Silent History 87





「酷い顔をしている」
低い呟きを聞いて、アレスは顔を持ち上げた。
声のする方を振り返れば見慣れた顔が一つ、巻き上げられた髪は、金糸の後れ毛が肩に降りかかっていた。

タリスは木に背中を預けたまま、木のトンネルの中でアレスの戻りを待っていた。

「暗くて、寂しそうで、湿っぽくて、何より痛々しい 」
泉での声はここまで届かない。
何があったかは直接見なくても、固くなったアレスの顔を見れば推察できる。

「報われないな」
「今までと何も変わらない」
「周囲は変わってる」
「俺たちは変わらない」
「現状に満足してるならどうしてそんな顔で帰ってくるんだ」
死相が出ていそうなほど冷たい顔をしている。

「アレス、お前はラナーンに何を望む?」
「何も。あいつが幸せであればいい」
デュラーンから逃れたいのであれば、ユリオスとエレーネから離れたいとあればともに逃げ続けよう。

「俺はあいつを守りたいだけだ」
タリスは何も言えなかった。
任務に忠実な男だと思っていた。
友人として半分、ラナーンの護衛としての責任感も半分はあるだろうと思っていた。
だがそれとは違う。
アレスを占めるのはもっと彼の奥底から繋がっている、深い感情だ。

「なあタリス。お前にとってレンはどういう存在だった? 俺はあいつのためなら何が敵でも戦う。どんなものが立ち塞がろうとも傷つけるものは排除する。俺にはあいつだけなんだ」
タリスが物心付いた頃には、ラナーンの側にはアレスが付いていた。
いつも離れることなく、ラナーンの影から出ないようにしているのかと思うほど常に一緒にいた。
ラナーンの兄のユリオスか、エレーネか、侍女だったのかは忘れてしまった。
アレスはラナーンの護衛のために共にあるのだと聞いたことがあった。
友人でありながら、いざというときにはその身を守れるように。

聞いた話とは違って思えたのは、アレスの真摯さだ。
ラナーンがシーマに攫われたときのことを思い出した。
あのときのアレスの混乱した様子が目の前に浮かんだ。
単なる使命感とは違うものを感じた。
アレスからもしラナーンが消えるようなことがあったら、アレスは狂気に駆られるだろう。

「命を掛けても」
アレスの呟きを、タリスは聞き漏らさなかった。

「その世界で一番大切にしているあいつが一番悲しむことが何であるのか、考えたことがあるか?」
タリスは唇に歯を立てた。

「本当にあいつを守りたいなら、悲しませたくないというのなら、ちゃんと向き合ってみろ」
「何を今更」
「お前はラナーンの側にいたのに、ラナーンの望むものが見えていない」
タリスは言い放って、アレスに背を向けて湿った土の上を歩き始めた。

「どうしてすれ違うんだ。ずっと一緒にいたのに、寂しいじゃないか」
タリスの肩を、アレスは左手で叩いた。

「戻ろう。ラナーンに朝食を持って行く」
「私も、空腹だ。それにシーマも置いてきた」
「拗ねるぞ」
「拗ねるものか。彼女はラナーンよりも大人だよ」
タリスが形のいい細い鼻を、痛々しさを振り切るように前へ向けた。






二人だけでなく、彼ら全員が次に行きべき先を忘れてしまっていた。
それほどにまでこの島は居心地が良かった。
穏やかな空気も、人を襲わない夜獣(ビースト)も。

「この島は変わっている。人も、他とは違う価値観を持っている」
「調和だとか、共生だとかがそれと気づかず営まれている」
医者にゆっくり話を聞いてみる必要がある。

「聞いたか、ラナーンから。ラナーンも医者から聞いた話らしいけど」
この島には島の歴史がある。
封魔の歴史とは違えた歴史がある。

封魔の歴史の中心にいた、黒の王。
それを島では神王と呼んでいた。

「異端とされた島の人間は自分たちの信仰を森に隠したんだ。だから森の奥には神さまが眠っている、って話だ」
島を大陸から切り離し、決して大きくはない楽園に逃げ込んだ。

