Silent History 83





傷を負ったラナーンと連れ帰ったシーマを、アレスは責めなかった。
応急処置を施されたラナーンの腕を手に取った。

「うーん、医者に診せた方がいいだろうな」
タリスがアレスの横から覗き込む。

「私は力になれそうもない」
治癒術はタリスにも心得があった。
だがそれも傷を負って直後で効力を発揮するもの。
この傷は時間が立ち過ぎている。

「無事で、よかった」
アレスがそれを口にするのは二度目だ。


シーマとラナーンが宿に戻ったのはまだ日が落ちきっていない薄明かりの中だった。
布を巻かれたラナーンの腕を凝視し、アレスは言葉を失った。
シーマが一部始終を話しているうちにもアレスの顔色は驚くほど変化した。
眉を寄せ、青くなり、唇を噛み締め、最後に一言だけ口にした。
無事でよかったと。
言葉の裏の苦渋がシーマの目でも見て取れた。

「けど、何かいつもと違った。どうしてだろう。何で、かな」
珍しく歯切れの悪いシーマをタリスが覗き込んだ。

「何が違うんだ?」
「夜獣(ビースト)が、だよ」
表現しようとするが、うまくまとまらない。
口を開いては、噤んだ。

「こっちは短剣一つだけ。護身用って人は切れても、夜獣(ビースト)なんかじゃ歯が立たない」
素早い体を捕らえられたとしても、よほどうまく腹に入り込まなければ致命傷など与えられない。

「いつもみたいに真っ直ぐ飛び掛かって来るのとは違った」
「偶然鉢合わせたって感じかな。ほとんど丸腰のおれたちがこうして生きてるんだ」
短剣は夜獣(ビースト)の皮膚を薄く削った。
突き刺さるような殺意はほとんど感じない。
体中の力と熱を奪われるような、冷たい感じはなかった。
夜獣(ビースト)を目の前にすれば、体が動かなくなるような鳥肌が立つ。

「軽傷じゃ済まない」
ラナーンは巻きなおした包帯の上から傷を押さえた。
傷が鈍く痛む。

「とにかく明日にでも診てもらおう」








大事はない。
医者は髭を震わせながら笑顔でラナーンの背中を叩いた。

「処置がよかったな。誰か医術の心得があるのかね」
重い目蓋の下に穏やかな目が一行を見回す。
突然の患者にも動じることなく対応してくれた。
島の人間でない彼らに眉を潜めることもしなかった。
何よりありがたい。

シーマが小さく手を挙げた。
白い眉毛が上に飛び上がる。

「きみか」
「詳しいのは薬草だけで、医術までは及ばないんだけど」
それでも老医師は満足げに髭を摘んだ。

植物の葉を布で包んで揉む。
水を上から垂らしながらラナーンの傷を洗浄した。

「上出来だ」

ラナーンは裸の上半身に服を羽織った。
傷が開かないように慎重に腕を通す。

「まあ一つ注文をつけるならな、もっと食べなさい」
「食べてます」
「それにしては貧相なことだ」
貧相?
奥歯でむっとした気分を噛み締めて、開いた胸元から自分の腹を覗き込んだ。
確かに、アレスと比べたらそう言えないこともないが。
盗み見た視線がアレスと合って、思わず目を反らせた。
体格の違いは骨格も大いに関係しているとラナーンは思う。
ラナーンの背はタリスと並ぶ。
その下にシーマの頭があり、上にはアレスの顎が見える。
生きている年数の開きは二年。
その時間がアレスほどにまで体を育てるのだろうか。
ラナーンはため息をつきたくなった。

「宿屋はどこかね」
ラナーンの腕から解いた包帯と医療器具を片付けながら、医者の丸い背中が言った。

「シタに取っていました。でもこちらに名医がいると聞いて」
タリスは大真面目に言ったのだが、名医という言葉に医者は丸めた背中を反らして声を上げて笑った。
夜獣(ビースト)に付けられた傷だから、肝の座った医師の方がいい。
慣れない傷に狼狽し、下手な処方をされたらたまらない。

「今日の宿はこれからか」
「ええ。まだ日も高いことだし、町を歩いてみます」
「だったらどうかな、この家の部屋を使ってみては」
タリスの目が一際丸くなる。
長い睫毛が瞬きする。

「ああ、宿代の代わりに飯炊きと掃除を手伝ってくれればそれでいい」
医者の本意が分からず、アレスもタリスと医者のやり取りを静観している。

「まず少年の傷だな。二、三日経過を見たい。後は、何だ。久々に賑やかなのも悪くないと思ったわけだ」
患者は島の中、小さな町の人間だ。
見慣れた顔ばかりのなかで、外からやって来た客の新鮮な情報は何よりも美味い。

