Silent History 91





「何だか、ずいぶん長く夢を見ていた気がしたよ」
目を覚まして船上で、これから神の棲む島へ向うんだよ、何を寝ぼけているんだと言われても信じてしまいそうな気分だ。

妙な浮遊感と、現実味のなさ。
ここ数ヶ月、あまりの物事の変動の幅に平常値を見失っていた。
当たり前とは何であったのか。
今まで思い込んできたものは何であったのか。
見てきたものや経験、知識が崩されていく。
世界観が広がる驚きと好奇心が疼き、同時にどこか踏み入れてはいけない場所に踏み出した恐れもある。
おかしな感覚だった。
一人だったならば、言い様のない不安に潰されそうになっていただろう。

タリスは甲板の上に膝を立てて座っていた。
ファラトネスの第五王女でありながら、共もつけずに国内放浪するのが趣味の一つである彼女は、今日もまた現地調達の服に包まれていた。
ほぼ一枚布の簡素な島の服だったが、誂えたようにタリスの体の線に合っている。

彼女はファラトネスの庭で寛いでいるかのように、背中を船室の壁に預け、影の下から晴れ渡る空を眺めて呟いていた。
考え事は尽きない。
頭を回せば回すほど、深みに嵌っていくようだ。
なるようにしかならない。
故郷と愛する者たちと遠く離れた今、ただ不安だの先が見えないだのと嘆いていても仕方がない。
もっとも、親友のラナーンに付いて故郷から飛び出したのは自分の意思だ。
今戻ったところで何もできない自分に悔しい思いを抱きながら、後悔を噛み締めるだけだ。


「島は平和だった。ラナーンは、ああ。夜獣(ビースト)に襲われたんだったな」
目の前で何をするでもなく立っている親友に声を投げつけた。

「というより、お互いがびっくりしたって感じだったから。正しくは違うね。かすり傷だけだったし」
傷跡はまだ薄く残っているが、時間が経てば消えていく。

タリスが自分の隣の床を手のひらで三つ叩いた。
黙ってここに座れと命じている。
特に断る理由も無い。
エストナール本土に着くまでにはまだ時間もある。
甲板の上で立ってばかりいるのも馬鹿馬鹿しい。

腰を下ろして並んだタリスは背が高くなったかに思えた。
実際はラナーンと同じくらいなはずだが、気のせいだろうか。
磨きぬかれた甲板に片足が無防備に真っ直ぐ投げ出されている。
日焼けを知らない脚だ。

「ところで、島での収穫は?」
「収穫って? おれたちが知ってる昔話とは違う話があったってこととか」
「うん。他には」
「黒の王が実は神王って呼ばれてる場所もあるってことかな。でもそれってタリスも知ってるはずだし、話したよな」
情報は常に共有している。
知らないはずはないし、タリスが忘れているとも考えられない。

「ラナーンはまだまだだな。何でわざわざ過保護な兄さんが警備解除してるところで、こうしてこそこそ顔を寄せて話をしてると思ってるんだ」
さっぱり意味が分からず、ラナーンは両脚を抱え込んだ。
彼の保護者は今シーマに引っ張られながら船内散策中だった。
一端外に出ればラナーンに張り付いているが、幼馴染が側にいれば警戒は緩む。

「と言って見たものの、ラナーンの鈍さは今に始まったことではないし、それ以前の問題か」
「話を吹っかけておいて、勝手に納得するなよ」
「彼女とは仲良くなれたのか?」
彼女が誰を示す人称代名詞なのかすぐに思い当たらずラナーンはすぐに返答できなかった。
シーマのことだったら、言うまでもなく仲が良い。
ラナーンより年下で幼く見えても、配慮という言葉を知っている。
明るいがうるさくはない。

「ずっと泉に入り浸ってただろう?」
「あ、そうだった」
「忘れてたのか? 酷いやつだ」
「ディグダ出身の子だよ。顔立ちもグラストリアーナっぽかったし、言葉もたぶん」
骨が細くて軽そうな感じがした。
褐色の目に、穏やかな温かみがあった。
デュラーンやエストナール方面の女性ではないのは確かだ。

「学生なんだって。だからあまりディグダの事情に精通してないらしくって。シーマの黒い石、それとなく聞いてみたんだけど」
ディグダからエストナールに流れ、それをゼランが手にしてから悲劇が起こった。
愛憎と狂気に駆られたゼランがシーマの最愛の友人イリアを死よりも深い苦痛に貶めた。
夜獣(ビースト)に浸食される精神と肉体、それをもたらした黒い石。
生み出したのはディグダだ。
口には出さないが、シーマはディグダを恨んでいるはずだ。

