Silent History 88





アレスは手際良く朝食を包むと、さっさと家から出て行った。
残されたタリスとシーマは向き合って、寂しい朝の食卓を囲んだ。
思えば一行の女性二人で食事を取ったことはなかった。

「過保護だね」
「ああ、昔からだ。アレスはずっとラナーンにべったりくっついてる」
「ま、分からなくもないけど」
どうも彼の空気は庇護欲をそそる。

「箱入り息子ならぬ、城ごもり王子だからな」
「成人するまでは外に出てはいけないっていうあれ?」
「そう。ラナーンはその掟に忠実だった。私なら年の桁が上がった瞬間、城を抜け出してるだろうな」
「あー、タリスなら止める衛兵も殴り倒してそうだ」
笑いを隠すように、シーマはカップを口まで持ち上げて傾けた。
タリスは、朝から威勢良く食事を口に運んでいた。

「ラナーンは、どうして自発的って言葉から遠いんだろう」
「うーん、要因はいくつかあるんだろうけど」
決断力と実行力のタリスとは正反対な幼馴染だった。
それは昔からだが、近年その度合いが増しているようにも思える。

「育った環境は悪くない。父親のディラス王は人格者だし息子たちを心から愛している。王妃は、ラナーンが物心付いたごろに亡くなってしまった」
聡明で、柔和で、美しくて、日溜りのような温かい人だった。

「病気で?」
「そう。伏せってから一年くらい掛けて、病が命を削っていった」
どんな薬も医術も魔術ですら消え行く命を止めることはできなかった。

「ラナーンの兄のユリオスは泣かなかった」
今でも思い浮かぶ。
王妃の死の知らせが隣国ファラトネスに飛んだ日。
船でタリスらファラトネスの王族はデュラーンに渡った。
冷たく蝋人形のように横たわる王妃の前で、ラナーンの小さな肩を左腕に抱き、右手は握り潰しそうに堅い拳が震えていた。

唇は青く、顔面は倒れそうなほど白かった。
目を見開いたまま、瞬きすらせず、強張った顔がいつまでもそこにあった。
式が終わっても、数日、数週間、数ヶ月経っても、ユリオスは折れなかった。

苦しいのは最愛の王妃を亡くした父ディラス王と、まだ幼い弟のラナーンであることがよく分かっていた。
涙は流していけない。
声を上げてはいけない。
弱音や泣き言など言ってはいけない。
無数の枷と鎖で自らを縛り上げた。

「その兄の隠された痛みを、ラナーンは分かっていた。だってずっと一緒にいたんだ。苦しみだって、すぐに見抜く」
兄は何においても弟を優先させた。
兄にとって弟は身近にいる一番に守るべき存在だった。
何もできないまま弱っていった母を見てきたので余計に守らねばと強く思っていた。

「兄のユリオスは父ディラス王よりデュラーンを譲り受けることになる。その身はもはやユリオスだけのものではない」
父のディラスもそうだった。
子のユリオスも同じ道を歩む運命にあった。

「政略結婚。国と国との結びつきをユリオスは覚悟していた」
空になった食器を机の端に寄せ、食後にカップを引き寄せた。
意識しないまま落とした顔が、カップの中に小さく浮かぶ。

「だが、ユリオスにはもう一人大切な人がいた」
「恋人、か」
「エレーネという。ラナーンとユリオスの従妹だ」
ユリオスはエレーネを想いながらも、口を閉ざしていた。

「ユリオスは、変に物分りのいい男なんだ。にも拘らず、エレーネへの想いを断つなんて到底できるはずもない」
「それを、ラナーンは知っていたのか? ずっと側で見てたのか」
「ああ。どう思う。自分には自由が与えられ、一方の兄には国という枷が彼を縛り、想いを奪う。どんな気持ちなんだろうな」
与えられた自由はさぞかし重かっただろう。

「ラナーンは城の壁を越えられなかったんじゃない。自ら籠の鳥であろうとしていた」
成人まで外の目に触れてはならない掟は、彼が望んで架した痛みだ。
しかしそんなものでユリオスの救いにはならない。

「そして時の針は動いた」




シーマは椅子から離れられなかった。
机の上に置いてある空の皿は乾いていた。
手の中のカップももう空だ。
そこは朝食と木の匂いが漂い、薄布に透いて入る朝日の満ちる小さなキッチンだった。
しかしシーマの目の前には未だ見たことのない想像で創られていくデュラーンの光景が広がっていた。

果てなく広がるデュラーン城の緑、穏やかに豊かに生い茂る木々、その先に気の遠くなるほど長い城壁の一部が覗く。
石を重ねて造られた城壁はいかなる武器でも貫けないほど厚く、いかなる生き物ですら越えることを許さないほど高くそびえる。

ラナーンが気に入っている泉は広大なデュラーン城の一角に隠れるようにひっそりとある。
彼の秘密の場所だ。
ラナーンはその場所でだけ、ただ一人無力さに顔を歪めていた。
どうすればユリオスの幸せに繋がるのかを考えていた。
ユリオスとエレーネの視線が重なり、互いの痛みを突き放すように反れる瞬間を目にしたとき。
ラナーンは何ともいえない胸の痛みを覚える。
自由なはずなのに、苦しみだけが募る。
そしてその痛みを知るのはただひとり。




