Silent History 108





豪勢な食材ではないが、丁寧に作り込まれたスープは腹に染み込むような美味さだった。
料理は愛情、と言ったものだが正しくその意味を噛みしめた。

食後の談笑が一息ついたところで、アレスは軽く外へ走りに出た。
歩き通した上、屋根修繕の仕事まで受けて疲れたでしょうと、施設の母は言ったが、体を動かさなければ却って落ち着かない。
彼らが『家』と呼称する、孤児院から少し離れると濃い闇に沈む。

薄い月明かりが浮き上がらせる土道を、大周りで三周ほど走り込むと裏庭に回って剣を手に素振りを始めた。
近頃、詰めて鍛練に打ち込まなかったのが祟り、腕が重かった。
見た目は変わらず理想的な筋肉の付き方をしている。
ラナーンのように華奢で滑らかな胴体とは違い、服の下は形よく隆起している。
だが、訓練の量と質はまず、本人の自覚する体の動きに現れる。

裏口の石畳に長い両脚を投げ出して座り、息が上がり火照った体を外気で冷ました。
呼吸が収まったころ、汗が額から顎へと伝った。
湿気を帯びた空気が汗を誘う。

『家』に向かって坂を上って来た時には気づかなかったが、施設の裏はちょっとした雑木林になっていた。
林を回り込み周回しつつ疑問は深まるばかりだった。
ヘランの周囲は酷く乾いた熱い風が吹いていた。
今も熱は空気に滞留しているが、湿度は失っていない。
片膝を持ち上げ、腕を乗せて周囲を改めて眺めた。
闇に紛れて見えないが、川があると子供は言っていた。
そこから地下水路を引き、『家』に水を送っているのだと。
雨樋の修繕を行った時に見て取れたが、雨水を活用している様子もない。
水瓶の存在はなく、蛇口からは豊富な水が流れ出た。
常に一定水量が確保できるだけ豊かなのだ。
木々も、肉厚で外皮の堅い、乾燥に耐える植物だけではなく、アレスの身長より高い木々が密集していた。

『家』にいる年長の子供たちは、『おしごと』と呼ばれる作業の時間を設けていた。
薬草を育て、木の蔓で籠を編み、針仕事もこなす。
仕上がった品は街に売りに行くといった古典的で単純な作業だが、彼らが手がけた商品の評価は高いのだと、彼らの母は得意げに話してくれた。

身内の欲目も多分に含んでのことだろうと思っていたが、実際の作品を手にしてアレスら三人は感嘆した。
特に目の肥えたタリスは興味津々で、衣服の目の細かさと仕立ての良さを顔を寄せて眺めて離さなかった。

子供たちに悲愴感や卑屈さは微塵もない。
母を慕い、『家』を愛し、『おしごと』に関わることで彼らの居場所を支えている誇りがあった。
それらの意欲も、完成度の高い品を生み出す力になるのだろう。




笑顔が絶えない子供たち、彼らにすっかり溶け込んだ三人の来訪者。
アレスは窓越しに、彼の弟分であるラナーンの心からの笑顔を眺めていた。
幼く弱々しかったラナーン。
我慢してばかりのラナーン。
相変わらず自己主張は苦手らしいが、積極的にはなった。
やりたいことや好きなことを口にできる。
生きたいという意欲が透明で抜けるように真っ直ぐで力強かった。


あの子は、幸せなのだろうか。

突然耳を過ぎった一言は、ディラス王の鮮明な声だった。
アレスの頭のどこかに焼きついていた、重く噛みしめるような呟きだ。
部屋の中で子供と遊んでいるのか遊ばれているのか、時折困ったような笑いを浮かべつつ、同じ子供のような濁りのない笑顔を見せている。

ラナーンの父でデュラーンの王ディラスは、何を思って一言を口にしたのだろう。
アレスはその時の情景を思い出そうと目を細めた。
まだ背丈も伸びきっていない少年だった。
意味を深く考えることなく、当時は取り留めず聞き流していた。

