは入手が困難だと聞いたことがある」
「そう。力は強いのだけれどね。だが人工だからといって侮ってはいけない」
異形を封じ込められる強い魔石だ。

「バシス・ヘランの術師たちが練り上げた傑作だ。だが残念ながら、カリムナたちの力を測るには役不足だった」
そこで宝物庫から秘蔵の魔石を二つ用意することになった。

「目に焼きつくほどの漆黒だった。そうだな、君の髪の色のようにね」
小さな笑顔をラナーンへ投げた。

「漆黒の石が二つ、地下の祭壇に置かれた。儀式そのものだ」
「立ち会ったのか」
「彼女たちをここに連れてきた監察士だったから。それにこうみえてバシス・ヘランでは結構偉いんだ」
確かに、労働環境は劣悪と苦笑していたが誇れる地位にあるラナウ、バシス・ヘラン最高位のカリムナであるラナエと対等に話せるのだから、彼の言葉に偽りはない。

「薄暗く密閉された地下室、バシス・ヘランでもなかなかお目にかかれない高位の限られた人間が声を殺して顔を寄せている。その中で灯りを受けながら漆黒の石は怪しく光る」
おどろおどろしい口調と空気で物語るイグザにラナーンの顔が引き攣った。

「連れてこられたのは、緊張と恐怖に委縮した幼く愛らしい双子の姉妹。呪いでも掛けるんじゃないかと思ったよ」
明るく笑い飛ばしたイグザだが、他の人間は雰囲気に呑まれていた。
タリスの器に残った茶も冷めてしまっている。

「彼女たちの恐れも的を射ていたってことかな。今からしてみれば」
最後は彼の独り言だが、不意に目に宿った憂いのような光は心に引っ掛かった。
この男は、ラナウとラナエがただ仲が良く、一方は自由で誉れな巡廻士で、一方は憧憬のカリムナであるだけではない、彼女たちの真実に触れている。
アレスはそう確信した。

カリムナというソルジスの枠組みが、二人の姉妹を裂いた。
苦しみを生んだ、それをこの男は側で見て感じているのだと、それは考え過ぎだろうかと、アレスはイグザの言葉と空気を反芻していた。

「石とカリムナの候補が揃った。相応の者が石に触れ、力を加えれば石に変化が現れる」
カリムナの素質がなければ石は漆黒のままだ。

「カリムナの力を集中させれば、石は分子構造を組み換え別物に生まれ変わる。漆黒が澄み切った美しい青緑色へと姿を変えるんだ」
儀礼用に清められた衣服に袖を通したバシス・ヘランの高官たちが少女たちへ、石に触れるようにと低い声で指示をした。
彼女たちの手の下で石が火花のように光を散らした。
恐ろしくなって手を放そうとする彼女たちに、集中してと掠れた声で脅しつけた。

「石は見事に青緑色に変わったよ。それぞれ手にした石を、並んで構えていた高官に手渡した。こちらを向いた瞬間の彼女たちの青ざめた顔は忘れられない。薄暗い灯の中でも分かる蒼白だったからね」
「二人の道が決まったのか。一人はカリムナとしてバシス・ヘランへ残り、一人はアミト・ヘランへ」
イグザの声は明るかったが、言葉は重かった。
思いはアレスにも伝わった。

「こんな事態は本当に珍しいことなんだ。同じ力量、同じ技量。何十年、何百年に一度、あるかないか」
しかし事態は急いていた。
先代のカリムナに死期が近づいていたからだ。
カリムナも、人間なのだ。


冷めてしまった茶を淹れなおして一息つくと、イグザは仕事に戻るからと客人をフリアに託した。

「彼女はカリムナの側女でも最年少でね。一年前にバシス・ヘランに上ったばかりなんだ」






イグザに見送られながら、長い回廊に進み出た。
バシス・ヘランはまるでクモの巣のような構造だ。
慣れない者にはどこも同じ場所に見える。

「フリアは迷わないのか」
重くなってしまった空気を一旦変えようと、タリスが年の近い彼女に声を掛けた。

「わたくしも最初は。でもよく見たら扉の近くの装飾や、柱の彫刻の違いが読み取れますよ」
言われれば、なるほど少しずつ違っているようだが、その違いを覚えるのが大変そうだ。

「監察官に連れられてここへ?」
「いいえ、試験はありましたけれど」
「試験ってカリムナが受けたような?」
「筆記試験と実技試験と。バシス・ヘランに上る女性は、行儀を身に付けるのを目的にした人が多いのです」
「ああ、なんとなく」
タリスが首を巡らせてから、楚々としたヘラン女性を目に止めて呟いた。

「分かる気がする」
「時間はありますので、ゆっくりご案内できます。気になるところはありますか」











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