「ある日ディラス王はラナーンを玉座の間へと召喚し、告げた」
シーマは弾かれたように顔を上げ、次に開かれるタリスの唇を待った。

「ラナーンとエレーネの婚約の儀を行うと」
ぽつりぽつり、唇から零れるようにラナーンの過去を話す。
ラナーンの断り無しに口にしていることに罪悪感を感じながらも、信頼置ける誰かに話さずにはいられなかった。

「王は、知らなかったのか? ラナーンじゃない、兄の方と従妹が恋仲だったんだろう」
「知らないはずはない。父親だ。あんなに息子たちを愛していた」
「おかしいじゃないか。そんなの、自分の大切な息子たちを引き裂くなんて」
机の上に握り締められたタリスの拳が、堅くなる。

「そうだ。おかしいんだ。そんなの、ラナーンは望んでいない」
ラナーンは父の命に逆らえない。
かといって兄が慕うエレーネと婚儀をし、兄を苦しめることなど考えもできない。
現実から逃れる。
取る道は他になかった。

「だったら、王は何をしたかったんだよ。」
「分からない。だから私たちはデュラーンに探りをやった」
現状と本意を探ろうとした。

「だが見えてこない。アレスも、分からないままだろうな」
「ラナーンが妙に子供に見えたのが分かる気がする」
外界で研磨されることなく育った子供だ。
城の中で口を閉ざして生きてきた子供のままだ。
望みは口にすることすら罪だと思い、飲み込んでいった。

「誰が悪いわけでもない。みんな、優しすぎるんだ。ラナーンも」
タリスは深く目を閉ざし、乾いた木の机に片手を付いて立ち上がった。
朝食の皿とカップを流しに運ぶのに、シーマも黙って続いた。
散歩に行こうと言い出したのはタリスだった。
このまま部屋に帰ってじっとしていようという気分でもなかった。
服は島で手に入れた軽装で、タリスも美しくはあるが一国の王女の姿ではない。
あっさりと王女の殻を脱ぎ捨てられるものなのかとも、出会って最初は思った。






「どうした、気分でも悪いのか?」
外気は朝の冷たさを抜けたようだった。
陽光で温められた土の上で小さな花が開き始めている。
呼びかけられて、シーマは隣を歩くタリスを見上げた。
彼女は紛れもなくファラトネスの王女だ。
何に身を包もうとも、彼女は国を背に立つ強さがある。
それは誰にも、何であっても消せない。

「ラナーンは、怖いのかな。きっとそうだ、自信がないんだ。タリスみたいな」
「私?」
「そう、強さっていうのかな」
「そうかな。腕はラナーンだってアレス仕込みの一級だ」
「心の話。ラナーンは優しい。一緒にいると温かくなる」
「確かに、な」
側にいて心地いい。
だからタリスもラナーンを愛さずにはいられない。

「けど、ラナーンはそういう良い所、わかってないんだ。自分で」
「恐ろしく自己評価が低いからなあ」
「だからだよ。弱くて無力な人間だって思ってる。自分に自信がなくて、今まで城の中では側にたくさん人がいただろう」
「ディラス王、ユリオス、エレーネ、アレス、他にもな。みんなラナーンを愛していたよ」
「ラナーンを愛していたんだ。けど、ラナーンはそう思っていない」
タリスは訝しげにシーマを見下ろしていた。
背の高い木に挟まれた土道は町に続く。
シーマは先細る道の先を力強く見据えた。

「殻、なんだよ」
「何の、殻だ」
「王子という殻。みんなはラナーンを愛していたんじゃない。ラナーンを守りたいわけじゃない。王子という殻を大切にしていたって、ラナーンは思ってる」
「みんなって、私は違う!」
「もちろん、タリスは違う。でもアレスは?」
「そんな。アレスだって、私と同じだ。ずっと一緒にいたんだ。でも」
本当はタリスも分かっている。

「ラナーンは不安なんだよ。自分がそこにいられる価値を自分で見出せないから」
「自分が存在していい意味を見つけられたら、強くなれるのか」
「タリスがそうであるように。城の壁を越えたとき、王子という殻も捨てた。そうだよね」
「ああ」
タリスはまだファラトネスの王女だ。
だがラナーンはすべてを切り捨ててきた。

「そんな裸で何もない自分に誰がついて来るものかって」 林の中は静かだった。
人の声、鳥の声すら遠のいた気がした。
聞こえるのは真実を語るシーマの声だけ。

「不安で堪らないんだ。無力な自分にアレスは離れてしまうんじゃないかって」
「アレスは、そんなこと思うはずがないのにな。あいつはずっとラナーンしか見ていない。でもラナーンはそう思っていない」
「でも、私たちにできることなんて何もないんだ。ラナーンが見つけなきゃ」
林を抜ければ緩やかな勾配が広がる。
涼しい爽やかな風が、緑と土の匂いを含んで頬と髪を撫でる。
医者が毎日散歩に出かける理由がよく分かった。

「一つ、教えてくれ。どうしてシーマはそこまで見えたんだ」
出会ってそれほど時間は経っていない。
それでもシーマの言葉は胸を真っ直ぐ突いた。

「私も、ラナーンが好きだから。タリスやアレスと同じように放っておけないんだ」
「なるほどな」











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