Silent History 104





アレスが前傾姿勢で音もなく疾走する。
腰に当てた手の下には剣の柄が握られ、数歩踏み出したところで抜き放たれた。
刃の上を炎の影が滑る。

受け取った剣を水平に持ち上げ、タリスは心を鎮めて鞘を解く。
緊張と運動とで滲む汗で額に髪が張り付き不快だった。

一緒に部屋へ逃れてきたラナウを庇うように背後に押し遣り、ラナーンが剣を構えた。
かなり凶暴な夜獣(ビースト)で、アレスに剣の教えを受けたラナーンの腕でさえ、致命的な傷を与えることはできなかった。
相手は一体。
こちらの戦闘要員は三名。
多勢に無勢、勝利条件は整っているはずだがタリスは不安が引かなかった。
呼吸二回で息を整えてから奥歯を噛みしめた。


タリスはラナウを後衛で守れ。
端的な指示を口にして、振り向きもせず飛び出したラナーンの背中をタリスは一瞬呆然と見つめる。
タリスを抑えて飛び出すことなどほとんど無かったからだ。
瞬き数回で現実に戻り、タリスは立ち尽くすラナウへ勢いよく顔を向けた。

「ラナウ、こっちだ!」
辛うじて口は閉ざし平静な顔をしていたが、凝視した先には荒れ狂い首を左右に振り回す夜獣(ビースト)の姿があった。


灯りで照らし出されていた部屋が続いていたので、安心していた。
何よりもここは、今は人気のない遺跡であってもかつてはカリムナが棲んでいたヘラン、聖なる神殿だったはずだ。
そんな場所にどこから夜獣(ビースト)が入り込んだというのか。
なぜ、こんなところに。
その呟きを引き受けたのはラナウだった。

「ここがヘランだからよ」
当然のように声を低く口にした。

「夜獣(ビースト)は森に、森から湧いてくるはず」
ここに森はない。
あるのは荒涼とした砂と岩が限りなく続く大地だ。

「そのためのヘラン。こうならないために私はここに来たのよ」
「夜獣(ビースト)と戦うためにか」
どう考えても武芸に長けている体つきではない。
対抗できる刃を隠し持っている風でもなかった。

「夜獣(ビースト)を沈める石は持っている。ヘランは抑え込むための覆い」
「さっぱりわからない」
遺跡内のいずこかより湧いて出た夜獣(ビースト)。
それを戦わずして鎮めるだと。

「じゃあその石をよこせ。投げつければいいのか? 埋め込めばいいのか?」
「もう手遅れよ」
「じゃあどうしろって言うんだ!」
苛立ちが募り、爆発した。
目の前のラナーンとアレスが予想外に手こずっているせいもある。

タリスの声に反応したのは男性二人ではない。
その奥で威嚇の咆哮を上げている夜獣(ビースト)だ。
ラナーンがなぎ倒され、狂った夜獣(ビースト)はタリスへと一直線に向かってくる。
四足をついた巨体は長い全身の毛を振り乱し、醜悪な顔を持ち上げた。
鼻は上向き、縦に長い二つの穴からは荒い音を立てて息が漏れる。

前足を振り上げ、着地する度に突き上げる震動が、古びた石の床を走る。
体を伸ばせば軽くアレスを越える。
彼を背に乗せて走ったとしてもまるで動じないだろう巨体が迫ってくる。
ラナウの肩を突き、壁際に追いやるとタリスは剣を斜に構えた。
技の冴えた二人掛かりでも仕留められなかった相手を細腕二本で受け止められるはずはない。
まともに受けられない力は横に流す。

タリスの体が夜獣(ビースト)の毛に覆われた背中で消える。
均整のとれた細い体躯が潰された。
横をすり抜けタリスへ喰らいついた夜獣(ビースト)を追い、ラナーンが血の気の抜けた青い顔で身を翻す。
                     
