Silent History 86





空に日の光が溶け始めた頃、ラナーンは隣の寝台で衣擦れの音に気付いて目が覚めた。
しばらく毛布に包まったまま寝返りを繰り返していたが、半時間ほど経って諦めたらしい。
眠ったふりをしているラナーンを気遣いながら、のそりと長身を起こすと、しばらく片手で額を抱えていた。
窓から薄い光が漏れ入る。
月光のように冷ややかではない、朝の緩い光がアレスの背中を浮き上がらせていた。
闇に慣れた目でようやく互いの動きが分かるほど頼りないものだったが、ラナーンは薄く開いた目蓋の下で言葉を発しない男を眺めていた。
まただ。
宿屋も部屋の構造も時間も違う。
だが切り取って重ね合わせたように、その光景は過去のものそのものだった。
デュラーンを出て何度と目にした光景だ。
眠れず、目を覚ますアレス。
悪夢にうなされるように呻くでも騒ぐでもなく、ただ不可解な夢に目を覚ます。
以前にアレスが漏らしたことがあった。
夢の中に現れる少女はしきりにガルファードの名を呼ぶと。

得体の知れない夢が、アレスを浸食していく。
少女が纏う水が石の砦に染み入るように。

アレスは強い。
肉体も技量も精神も、ラナーンや他の人間より遥かに強靭だ。
だが手のひらに顔を埋める姿を目にすると、胸が締め付けられる。

アレスは強くあろうとしている。
それは誰のためか、何のためか。
ラナーンは自覚していた。
城の中と同じ、城を出てもアレスは幼い頃からの役目を捨てられない。

ラナーンを守ることが彼の使命だ。
デュラーンを出れば変わると思っていた。

アレスにはアレスの人生がある。
縛り付けたくはない。
重石になりたくはない。

アレスも人間だ。
弱いところはあるはずだ。
けれど誰にも見せようとはしない。
冗談やラナーンをからかったりはしても、決して自分の悲しみや苦しみは口にはしない。

そうさせているのは、自分に他ならない。
ラナーンは毛布に顔半分を沈めながら、唇を噛み締めた。
分かっているつもりだ。
でも、何もできない。

並んで歩いていたのに、いつの間にか歩幅が違っていた。
先に歩くアレスの背中が見え始めたのはいつごろか思い出せない。
どんどんラナーンの知らないアレスが膨らんでいった。




扉の閉じる音がしてラナーンはアレスを追った。
アレスは気配に敏感だ。
十分過ぎるほど距離を取って、後を付けた。
早朝に人影はない。
見失う心配も少なかった。
町の中心部から外れていく。

アレスが導いた場所に立ったラナーンはさして驚かなかった。
馴染みのある泉だ。
アレスがここを選ぶのも納得できる。
木々はラナーンの空気に似ている。

程なく、畔に佇むアレスの背中を見つけた。
アレスは動かなかった。
座ることもなく、立ち尽くしたまま緩やかに波立つ水面を眺めているだけだ。
曇った鏡のように朝の光を弾き、朝もやが立ち上る。
冷たい空気は、雨上がりの湿気と草木の匂いと日の淡さを合わせた独特な感触がした。
アレスに声が掛けられなかった。
それ以前に、全く喉が震えなかった。
声帯が麻痺してしまったように、なぜか目の奥が引き攣る。

泣きたくなるのはどうしてか、自らに理由を問うのも野暮な気がした。

ただ空気の中に溶けてしまいそうなアレスの背中が、そして時が止まってしまったような、この場所が。
原因や要因など無数にあり、でも行き着く先はひとつのような気がした。