「エストナールの深部に突っ込まなければ分からないか。でも実際、ディグダにとって夜獣(ビースト)はどういう位置づけになっているかだな」
「今のところ、討伐隊を派遣して出没地点を叩いているっていうのは耳に入ってくるけど」
詳細は明確には見えない。
しかし黒の石のようなものは研究されている。

「夜獣(ビースト)に構うより、目の前の脅威との対峙に忙しいのかもな」
「ルクシェリース?」
「それと内紛の爆弾を抱えているから」
タリスの神妙な顔つきに、ディグダに戻ったセラは無事なのだろうかと不安になった。
学校に通っていて、そこは驚くほど平和なのだと笑っていた。
今は、と彼女が最後に付け加えた一言が、タリスの言葉で重みを増した。
どうにもできないことなのだ。
彼女もラナーンと同じ、大きな力の前には小さな一粒でしかない。
今は見て知ることしかできない。

「ゆっくり考えてみたかったんだって言ってた。外に出て、初めて自分がどんなに温かい場所を生きてきたのか分かったって。それっておれと同じだ」
いろんな目に見えないものに守られてきた。
当たり前だと思っていて、だから見えなかった。

タリスの足先が機嫌よく揺れた。

「ラナーンが積極的に誰かの話をするのなんて、珍しい。気に入ったのか?」
「セラを?」
「ラナーンだって思春期の男の子だろう」
「思春期って。何、言ってるんだ」
見る間にラナーンが赤くなっていく。
面白がってタリスが更に食いついた。
ラナーンがこの手の話に弱いことは熟知している。
まともに女性と話をすることなどデュラーンではなかった。

「何も。話、聞いただけだ。そんな風に、思ってもみなかった」
目が泳いで、爆発しそうなくらいに茹で上がっている。
突付けば楽しい。
アレスの目がない場所での暇つぶしにはちょうどいい。

「やっぱりラナーンだったな。恋、実らずか」
居た堪れなくなり膝の間に顔を埋めてしまったラナーンを笑いながら、タリスは一人立ち上がり甲板の中央に歩き出した。
シーマの登場を読んでいたかのようだ。
実際タリスならば耳でシーマの足音を聞き取れていたかもしれない。

「アレスは置いてきたか?」
「飲み物を買ってくるよ。ほら、これは私とタリスの分ね」
僅かに汗をかいたカップをタリスに突き出した。
薄黄色の白濁した果汁が波を立てていた。
甲板で乾されていてちょうど喉が渇いたところだ。

「シーマ、上の展望室は」
「さっきアレスと横の通路は通ったけど。どうしたんだ? ラナーン」
片手の飲み物を零さないように、殻篭りして身を丸めたラナーンを覗き込んだ。

「泣かせたらアレスがうるさいよ、タリス」
「あいつには黙っててくれるんだろう?」
穏やかな日にアレスの凄まじい睨みの一突きなど受けたくはない。

「ラナーンも展望室、見に行かないか?」
「え、でも」
ようやく顔を持ち上げた。
泣いてはいないが、僅かに赤い。

アレスはここに戻ってくるはずだ。
両手に飲み物を抱えて行方知れずの三人を探し回らせるのは酷だ。

「ならラナーンはここで待機。アレスとゆっくり散歩してこい」
島とエストナール本土とを繋ぐ小さな船だ。
歩いていればそのうち遭遇する。
ラナーンを放り出して、タリスはシーマを引き連れ室内から展望室への階段を駆け上がった。
閑散としている船内は歩き放題だ。

展望室から下を見下ろせば、眼下にはさっきまでいたデッキが見下ろせる。
まだラナーンがそこにいた。
こちらに背中を向け、手摺に両腕を絡ませている。
程なくアレスが両手に飲み物を握って現れた。
一言二言ラナーンと言葉を交わして片手のカップを突き出した。
声は聞こえないが、周りに目を向けながら話しているので、タリスとシーマの行方を尋ねたのだろうことは分かった。

「シーマ。ひとは何かを守りたいという気持ちが強いほど、強くなれる。私はそう思っている」
天気が良い。
雲一つないとは言い切れないが、甲板は真っ直ぐ下りる太陽の光を受けている。
潮風からガラス一枚で守られた展望室は風の音にも会話が邪魔されない。

