Silent History 84





思い出す、デュラーンの水を。
心地よい陽光、満ち足りた穏やかな時間。
そしてそれらは今は取り戻せない過去の記憶。



遠出の禁止を命じたのは例によって彼の守護者、彼の兄代わり、彼の親友のアレスだった。
それも彼を思ってのことだ。
ラナーンは理解している。
だからこそわがままは言えない。

足を放り出して座ったラナーンの隣で、シーマが膝を抱えている。
彼女がラナーンに散歩を持ちかけ、夜獣(ビースト)に出くわしたのだ。
軽傷とはいえ怪我を負わせた責任を十分すぎるほどに感じている。

「アレスは心配し過ぎなんだ。いつものことだから、気にすることはないよ」
「ごめん。ごめんなさい」
沈み込むシーマ。
言葉は逆効果だった。

「ディールに連絡は取ってる?」
投げかけた質問に、シーマの視線が地面から煌く水面に持ち上がった。

「あ、うん。今朝、町で手紙を」
「そっか」
しばらくここには世話になりそうだし、返事は受け取れそうだ。
シーマが落ち込むほど、ラナーンも責任を感じる。
森に行くのが嫌だったら抵抗すればよかった。
シーマの提案に喜んで乗ったラナーンが悪い。

「薬草、摘んでくる。あの医者に頼まれたんだよ」
シーマが飛び上がるように立ち上がった。
ラナーンが仰け反って彼女を目で追った。

「宿代の足しになんてならないかもしれないけど」
「あのお医者さんもさ、シーマの知識と経験を買ってるんだよ」
「どうだかね」
町の外れにある泉はシーマが見つけた。
アレスを下見に同行させ、後にラナーンを連れて来た。
アレスが、ラナーンは喜ぶはずだと言った言葉は正しかった。
目を輝かせて光る水面を食い入るように見つめると、気が付けば隣で靴が脱ぎ捨てられていた。
浅瀬に足を浸して満足そうにシーマとアレスを振り返った。

「なあラナーン。一つ聞いていい?」
「いくらでもどうぞ」
「アレスって、何なんだ。ラナーンにとって。従者ってそれだけじゃない気がする」
「騎士って言葉、聞いたことあるか?」
「どっかにいるらしいとはね。実在してるか知らないけど」
「おれも、本で見ただけだ」
「それなのか?」
「そんなかんじなんだと思う。とにかく、何かを守ろうとしてるんだ。歪んだことが嫌いで」
「口は悪いけどね」
冗談は言うし、からかうし。
だがアレスの根幹にあるのはいつもラナーンだ。

「ファラトネスも同じ。タリスにはレンがいる」
彼もまた、タリスを守ることだけ考えている。
必死に、一途に。






林の中、木陰に身を寄せればたまに訪れる人影も気配も、木々が遮ってくれた。
木の根の張り出さない芝の上に横になれば、風が抜け心地よい眠りに誘われる。

話し相手のシーマが木の籠を手に消えてしまうと、泉に流れ込む水としなる枝葉だけが漣のように空間を満たした。
意識はやがてラナーンの手の内から離れていく。
感覚の輪郭が溶けていく感じは気持ちがいい。
音すらも、消えていく。









久々の優雅な午睡は、突然現れた祭りのような賑やかさに引き裂かれた。

夜獣(ビースト)か。

硬直する体が直面し、見開いた黒の瞳が見たのは、低木を飛び越えてきた人間だった。

女の子?