理由が分からず、ただ泣きたくなること。
切なくなること。
ただ、静かに涙が流れること。

背中の向こうに隠れたアレスは今、どんな顔をしているのだろう。
もし泣いていたら、慰め方など知らない。
無気力で目に力を失っていたら、かける言葉など分からない。

ラナーンは、一歩一歩音を忍ばせてアレスの隣に向った。
ゆっくりとした歩みは、時間を溶かすようだった。
止まってしまった事物を緩やかに流動させるようだった。
歩きながら脱ぎ捨てた靴は、後ろに散っていた。
素足が露に洗われた鮮やかな緑を踏みしめ、服裾に朝露が染みていく。
構うことなくラナーンは歩み続けアレスの隣に並んだ。
止まらない。

アレスが顎を持ち上げた。
ラナーンの存在に今気付いたのか、すでに気配を察知していたのか。
それすら読み取れない夢の中にいるような目で、通り過ぎるラナーンの背中をただ見つめていた。


そのまま一歩二歩と進み、泉の中に踏み込んでいった。
足首が浸り、膝までが沈む。
垂らした腕から下に続く指先が肌に刺すような水に触れる。
デュラーンには水の神がいる。
それは城を守り、国を守り、人を守る。
水に浸かれば遥か遠くなってしまったデュラーンの神と繋がっているような気がした。
それとも国を捨ててしまったラナーンには恩恵は与えられないのか。
水面に薄く織られた衣服が弛んだ絨毯のように広がる。
腰まで沈めたところで、水中から右手を引き上げた。
汲み上げられた水は、指を抜け光を受けた雫となって零れ落ちる。
水気を含みより漆黒に深みを増したラナーンの髪、肌理の細やかな皮膚は冷たさに青みを増し、人のように思われない。


ちょうどこのあたりで体が沈んだ。
深く深く沈みこんで、高い天井のように下から水面を仰いだ。
あの体が落ち込む水深はない。
透明度の高い水を通して見回しても、精々肩まで水が寄る程度の深さだ。

「ラナーン、水は冷たい。傷に障る」
そう言いながら、アレスも水の中に歩いてきた。
大きく波立ち、ラナーンは姿勢を正した。
目の前に立ったアレスはやはり成長した。
改めて思う。
水に濡れた右手で、ラナーンはアレスの左頬を包み込んだ。

「覚えている。アレスに会ったときのことを。デュラーンの泉で」
あの時も二人きりだった。
二人で濡れていた。
アレスは今でも深く心に刻んで大切にしている思い出だ。

「俺は、変わったか」
「アレスはいつだって強い。一番強い」
「だが、お前を傷つけてばかりだ」
守れていない。
自らへの誓いを守れていない。
まだ未熟だからだ。

ラナーンは静かに首を振った。

「でも、誰だって完璧じゃない。おれやタリスたちだって、ちゃんと戦える」
「知っている。侮ってなどいない」
一人で頑張らなくてもいい。
すべてを背負わなくてもいい。

「アレスが役目に縛られることはない。アレスにはアレスの人生を歩いてほしい」
「これは、俺の決めた道だ。お前を守ると決めた」
揺ぎ無い決意。
だが、ラナーンにはそれはデュラーン王から与えられた使命の重みを背負っているように見える。

「どうして?」
なぜそうまで何もかもを捨てた自分を守ろうなどと言える。
デュラーンとは縁すら切れたというのに。

アレスは答えなかった。
なぜそんなことを聞くのだと。
静かに見下ろすアレスの目は、寂しげにも哀しげにも思えた。

「朝食、ここで食べたい」
「ここって、畔でか?」
「ここで、アレスと」
だめか? と見上げるラナーンの瞳に負けた。
ラナーンの肩を抱いて水から上げた。
夜明けの空気は冷える。
草の上へ置き去りにした上着をラナーンの上から掛けた。
アレスより華奢にできている体はすっぽりと包まれた。

「朝食を包んで持ってくる。そろそろ早起きの医者もお目覚めだ」
「ここで待ってるから」
まだ波の治まらない水面を横目で見つめていた。
正面で話し合えば、一緒に過ごす時間があれば二人の溝は埋められるのかもしれない。
小さな希望だった。











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