「とりあえず町を回ってきなさい。戻ってきたくなればよろこんで迎えるよ」




ありがたい話だ。
医者は彼らの話を聞きたがっているが、アレスたちとしても島民の話は聞いてみたい。
医者の診療所と続きになった家は質素だが広かった。
生活が合わなければ他に宿を探せばいいだけのことだ。
四人の意見が一致し、医者の家で世話になることはものの十分で決まった。


神の島と聞いていたので神秘的な、異国情緒溢れる町を想像していた。
陸地とは隔絶された場所に芽生える独自の文明と古の香り。
神官の細めた目は、目には見えぬ遠い神を追う。

しかし現実は想像とはまるで違った。

穏やかではあるが、雰囲気は大陸に似ている。
海に隔てられた島での生活水準も高い。
穏やかな時間と茂る木々は他にはない、ここだけのものだった。
像もなければ神殿や寺院らしいものも見当たらない。
島民にとって神とはどのような姿なのかも分からない。
彼らが積極的に触れようとしない森や林の陰から、もしかしたら彼らの神は覗くのかもしれない。

子供が木の周りを駆け巡る。
喜ぶように大樹は木の葉を揺する。
振り落ちる葉に両手を挙げて掴み取ろうと競う子らが興奮し高い声を上げる。
島の言葉が滑らかに耳に流れ込んでくる。

母親が歌う。
乳飲み子に聞かせる歌だ。
掠れて温かな声は懐かしかった。

見守られている。
姿なき神、に。
今一度問う、神の存在を。

「森の中に神門(ゲート)はある。魔はそこから現れる。島の魔は、夜獣(ビースト)はいつもと違った」
ラナーンが独り言で沈んでいく。

「森があるから? ここが神の島だから?」
ラナーンを覗き込んだシーマが問いかける。
誰も答えを知らない。
タリスが口を開いた。

「この島の神さまを探そう。そこから始まる気がする」






紙を落としたように、荒々しく本のページを捲る音がした。
風が流れる。
晴天が目に痛い。
音は鳴り止まない。

アレスは目を上へ向けた。
抜けるような青天井が広がる。

鳴り続ける音を振り返れば、白い本が無数に一方向へ流れていた。

「鳥か」
呟く声は音とならないままアレスの胸の中で溶けた。
白く大きな河のようだ。
どこから現れた鳥なのだろう。
彼らはどこに渡っていくのだろう。
視界全面が青の背景に染まっていた。

白の流れに手を伸ばし、一歩踏み出した。

鳥の幕が薄くなっていく。
後ろの青が広がっていく。
空が歪んだ。
空間が波打った。
水面のような平面にアレスは手を触れた。
温度を感じない。

最後の鳥が流れ去った向こうに、人影が揺れた。
陽炎の向こうの人の形は顔を上げた。
目を細めても輪郭は定まらない。

「眠りの帳の向こうへ」
白い手が何かを求めて彷徨う。

「遠い時の向こう側へ」
指先は舞いを演ずるように靡く。

「ガルファードは死んだのに、私は」
声は鈍く反響した。
腰に手を当てた。
いつも帯刀している刃はない。

「お前は、サロア神か」
「そこにいるのは、誰?」
怯えを含んだ声が震える。

「お前は神なのか、あるいは未だ人か」
「私は望んだ。私は、願った」
影が空気に溶けていく。
アレスはもう気付いていた。
これは、幻だ。
アレスの脳内で展開する夢だ。

「私は選んだ。正しい道だと」


永久に眠るサロア神。
眠りの女神の目覚めが近い。
アレスは確信した。
頭では信じたくなかった。
これは夢だ。

「サロア神。目覚めれば世界は大きく揺れる」
ディグダとルクシェリース。
拮抗していた勢力が大きく傾く。
サロア神の繭シエラ・マ・ドレスタは真実の神の国となる。

「今この世界を作り上げた主人公が目覚めるのだから」




アレスは目蓋を持ち上げた。
床へ窓形に切り取られた光が落ちる。
木の床へ両脚を下ろした。
素足に触れる床の感触が懐かしい。
この家は木の匂いがする。
隣の寝台にはラナーンが深い寝息を立てていた。
相変わらず寝付きがいい。
しばらく窓を透かした月光を眺めていたが、睡魔は飛散してしまった。
この部屋に時計はない。
部屋の中を探るのも同室の友を起こしてしまいそうで気が引けた。
音を殺して開き窓の鍵を外した。
ゆっくりと窓を開くにつれ夜風が隙間から流れ込んでくる。
朝が近い湿った香りが肌を包む。
傾いた月を眺めた。
体は軽い。

寝台の脇から刀を取り出して窓から滑り下りた。
草を踏みしめ足場を固めると抜刀する。
照る光を受けた刃は透き通るほどに磨き抜かれている。
腕と感覚が鈍るのが怖い。
守るべきものを守れない。
そんな自分に意味はない。
強くならなければならない。

「俺の願いはひとつだけだ」











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