酒に溺れるディラス王ではなかったが、その日は酩酊していた。
重く揺れる頭を右手の上に乗せて、酒気混じりの熱い息を漏らした。
酒宴の夜だった。



賓客はファラトネス御一行。
その日ばかりはラナーンも夜更かしを許された。
アレスとタリスも同じ、子供の組として大人の端に席を置き、宴の食事を共にできた。
大人は酒と珍味と美食に酔い、子供は非日常的に沸き立つ場に高揚した。
まだ幼さが残るエレーネは面白がって、大人の空いた杯を見つけると酒をついで回った。
愛らしく、大人しいエレーネは大人たちに可愛がられ、媚びることも請うこともないまま、自然にファラトネスの女性の間に座を拵えられていた。
ファラトネスの王ラウティファータはエレーネの薄く紫に煌めく髪に指を通しながら、大いに愛でた。
女系一族のファラトネスがやってくると、ラナーンは忽ちに取り囲まれた。
大きく噛みつくことも、抵抗といえば恥じらい身を捩る程度のラナーンは、彼女たちにとって等身大の人形遊びに恰好の相手だった。
そんな騒ぎの中、ラナーンが女嫌いにならなかったのが不思議だ。
アレスが当たり障りのない言葉とさりげなく差し伸べた手で、ラナーンを女の渦から救出した。

食事は終わり、子供たちはまだ冴えた目で走り回っていた。
大人は広間の各所に溜まり酒宴の続きを愉しんでいる。
ラナーンの兄ユリオスが、弟を膝に乗せながらタリスの姉と談笑している。
ラナーンは膝の上でまとわりついてきたタリスにちょっかいを掛けられていた。
歓談中の客人たちの様子を少し離れて満足気にディラス王が眺めていた。
酔いが醒めた頃にまた声がかかるだろう。
しばしの休憩、心地よい酔いの波に身を委ねていた。
呼び寄せたわけではないが、隣にはアレスがいた。
二人の息子と同じように扱った。
ラナーンの側にいてやってほしいと口癖のように言った。
彼に従えや、彼に尽くせなどと彼の口からは全く出てこなかった。
アレスはディラス王の信頼に応えた。

「あの子を幸せにすることが、私の」
額に薄く浮いた汗を指で拭い、顔を撫で下ろした。

「父としての役目を果たさねば」
思い出したその言葉、その先に触れてアレスはひやりとした。

裏口の扉が開く音と同時に、子供たちとラナーンが外へ飛び出してきた。

「空気が湿ってる」
息を深く吸った胸が上下した。
黒い髪は夜闇と水気とを吸い込み、より深く艶やかに風に流れる。

「雨が降るって。中に入りなさいって」
アレスの横に立ったまま、空を見上げた。
雨音のように木々が擦れ合う。
そのはるか向こうに、灰色の雲が漆黒の下地に薄い色を乗せていた。

アレスは顔の横に垂れる細い手首を掴んで引いた。
バランスを崩し倒れ込みそうになったラナーンが、アレスの肩に手を掛けて踏み留まる。

迫った耳元にアレスが囁く。

「お前は今、幸せか」
予期しない言葉にラナーンの目蓋が持ち上がった。
返答を聞かぬまま、アレスがラナーンの腕を吊り上げて立ち上がる。
体にまとわりつく空気、ラナーンの運んできた伝言に偽りはなさそうだ。

「ディラス王の願いだからな」
ラナーンを振り返らずに扉に手を掛けた背中に向かって、ラナーンが首を傾げた。

「アレスが何を考えてるのかさっぱりだ。それに、幸せってどんなものなのか形にないから」
取っ手に手を被せたまま、背後の声に耳を傾けた。

「タリスとアレスがここにいる。おれの居場所がある。信頼してくれて、いろいろ経験して、たぶんそれが幸せなんだと思う」
「そうか」
背中に二つの手のひらを感じた。
熱い感触が服を抜けて皮膚に伝わる。