それより速く夜獣(ビースト)へ距離を詰め、分厚い肉に覆われた腹部へ強烈な一閃を加えたのはアレスだった。
衝撃で夜獣(ビースト)の体が浮く。
タリスへ剥いた牙の攻撃が緩む。
大振りしたアレスの体勢が整う一瞬をラナーンは見逃さなかった。
夜獣(ビースト)が噴き出す獣臭、雷を思わせる絶え間ない唸り声の中、片足が持ち上がった夜獣(ビースト)の急所へ両手で押さえこんだ剣を突き立てる。
水平に腹部へ吸い込まれた剣は、ラナーンの鋭い目で剣先は骨を避け、内臓まで達した。
剣の柄を握り締め、暴れる夜獣(ビースト)の爪を避け後退するとともに剣を引き抜いた。
鮮やかな致命傷だ。
血が滝のように床を濡らす。
しかし動きは封じられない。
踏み鳴らす四肢の間からタリスが転がり出た。
手に剣はない。
抜け出す寸前にきっちり前脚の付け根へ剣を突き入れて退散した。
置き去りにした剣は夜獣(ビースト)の足で揺れている。

頭を振りまわす夜獣(ビースト)の眼前に回り込み、アレスが剣を横に構えた。
苦痛に顎を開いた口腔内へと、躊躇なく剣を叩き込んだ。
牙が刃に当たる。
折れるか。

夜獣(ビースト)はアレスの腕に押され、剣を深々と飲み込んでいく。
死に近づいていく異形の様を、壁に寄り添ったラナウは息を飲んで見つめていた。
剣先は内側から夜獣(ビースト)の脳へ到達、電力が落ちたように夜獣(ビースト)の肢体から力が抜けた。

床に伏した夜獣(ビースト)を見届けると、アレスは向き合ったまま緊張をそのままに後退した。
夜獣(ビースト)は血を吐きながら、赤い池に頭を落としている。
鮮やかな勝利とはいかなかった。
三対一で辛うじてもぎ取った勝利の結末が、全身返り血を浴び、加えて夜獣(ビースト)についての彼らの見解も狂わされるとあっては、素直に喜べない。
賛美されている輝かしい髪も、飛沫を嫌というほど被り額に流れる滴をタリスが手の甲で拭って立ち上がった。
息を切らして床に腰かけたままのラナーンに近づいた。

「大人しく見えてやるわね」
タリスの隣にラナウが駆け寄って隣に並んだ。
言葉を受けたラナーンは血と汗に湿った髪を、額から払った。

「本当だ。少し驚いた」
タリスがラナーンの額に指を沿わせ、髪を梳いた。

「けど、無茶はするな」
手を貸してラナーンを立ち上がらせると、右手にいたアレスへと振り返る。
剣は腰に収まり、腕を組んで夜獣(ビースト)を見つめ、考え込んでいる。

「投げるのもだめ、接触させるのもだめ、一体どうすれば使い物になるんだ。お前の持っている石は」
事態が一端小休止を迎え、タリスがラナウの所持している石の存在を思い出した。
夜獣(ビースト)がタリスに圧し掛かって来た発端もそれだ。
もっとも、大声を上げて注意を引きつけてしまった誤算はタリスの落ち度なのだが、腑に落ちない。

「石は壁に嵌め込んで異形を押さえる力を持つの。ヘラン自体が異形の窟を塞ぐ蓋となる」
「夜獣(ビースト)がここまで出てきては手の打ちようがないってことか」
扉を封鎖して、宝玉を嵌め込みその力で夜獣(ビースト)を退け、室内に封じ込める。

「効力が弱まるころ、私たちがヘランを訪れ石を入れ替える」
放置しておけば、遺跡は夜獣(ビースト)の巣窟となるばかりでなく、いずれ周囲に溢れだすという。

「防虫剤みたいだな」
タリスが危機感なく、しかし的確に表現した。
ラナウが苦笑する。

「水はないのか」
アレスが半ば諦めながらもラナウに聞いた。
食事では水袋の水を口にしていたことから、遺跡内の湧水への期待は薄い。
また、夜を明かして外に出れば雨が降り、体の汚れを清められるなどという都合がいいことは起こりそうにない。
まして次の街までこのままでというわけにもいかない。

