Silent History 90





医者の家の扉からは、鮮やかな地図が描かれた看板は外されていた。
今日の散歩は堪能したらしい。
家の扉を捻り開いてみたが、覗いたところ人気はない。
診療所の方だろうかとタリスが考えているうちに、シーマが先に走り、振り返って手を振っている。
小さな顔に収まった落ちそうに大きな気の強そうな瞳、その下の体は小柄ですばしっこい。
警戒心と好奇心もまるで小動物だった。
さしずめ一つに結ばれ揺れる長い髪は尻尾だ。

水面でも爪先で飛び歩きそうな、軽やかに走る背中を見ながらタリスは、自分の城に連れ帰りたいとすら思った。
ファラトネスの舞姫ラフィエルタの軽やかさと優雅さを備えた舞い、それとは違う魅力がある。
落ち葉のように舞い落ち、風に吹かれた花びらのように回る。

だが彼女を城の中で閉じ込めておくなどできるはずもない。
タリスの同居人、夜獣(ビースト)のイーヴァーの方が幾倍も大人しい。

「イーヴァー、元気だと聞いたけど。寂しがっているだろうな」
思わず口に出してしまった弱気が、一層タリスの心を締め付ける。
帰ろうという意思はまだない。
やるべきことがあるからだ。
ただ、時折思う。
イーヴァーがいるだけでどれ程心強いか知れない。
だが連れて歩けばたちまち周りは大騒ぎになる。

「あんなに美しいのに」
背中の柔らかい銀毛に手を埋めるだけで幸せな気持ちになれる。
鋭い目がタリスと目が合うとふと和らぐ瞬間や、タリスの部屋の片隅が己の場所だと決め込んで前足の上に顔を乗せて寝そべる優雅な姿を思い出す。
タリスの部屋の天窓から月光が振り落ちてきたときのイーヴァーの銀毛の目映さは、幻でも見ているかのように恍惚となる。
思い出に耽りしばし至福の時に浸っていたら、シーマの声で現実に引き戻された。

「アレス! 戻ってきてたんだな」
家の角を曲がったところで、シーマを前にしたアレスの立ち姿が見えた。
いつもアレスがくっつけて歩いているラナーンの姿が近くにない。

「あれ。ラナーンは?」
朝食を外で仲良く取って、一緒に戻ってくるものだと思っていた。

「帰ってるよ。部屋で眠ってる」
「よく寝る子だな」
「昼寝大好きだからな」
アレスが声を立てて抜けるように笑う。

「寝る子は育つ、はずなんだけどな」
シーマの後ろからタリスがのんびりとした歩調でやって来た。

「育ってないよな」
「育ってないね」
アレスとタリスが同時に口にした。

「ラナーンの父上は太ってはいないが背はアレスと同じくらい高い人なんだ。ユリオスもそれなりに高かったぞ」
「ラナーンはどうして小柄なままなんだろうな。城での屋内栽培がいけなかったのかな」
「ずいぶんな言われようだな。ラナーンが聞けば泣くぞ」
アレスが擁護したが、タリスに反省の色はない。

「まだまだ伸びるよ。小柄って言ったって、タリスぐらいはあるじゃないか。アレスがでか過ぎるんだ」
シーマがタリスの天頂を見上げた。
ラナーンと並ぶほどのタリスの背丈は女性の中では高い方だ。

「で、アレスはこんなところで何をしてたんだ。芝刈りか? 剪定か?」
タリスが落とした目の先には、アレスが抜き身で剣を提げている。

「物騒だ」
「シーマ、アレスに嫌味でも言って恨みを買ったことは?」
二人で口々に言うものだから、アレスは剣を鞘に収めた。

「体が鈍ってただけだ」
「やるなら敷地の外でやればいいのに。医者が通ってうっかり細切れにされちゃかなわないだろ」
「ちゃんと了解を取っているし、家の中でじっとしてるさ」
実際敷地の外で剣を振っている姿を島民に見られでもしたら、そちらの方が物騒で厄介なことになる。

「医者、帰ってるのか」
シーマが診療所の奥まった入り口へ顔を振った。

「今一人、診察中。もうすぐ終わるんじゃないか。診てもらえばどうだ。少しは大人しくなるかもしれない」
「私よりおまえの過保護病と名のつく心配性を治してもらえ」
アレスに言い返す隙を与えないままシーマを引き連れて診療所の入り口に回りこんだ。
ちょうど受診を終えた患者が扉を潜って外にでたことろに鉢合わせた。
薬らしき袋は手にしておらず、ただ紙を握り締めているだけだ。
タリスが興味深げに通り過ぎていく紙を眺めていたら患者の女性が、タリスの目に気が付いた。

