Silent History 96





黴臭い。
あまり長くいれば肺にまで菌糸の手が伸びてきそうなほど、不快な湿気が部屋へ重く充満している。
窓はあるがガラスは抜けている。
代わりに板が乱暴に釘で打ちつけてあるが、窓を開けても板を剥ぎ取っても見えるのは隣の崩れかけたビルの外壁だ。
扉を開け放ったとして、風が抜けるわけではない。

雑居ビルの一店舗、以前の店は何の商いをしていたのだろうか。
探ってみようにも面影はない。
引き払う時に金目になりそうなものはすべて運んで行ったのか。
あるいは、その後に訪れた訪問者らが持ち去ったのか。
文字通り、根こそぎ。
そこにあったであろう洗面台までもがえぐり取られていた。
残るのは蛇口の管だけだ。

アレスはカウンターに拳を置く。
その中には、灰色の塊が握られていた。

「ここは質屋じゃないんでな」
どこから見ているのか店の奥から声がした
絞り出すような掠れた男の声だ。
年齢は分からない。
三十、四十の男であるような、もしくは六十を過ぎる老人かもしれない。
言葉を口の中ですり潰すような口調だが、意味は通じた。

「俺もあんたに譲るためにわざわざ来たんじゃないんでね」
この石の価値からすれば、そこらの宝玉ではおよそ及ばないものだ。
だが売り渡すわけにはいかない。

「石の流れる道を探している」
「へえ。変わった石ではあるようだがな」
言いながら体を引きずるような重い足取りで奥から出てきた。
汗が染み込んだ服の異臭が鼻を突く。
縮れた体毛のどこからが髭か、どこからが髪なのか分からない。

「生まれたのはディグダ。石、獣(ビースト)、そして研究所だ」
「筋はある。だが踏み込んだらやばい場所ってのはどこにでもある」
相手は帝国だ。
しかも機密事項に絡む。

「石の調査費用と情報提供料合わせてこれくらいだな」
店の男がカウンターの上に薄汚れた指を並べる。

「吹っかけ過ぎじゃないか」
「リスクに見合うだけの額だ」
仕方がない。
ここでごねても他に有益な情報屋は見つからない。

「期限は三日後だ。その日に残りの半分を持って来る」
それがこちらの条件だ。
店の主は頷く代わりに沈黙した。






エストナールは本当に興味をそそられる国だ。
首都はディグダの影響が色濃い。
寺院もあるが、国全体が厳格な戒律に縛られているわけでもない。
夜になれば酒と歓声に沸き、食べ物も口に合う。

いろんな国を渡り、いろんな街を見た。
ラナーンにはどれも新鮮で、想像も及ばない現実で、好奇心は冷めることを知らなかった。
デュラーンで守られていた御子。
大切に大切に育まれた彼をいきなり突き放した父のディラス王。
意図は読めなかった。

デュラーンに留まれば穏やかで豊かな生活が約束されていたはずだ。
ディラスのそもそもの目的は、ラナーンを城、国から外に放出することだった。
デュラーンはラナーンの存在を放置している。
タリスの祖国、ファラトネスが内偵した調査報告を聞いた。
ラナーン失踪はおろか、動向の一切を秘匿している。
拾えた情報の断片も、ラナーンは城の神殿に籠っているだの、ファラトネスにいるだの、神殿に泊まり込んでいるだの、一貫性に欠いている。

そもそも、成人前のラナーンの姿形はデュラーン国民のほとんどが知らない。
王の次男で、名はラナーン。
国民が知り得ている情報はこれだけだ。
城では関係者がそろって口を固く守っている。
それでも漏れ出た情報を取ってしても、信じるに足りないものばかりだ。

アレスらにとっては、好都合だ。
デュラーンからは追手がかからない。
ファラトネスからは逆に資金が提供される。

懇意にしているファラトネス王、ラウティファータにも口を閉ざした
まま、一人で何を抱え、何を為そうというのか。

一番その疑問を消化できていないのは、息子で当事者のラナーンだった。
親離れをさせようにもやり方が強引過ぎる。



家族から引き剥がされるように離れ、タリスやアレス、途中でシーマも加わる大所帯での旅となり、ラナーンは少しずつ変わってきた。
腕が立ち、機転の利くタリスと情報収集と実行力に加え知力と体力に富むアレスに挟まれ、城に籠っていた自分は荷物に過ぎないと常に引け目を感じていた。
ラナーンにもアレスに仕込まれた腕はある。
だがいかんせん度胸に欠いた。
気迫と度胸は人並み以上のタリスが隣にいて、いかなる剣、矛であろうと貫けはしない鉄壁のデュラーン城に守られていては、据わる肝も据わらない。
そのラナーンが、自分の意思を伝えたことをアレスは不安に思う以上にうれしかった。