瞬きする暇も、息を飲む瞬間もないまま、飛び起きたラナーンの体はバランスを失い水の中へ転がっていく。
深みへと落ち込んだラナーンの体から重力の縛りが緩む。

夢の続きか。
それともこれは現実か。

浮上しようと服の絡む腕を伸ばしたが、見上げる水面は遠かった。




淡い光を見た。
それが、水を通して見上げた光だと気付いたのは光が歪み揺れていたからだ。
沈んでいく体とは逆に、宙を浮いていく感覚。
死ぬのかな。
死にしては穏やか過ぎる。

夢と死の狭間に立っているのか。
包まれる水が温かく感じる。
懐かしさを感じる。

囁くような音か気配か。
しかし声は聞こえない。
繋がっている感じがする。
きっとそれはとても遠くで、でも側にある。


遠くても、大丈夫。
手を伸ばせば届くはず。


水面を割って、白い手が下りてくる。
ラナーンはその手に手を重ねた。









指先に触れる生温かい感触、指を伝い手のひらを通り越し手首を掴んだ。
力一杯引き上げる。
飛沫とともに、人の体が釣り上げられた。
目の前で咳き込む黒い髪の人に、同じように水を被った琥珀の長い髪の女は呆然とするばかりだった。
漆黒の髪の隙間から覗く睫毛から水滴が落ちる。

「ごめんなさい!」
謝りながら水没者の背中に縋りつき、苦しそうに丸まった背に手を乗せた。

「びっ、くりした」
アレスに安静を命じられたのにとんだ災難だ。
眠っている者を叩き起こすにも礼儀というものがあろう。
ラナーンは片手で顔の水を拭い、張り付く黒髪を掻き揚げた。
動くたびに服が重い音を引き摺る。
医者から貰った薄い島の服を着ていてよかった。
日向に出て半日したら乾くだろう。

「本当に、ごめんなさい。驚かすつもりは、あったんだけどでも、そうじゃなくて」
焦って目が泳ぐ少女が、逆に可愛そうに思えた。

「人違い?」
「ええ、そう。友だちを探してて」
「きみ、島の子じゃないね」
服は島のものだ。

「うん」
ラナーンとほとんど年の変わらない彼女が目を上げた。
ようやく目を合わせることができた。

「おれもだ」
「こんな小さな島に?」
「それはきみだって同じだろう」
ラナーンが微笑んだ顔を、食い入るように彼女は見つめた。

「不思議。同じ髪と目をしていても、全然違うのね」
独り言だった。
聞き返そうとしたところで、ラナーンの片腕が重くなった。

「やだ、怪我してる。もしかしてさっき落ちたときに」
彼女が両手で包み込んでいる腕に目を落とすと、確かに布地に血が滲んでいる。
傷が開いたのかもしれない。
引き攣る彼女の声を遮るようにラナーンが腕を持ち上げて、袖を捲った。

「前に怪我をしたところだよ。水に濡れて血が広がっただけだ」
袖の下の濡れた包帯は薄赤く染まっている。

「わたしがさっき腕を掴んだから」
「すぐに治るよ。だいじょうぶ」
「ごめんなさい。せめて包帯、替えさせて下さい」
今日は謝られてばかりだ。
泣きそうに声が消えていく彼女の名前を、そういえば、まだ知らない。

傷口に手を沿わせる彼女の白い指を鮮血が伝う。
彼女の布が水を拭い傷を覆い隠していく。


「おれはラナーン・グロスティア・ネルス・デュ」
最後まで言いかけて、口を噤んだ。
彼女と会ったことはアレスには黙っておこう。
大人しく療養するようにとのお達しだ。

「ラナーンでいい。きみは?」
「セラ・エルファトーン。グラストリアーナ大陸から来たの」
「友だちは? はぐれた、とか」
「シタの町にある噴水で待ち合わせだったんだけど」
「シタなら、隣町だ」
「そんな、冗談」
「残念ながら、知らないうちにこっちに流れてきちゃったんだね」
「本当、に」
「繋がってるから。シタもこっちも」
町自体は小さいが、連なると迷う。
加えて境界らしい境界もない。
腰位置くらいまでの石柱が通路に刺さっているだけだ。

「シタはちょうど泉を回りこんで対岸の方」
ラナーンはセラと名乗る少女の手を引いて立ち上がらせた。

「あそこに木の切れ目がある。そこが抜け道で道なりに行くとシタの町との境界に出られる」
ありがとうという言葉を残して去る彼女の背中を見ながら、日溜りの中ラナーンは夢の続きへと戻った。











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