「私も、そう思うよ。技量も必要だけど。アレスが強いのも、だからなんだね」
「昔から王子さま一筋だからな。外を歩いて回っても、必ず王子さまの所に戻ってくる」
「忠義者だ」
「本人や周りが思う以上に依存症は酷い」
アレスが大切に守ってきた主だからだ。

「エストナール、いよいよ首都進撃か」
「そんな華々しくないけどね。それに行って何ができるか分からない」
仁王立ちで意気揚々と水平線を見据えるタリスをシーマが横目で軽く牽制した。

「何とかなるものなんだよ。今までだって無事ここまで来れたんだから」
「けど首都は私もよく知らない」
「その点は安心して良い」
知らぬ土地での情報収集と拠点作りなど、アレスの能力は剣術だけに留まらない。
ラナーンの父ディラス王が、諸国巡行を命じたお陰で養われた行動力がここで役に立つ。

「便利な奴だよ。まあ、調理については言葉を濁しておきたいけどね」
あくまで食べられるものを作れるというだけだ。

「デュラーンは魔術が使える国なんだろう?」
「素養と能力があればな」
「アレスとラナーンはあまり恵まれなかったらしい」
剣の刃に水膜を張り、相手を裁つ。
派手な術は使えない。

「ほら、アレスが自分の剣を研いでる姿、見たことあるか?」
手入れはしていても、シーマは砥石に当てている姿を目にしたことはない。

「タリスはどうなんだよ」
「少しだけならな」
デュラーンの城や研究所に篭っている術師やファラトネスの城が抱えている術師には及ばない。

それでも見てみたいとシーマがせがむので、展望室から扉一枚外に出て、人気のない上部デッキの建物の影へ回りこんだ。
柵に背中を持たせかける。
左右に人の気配はない。
風の強い上部デッキにはほとんど人が上ってこない。
その上ここは展望室から死角になる。
ラナーンとアレスがいた下部デッキには人が疎らだ。
見上げない限り、シーマとタリスの影に気付くことはない。
幸いデッキにいるほとんどが船の縁から流れていく波を追っていた。

指揮者のように構えるのではなく、指先の力を抜いたまま両手を胸の前に持ち上げた。
雨、降って来たかなと確かめるような手つきだ。
両手を目の前でもみ合わせ引き離したか思うと、飴のように火が伸びた。
自分の手の様子を眺める目つきのタリスの顔を、朱の炎が照らす。
手の上で鞠球を転がすように、零すこともなく火を自在に躍らせた。
手にまとわりつく火を絡め取るように右手で押さえ込んだ。
一瞬にして目の前で展開された火が消えた。
鎮火したというよりも、また手の中に吸い込まれたようだった。
縦に上る火ではなく、粘性を帯びてタリスの片手から片手に流れていた。

呆気に取られたまま、炎が消えていったタリスの両手を掴んだ。
手の皺をなぞるが、焦げの痕も、火傷の痕も、炎が残した熱さもない。
手品だ。
それか幻か。

「どんな、感じなんだ」
気の済むまでタリスの手を調べ尽くしたシーマが、最後に口にした。

「肌がざわつくんだ。私の場合、集中して、腰の辺りから鳥肌が上に上に上ってくる感じ」
脇腹、胸、上腕、手首、指先、首、頬、後頭部、額。
這い上がってくる痺れのようなざわつきを覚える。

「手から火柱が噴出したり、火の玉を相手に投げつけたりできる?」
「できるわけないだろう」
「そういうものなんだ?」
「そういうものなんだ」
エストナールは汚職で汚れてはいても、街に夜獣(ビースト)はいない。
剣を抜いたり、炎を躍らせたりする必要もないだろう。
そのほうが良い。
タリスは思う。
何かと戦うために旅をしているわけではないのだから、ただ平和であればいい。

「そういえば、アレスが言っていた。勇者や英雄になりたいわけじゃない。目の前の守るべきものを守れればそれでいいと」
「欲があるのかないのかよく分からないね」
「そうだな」
「収穫があるといいけど。ああ、首都で」
「あの黒い石、それが何なのかもわかるといい」
「そう、だね」
シーマの古傷が痛む。
そのために、ここまで来た。
見つからなくても、何も分からなくても、自分なりに終わらせるために。

「大丈夫。隣には私たちがいるから」
「ありがとう」
シーマは目を閉じ、口を閉ざしてもう一度胸の中で呟いた。
ありがとう。
最愛の友、イリアを失ってもシーマがシーマであり続けられたのは、集落の仲間とタリスたちがいたからだ。
感謝、している。
心から。











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