日暮れが近づく酒場で、学生に話しかけられ、戸惑いながらも対応して聞き取りたい情報は吸収できた。

ラナーンが王の子ではなく学生だったなら、デュラーンでも今のように談笑していられるのかもしれない。
その姿を現実と重ね合わせながら、離れた席から見守った。






「ディグダの南西部に獣(ビースト)の研究施設がある。石はそこで造られた」
研究施設はいくつか試作品が造られ、うち獣(ビースト)の力に耐え得る石は五つできあがった。

「獣(ビースト)の黒い卵、か」
手の内に握り込んである石の肌を親指でなぞった。
歪な形で、決して軟肌ではない石は、力を吐き出し今は灰色に変色していた。

「完成品じゃない。封じられた獣(ビースト)を放出する反動のように、使用者の精気が削られる。その上、使用回数に上限がある。今のどころ一回の耐久度だがな。これ以上詳しい石の性能については追加料金だ」
「それは一端置いておこう。一つはこの石、残り四つはどこにある」
「そもそも厳重な管理下にある石が流出したのは事故が切っ掛けだ」
研究施設に大規模な火災事故が起こった。
そのどさくさに紛れて五つのうち三つは回収できたが二つが行方不明になった。
その不明の一つがアレスの手の中にある石となる。

「残り一つは。使われた形跡はあるのか」
「今のところは聞いちゃいない。使われようとどうしようと俺には関係ないけどな」
おおよその輪郭は把握した。


「石をディグダから運んだのは誰だ」
何者かが運び、エストナールの役人の手に渡り、ゼランのもとに行き着いた。
ゼランがシーマの親友のイリアを死よりも深い苦痛を与えてから殺した。
元凶を知りたい。


「クルト・エマルシ。年齢四十八、グラスタイン地区に住んでいる。そいつが運び屋だ」
口を閉ざした。
ここまでが金額分だと言いたいのだった。
三日前に置いて帰った前金半額、残りの半額は店に入ってからカウンターに乗せているアレスの手の下にある。
情報屋に促され、アレスは左手を退けた。

「クルト・エマルシとは。エストナールの男ではないな」
名前からして、エストナールとは異なる血が入っている。
ポケットにねじ込んであった札を三枚抜き取り、アレスは新たにカウンターに乗せた。

グラスタイン地区と言われても、範囲が広すぎる。
こと、低階層地区は建物が入り組んでいる分探しにくい。

「エマルシはお隣のカリダ出身だ。七年前にエストナールに流れ込んできた」
カリダ人は癖のある髪をしている。
エストナール人と比べれば幾分か寡黙なのも特徴だ。


「エマルネアって酒場がある。薬の取引場所ったら有名な場所だ。そこから通りを二つ進む。角を曲がったところがやつの住居だ。エマルシの行きつけの酒場はエマルネアじゃない。ジーカスって酒場だ」
話を聞けば、クルト・エマルシは気の小さい男で、エマルネアで薬の運び絡みで諍いに巻き込まれたらしい。
以来、しばらくエマルネアの前を避けているそうだ。
クルト・エマルシの住居からジーカスまでの道、押さえるのならばそこだ。

「外観は」
「頬に黒子がある」
情報屋は自分の左頬を突いた。
それだけじゃ分からない。

「長髪の色は黄褐色。ずいぶん薄くなってきていて、後ろで結んで垂らしている」
「他には」
「おまえさんより少し小さくて猫背だ。何より、右耳が三分の一ほど、齧られたように欠けている」
「右耳を欠損した男か」
十分だ。
アレスは三枚の札を抑えていた手を離した。


「石は何人もの手を渡っているだろう。一人を捕まえたところで何にもならん」
金を引き寄せ尻のポケットに押し込むと、情報屋は上目使いでアレスを見た。

「分かるところまででいい。多くは望まないさ」
崩れて抜けそうなコンクリートの床で踵を返し、入口へと戻った。
タリスには結果報告だけでいい。
あまり気持ちいい仕事だとは言えないので、極力三人を巻き込みたくはない。






下調べは入念にしておいた。
エマルシの友人関係、帰宅ルート、時間。
頭に入れて、決行したのは情報を仕入れてから四日後だった。

同室のラナーンはとっくに眠りについている。
隣から音が途絶えて久しい。
廊下に耳を出した。
階下の談話室は消えかけた焚き火のように、夜の賑わいは終盤に向かっている。

素早く身支度を済ませたアレスは目立つ長剣は置いて、コートの内ポケットにナイフだけを忍ばせた。




ジーカスの店に張り込んだ。
クルト・エマルシは予測通りの時間にフロアの左端の一団で固まっていた。
エマルシらが席を立ったのは日付が変わって半時間後だった。
フロアの席に空きが目立つ中、時折椅子の背に腰や腹を擦りながら出口に流れ出た。
尾行とはいえ、エマルシの通る道はおおよそ把握していた。
闇夜に見失うことはまずない。