木々のトンネルに仄かな光が差し入る。
木の葉をすり抜け所々に落ちる陽光をタリスはすくうように右手を差し出した。

「こんなに美しく、平和なのに。かつて島の人は息を殺して、涙を呑んで自分たちの思想を隠したんだ」
そうせざるを得なかった。
だから神さまは見えない。
それらしい偶像も存在しない。

「アレス。何が正しいんだと思う?」
「何かを決めるには早い気がする」
封魔の歴史とそれと対称の歴史。
黒の王と、神王。
魔、そのひとつだという夜獣(ビースト)。
夜獣(ビースト)は崩れた門の側、空間の裂け目より生まれ出ていた。

「この島の神門(ゲート)は、崩れているのか」
「見に行こうなんて言うなよ、私はまだ死にたくない」
ラナーンが遭遇した夜獣(ビースト)は、驚いた拍子に一撃を与えたに過ぎなかったが、すべての夜獣(ビースト)が出会って逃げるとは限らない。
今まで切り倒してきた夜獣(ビースト)はどれも凶暴で、凶悪で、殺意に満ちていた。
島の人間ですら近づこうとはしない森にずかずかと踏み入れる気にはなれない。




医者の敷地に立った簡素な柵が、湾曲した道の奥から見えてきた。
敷地の内外を区切るというより、蔓が巻きついたそれは花壇の一部になっていた。
熊のような体に髭を蓄えた男の一人暮らしだが、意外と小奇麗にしている。
医者という職業柄、清潔さには気を遣っているのかもしれないが、本棚一つにしても背表紙の並びは美しかった。

花の手入れも小まめにされていた。
広く間口を開けた柵の間を抜けるときに見下ろした土は、水を遣った跡で黒くなっていた。
蔓の先は光を求めて上へ上へ登っているように見える。
薄い緑の柔らかい葉が今にも開こうとしていた。

扉のすぐ側の壁に、変わった看板が下がっている。
立ち止まったアレスの隣からタリスが顔を出した。
木を研いで角を丸めた平たい看板には、単純な地図らしいものが書かれていた。

「このあたりの地形かな」
タリスの爪が真ん中より下を突付いた。

「これがこの家だとして、丘と川と森」
明るい色彩で可愛らしく描かれた絵は、医者が作ったものとは思えない。

「あ、おかえり」
扉が内側から開いた。
亀のように顔を出したのはシーマだ。
大きく開いた扉の奥には他に人影はない。

「あれ、ラナーンは一緒じゃないのか」
「朝食を外で食べるそうだ。お供を連れて、な」
意味ありげに、タリスは斜め後ろにのっそり立っているアレスに目を流した。

「医者ならいないんだ。散歩に行ってくるとかって出て行った」
外で見た看板の話がタリスの口から出た。
シーマによると、あれは医者が散歩に出るときに掛けられるものらしい。

「訪問者が来たときに、どのあたりにいるか分かるようにだってさ」
三人の帰りを待っていたようだ。
机の上には飲みさしのカップが一つと開いたままの本が乗っていた。
先ほどまで腰掛けていた脚の長い木の椅子は、後ろに引かれている。

「朝食、作ろうか?」
カップを流しに持って行きながらシーマが振り返った。

「ああ俺も」
「私も手伝おう」
すでにやる気十分のタリスが袖を捲り上げる。

「できるのか?」
タリスが食材を扱っている姿など、幼馴染ながら目にしたことがない。

「やってみなければ分からんだろう」
「つまり、やったことがないんだ」
シーマが芋を片手に握りながら引き攣った笑いを浮かべた。

「アレスは?」
「できないことはない」
手順は何となく知っている、という程度だった。

「うわ、何とも心強い助っ人だこと。じゃ、始めようか」
苦笑いをかみ殺しつつ、シーマはアレスとタリスに野
野菜貯蔵室から取り出した野菜を手渡した。











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