「ほら早く中に入って」
「俺はディラス王に命じられたからお前に付いてきたんじゃないんだぞ」
自分の意思でここに来たのだとは何度も聞いた。

「おれは身を捨ててまで誰かに守ってもらおうとは思わない。でも、アレスにはまだ」
言い淀んで、首を振った。
アレスの背中に置いた手を前に押し出し、早く屋内に入るように促した。




翌朝、子供たち二人の小競り合いがあった。
ラナウが止めようとしたが、母はいつものことだと微笑んでいた。
どちらかが相手に傷をつけそうになったときに止めればいいのだからと手元の繕いものを進めていた。

喧嘩のテーマは、どちらの力が強いかというものだった。
力の強いものがカリムナになれる。
そうした話から保持する力の強さにまで話が発展した。

派手に声を上げ始めてから注視したので、どちらが先に吹っかけた喧嘩かは分からない。
口喧嘩での敗北を悟った少年の方が、少女から離れた。

「絶対、私の方が強いに決まってるんだから!」
強気な鋭い声が、木の陰に向かって歩いていく少年の背中に投げつけられた。
アレスは高身長を活かした家屋修繕作業を引き続き割り当てられていた。
男手に加えて脚立の要らない安定した高所作業要員は重宝された。
ラナーンは子供に手を引かれて、空いた腕には籠を抱えて一緒に洗濯物干しに使われていた。
前日の雨は早朝には上がり、今は鮮やかな蒼穹が広がる。

アレスの傍らで、修繕箇所の指示を出していた母にアレスが尋ねた。

「力って何のことです。カリムナって」
「修繕は終わったみたいね。じゃあ、裏の林に行きましょう。見せた方が話が早いわ」
母は手の止まったラナーンにも声を掛けて三人連れ立って、庭を回った。
途中で遭遇したタリスとラナウの二人も連れて行く。
林の端は崖に面していた。
岩盤が固く、崩れる危険はないから安心してと母が言った。
崖には根が張り、灰白色の石が顔を出している。

母が岩へと手を滑らせた。
付いてきた四人に向かって微笑んだ。

「ね。何ともない。でも」
石から離した手を、ラナウの肩へ置いた。
今度はラナウが石に手を付ける。
接触した瞬間、青白い光が一瞬ちらついたように見えた。

石に手を乗せたまま、目を閉ざして深く息を吸い、長く吐いた。
火花の光のように小さく瞬く光は、確かに石の奥から発している。
今度は目で捉えられた。

「見えた?」
「ああ」
「ヘランの中にある魔石は、ヘランの術師や技術士が生み出す、人工の石。これは天然の魔石なのよ」
「ヘランの石は夜獣(ビースト)、この国では異形と呼ばれるものたちを退ける働きがあるとか。だったらこの石にも」
「異形を寄せ付けにくい効果はあるかもしれないけれど、ヘランのものにとは比べ物にならないくらい力は弱いわ」
ラナーンの疑問には、ラナウが答えた。

「ただこれに手を加えれば莫大な魔力を得ることになるし、研究対象としても貴重な石には違いないから。ここにこれがあることは口外しないように」
二人はここに来て、この石に触れた。
どちらが大きく光を湧き上がらせられるのか、競った。

「あの二人の喧嘩の元がこの石なの」
「天然の魔石って結構あるものなのか?」
「歩いていて拾えるほどじゃないけど、魔石採鉱は多かったのよ。今は、人工石の輸出が国家の収入の幅を大きく占めているけど」
この石により鉱脈が見つかったりしたら、彼らはここにいられなくなる。

「ソルジスの国益よりも、私には子供たちの方がずっと大切なのよ」
『家』の側にある宝物、それが他の人に知れれば自分たちはこの場所にいられなくなる。
子供たちはそれを恐れ、その意味を知り、だからこそ口外することはない。

「私の本当の宝はここの子供たち。それを奪われるなんて、私にはとても」
鳥の渡る木々、虫の鳴く草花、林の中に入り近づいた水音。
土地と子供を守る母の声が、小さくなっていく。

「ヘランから、監察官が来るのです。人々への豊穣を与えるカリムナ。でも私はあの子たちが選んだ、あの子たちのための幸せを願いたい」











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