全員が出口を潜ってから、アレスがそろりと腰を上げた。
靴音を荒げないよう注意を払い、大股で出口に向かう。

枝が分かれていくように、エマルシら酔っ払いの一団は一人、また一人と街に散っていく。
飲み友達と二人にまで人数が削れた。
闇に身を溶かして強襲をかければ手っ取り早くて済むが、極力大人しく捕獲したい。
明度の濃い服と、足音を消してくれる底の柔らかい靴で距離を保ちつつ後を付ける。
アパートの前で友人が左に折れた。
ここから先はエマルシ一人、住居までは徒歩十二分。
アレスが足元に注意しながら街灯を潜るごと、段階的に距離を縮めていく。
次の角を曲がれば建築資材置き場だ。
細い横道で人も少ない。
口を塞いで建築資材の陰に押し込む計画だ。

エマルシが角を曲がる、アレスが三秒遅れて足早に曲がる。
手を伸ばし、猫背の肩に掛けようとしたとき、エマルシが振り向いた。


「何のつもりだ? 後ろでごそごそと」
尾行がばれたか。
だが相手は男一人。
強引だが、ここまで来たんだ、無理にでも吐かせてやる。

アレスが踏み込んだ。
反射的にエマルシが体を引いた。
拳を胸元に引き寄せると、右から物音がした。
次に視界に影が入る。
一つ、二つ。
エマルシと別れた友人とは違う。
いかにもな体格をした二人がアレスの前後に立ちふさがった。

せっかくの情報源を前にしておきながら退却するか。
とにかく退路を確保しなければならない。
そうこう考えるうちに、相手の方から硬直した空気を壊してくれた。

重そうな腕がアレスに向かって飛んでくる。
飛び下がって避ければ背後から掴みかかってくる。
右に頭を低くして避け、左足で引っかけるように足払いを掛けた。
男の足が絡まって足踏みをする間に、目の前の男に殴りかかった。
だが深く嵌らない。

思い切り踏み切って、足を振り上げた。
太い腕で防御された正面は諦め、回した左足で脇腹を狙った。
厄介なことに、素人の男ではないらしい。
筋肉まみれの重い体をしていながら、動きは素早い。

大きく踏み込んで、利き手で側頭部を殴りつける。
ガードの隙を狙った。
脳震盪で通常の人間なら倒れるところだ。

しかし、立ちくらみどころか悠然と腕の隙間から目を出して不気味に笑っている。

「嘘だろ」
絶句するしかない。
後ろからは太い腕や足が邪魔してくる。
息を吐き出した。
焦るな。
どんな怪物染みた奴だって、人間だ。
急所を狙っていけばいい。
身長はあちらの方が上なのだから、狙えるか所を的確に。

腰を落とした。
大斧を振り下ろされるように落ちてくる拳をかわしながら隙を窺う。

手の付け根で顎を叩き上げた。
首にまで筋肉が巻きついていると見えて、思ったよりダメージは与えられなかったが、ひるませることはできた。
微かに仰け反った胴体へ向けて手を重ねて、肋骨を叩く。
背後の気配には腕よりもリーチの長い脚で応戦した。
目の前は潰した。
後は後ろの一人だけ。

「また、湧いたのかよ」
立っている影が二人になる。

「タダでこうしてボディーガードを派遣してくれる。すげえだろうが。そんだけでけえってことなんだよ。お前が探ろうと足掻いてるモノが」
エストナールの高官が手にした石はそれほど知られるのが怖いか。
今までにアレスのように探りに近づいた人間を、こうして潰していったのか。

「ディグダ絡みだからな。知られたくないのは、石の存在か、研究所の存在か、あるいは」
「教えてやろうか。お前と同じように寄ってきた蝿どもがどう踏み潰されたかを」
しゃべり好きが引っ込むと、傭兵がにじり寄ってきた。
一人は折れた肋骨が痛むのか片膝をついたままだ。
軽症の一人と、増えた一人。
音と薄闇に鈍っている視界とで動きを読み取る。
後ろが速く動いた。
砂を潰す音、叩きつけられる拳には刃物が握られていた。



白い街灯に映し出される鈍色の刃が目の端に入る。
アレスも胸元からナイフを取り出した。
だが距離が保てない。
この位置では逃れることもできず、腕を差し出すことになる。

背中が冷たくなったとき、アレスを押しのけるようにローブの人影が覆いかぶさった。
続く金属音。

加勢か。
しかし、いったい誰が。

合わせた背中は温かい。
互いに外を向いた顔は見合わせることができなかったが、とにかく助かった。
背を押しつけ合い、二人はゆっくりと立ち上がった。











go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page
















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送