「まったく、というわけではないわ」
少しは希望の持てる回答に、アレスは両腕を解いた。
遺跡の深部に水源がある。
カリムナが去ってからは水が絶えて久しいが、細工をすればあるいは水が少しばかりでも戻るかもしれない。

ただ、その深部にたどり着くまでが不安なのだとラナウが顔に影を落とした。
夜獣(ビースト)が浅い地点にまで迫ってきていた。
奥では一体どれほどの夜獣(ビースト)が蠢いているのか予想もつかない。

「タリス、怪我の状態は」
「擦り傷だ。夜獣(ビースト)の爪が掠っただけ。自然治癒で一日もすれば埋まる」
だが大量に夜獣(ビースト)の血を浴びている。
その血がどれほど雑菌を秘めているかは判別できないにしろ、早急に洗い清めた方が良いはずだ。

「ここを離れよう。夜通しこいつと一緒ってわけにもいかないだろう」
視線は動かなくなった夜獣(ビースト)に投げられる。

ラナウを間に挟みながら一団は扉を潜っていった。
話を聞けば、ラナウの武器らしい武器と言えば食材を刻めるほどの短剣のみだった。
人に向ければ致命傷を与えられないでもないが、夜獣(ビースト)相手だと一瞬で勝敗が決する。

異形の気配を感じれば逃げて、遭遇する前に扉の向こうに封じ込めるわ。
あっさりと言い切った。

辿り着くまでの道のりが長かったのは、左右にも広がる小部屋に宝玉を埋める作業をしながら奥へ向かったからだ。

ラナウにとって、夜獣(ビースト)に遭遇して戦闘に立ち会ったことは不幸だったが、代わりに護衛付きで任務を遂行でき、かつ水も補給できるかもしれない。
結果的には、益の方が上回った。

案内された小部屋は他とは雰囲気が異なった。
他の部屋より幅の細い乾いた濠が部屋の壁際を走り、中央には小さな社のようなものが存在感を滲ませている。

ラナウは身軽に濠を飛び越え、社の前に立つと作業を始めた。
手を動かし終わると、部屋の入口付近で密集しているデュラーンの一行に合流して事態が動くのを待った。
三十秒が経過したところで、アレスが身を前に乗り出した。
相変わらず濠は乾いたままで、水の音すらしない。
それをタリスが押さえた。
夜獣(ビースト)の下で大量の体液を被った。
彼女が一番水を欲している。

二分まで待った。
これ以上は待てないと、口にはしないが体が動いたアレスが手前の濠を
飛び越えたその時、下から濁った音が上って来た。
湧きあがる水の音だと確信したアレスは社に進むべきか後退すべきか迷い、入口へと戻った。
細く噴き出した水を円形の屋根が受け止める。
水は濠を伝い、やがてラナーンらの足もとへと流れてきた。

「カリムナがいたときほどには到底及ぶはずもないけれど、体を清めて水袋を満たすには十分の水量ね」
ラナウが水を手に掬い、透明度を見る。
最初は濁っていた水も、すぐに口にしても十分な清浄さを取り戻した。

タリスが浸した布を頭の上に掲げて絞る。
冷たい水が頭から頬、首筋へと筋を作る。

「気持ちいい」
「そうだわ。ほら、男性は一端外に出て」
退室を促された理由を即座に理解できず、二人は戸惑った。

「体中どろどろなのよ。着替えたり、体を拭いたりしたいでしょう」
最後まで言わせないでとラナウが声を尖らせたので慌てて二人は背を向けて、前の部屋へと下がった。

「この中で私を女扱いしてくれるのはお前だけだな」
タリスは結った髪の紐を抜き、髪を指で解しながら苦笑した。
だが、それでいい。
ともに闘っていく上で、女だからという距離は必要ない。
タリスは冷たい水で腕から清めた。











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