「処方箋よ。薬屋さんが町にあるから。そこで出してもらうの」
親切な初老の女性が教えてくれた。
左足の間接が痛むのだだそうだ。

「ここじゃないんだな」
「ここは先生が診てくれて薬の種類を教えてくれるの」
「なるほど」
唸ったのはシーマだった。

「いいな。薬屋か」
彼女の頭の中ではすでに十数年後に自分の店を構えている姿が広がっている。





診療所の中に入れば、いかにも手作りといった無骨な丸いテーブルが一つ。
回りを取り囲むように、同じように木を削って作られた椅子が六つ置かれている。
木目を見る限りまだ新しい木材で作られたようだ。
机はアレスが上で飛び跳ねても壊れないような厚く硬い板でできている。
椅子と机と給茶器があるだけで、他に人もいない。

簡素な待合室を抜けて奥の診察室に入った。
白衣すら纏っていない医者が椅子に埋まっていた。
カルテを机の上に置いて書き込んでいる姿は、ようやく医者らしく見えた。

「ああ、座ってって言いたいところだけど椅子がないね。じゃあそこの、ベッドに座って」
タリス、アレス、シーマの三人が狭い診察室で腰を下ろしたところで、医者が器用に四人分の茶を運んできた。

「次の患者がくるまでいて良いよ。お客が来ないからといって診療所を空にしておくわけにもいかないしね」
寛いでいたところで、タリスが話を聞きに来たと切り出した。

「そういえば、きみたち夜獣(ビースト)を追ってきたって言ったな」
「ファラトネスやデュラーンでは夜獣(ビースト)は増加して、集落の近くにも現れて、山道では人が殺される。放置しておけないほどに」
この島での夜獣(ビースト)とはまるで違うもののように荒々しい。

「理由はわかったのかね」
「はっきりとは。でも夜獣(ビースト)は森から湧いて出る。森には夜獣(ビースト)を吐き出す裂け目がある。それに神門(ゲート)もある。他とこことの違いは森なんだ」
タリスが神妙に眉を寄せた。

「陸地にも森はあるだろう」
エストナールにも森はある。
だが島ほど豊かではない。

「この島は黒の王を神王とし、崇めた島。同じような流れを探そうと思う」
「もう一つの歴史をか? 正しいものを見定めるのか」
「どれが正しいかなんていえない。ただ」
「ただ知りたいだけなんだ」
タリスの語尻を拾って、最後の一人が診察室を潜った。
寝起きのラナーンだ。
一斉に入り口を振り返った。
寝ぼけ眼も髪の乱れもなく、大きな瞳は一同の凝視にも怯まなかった。


「夜獣(ビースト)はここで島の人と一緒に生きてる。森に包まれながら、生きてる。どうしてか知りたい。神門(ゲート)が何なのか、神王が何なのかも、知りたい」
「神王は黒の王のように世界を支配したりしない。見守っていた。秩序の王とも呼ばれている」
「他にも島以外で神王派の国は?」
「さあな。本土に行けば分かるかもな。エストナールの地続きで逃げ込んだ地域があるだろうから」
島の人間らしい、日溜りの中で囁くような穏やかな口調で医者が続けた。
エストナール。
行けば魔の抜け殻の石についても分かるかもしれない。


千五百年前の世界。
魔が溢れていた時代。
そこで黒の王、あるいは神王は何をしていた。
吹き出る夜獣(ビースト)を止める術はあるのか。
もし、何も得られなかったら。
知ったところで何も変わらなかったら。
考えただけで体中が寒くなるが、立ち止まりたくない。

「魔は人の驕りに対する罪だとも言う。だが今は真実は森の深くに隠れてしまった。それでも探し求めるというのなら、歩くことだね」
歩き続け、求め続けることだ。

「願いのすべてが叶うわけじゃない。しかし望まなければ何も叶わない。そうだろう?」
手を伸ばさなければ、掴めない。
踏み出さなければ、始まらない。

「神は人間の作り出した想像物だと思うかね」
存在が不確かなもの。
人間がいるのだと意識すれば、それは存在に繋がるもの。

「私はいると思うんだけどね」
医者は笑わず、静かに呟いた。











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