Silent History 82





風の通り道が見える。
足跡は芝を走り、ざわめきが耳を掠った。

空はどこまでも続く。
雲は速くに流れる。

ラナーンは走った。
子供のように走っていた。
目の前には幼くすばしっこいタリスの背中を見た。

過去の幻だ。
楽しかった。
息が切れるのが楽しかった。
足が重くなるのもまた心地よかった。

タリスは大人になった。
ラナーンも大人になっていく。
いつまでも同じではいられない。
人間は変わっていくものだから。



「早く! そんなにゆっくりだと日が暮れる!」
シーマが大きく両手を振っている。
高く飛び上がったが、力尽きて着地と同時に草の中に倒れこんだ。
ラナーンが駆けつけると大口で笑いながら、大の字で寝転がっていた。

「疲れた」
胸を上下させながらシーマが息を吐いた。

「うん」
ラナーンも隣に寝転がった。
土道から外れたここには他に誰もいない。
踏みつけられる心配もない。

「でも気持ちいいな」
こうして力一杯走ったのは久しぶりだった。

「よく知らないけどさ。城の庭ってのも広いんでしょ」
「広い。城壁を右手で触りながら歩いたことがあるんだ」
いつかは一周して、元の場所に戻ってくるはずだ。
壁はいつまで経っても途切れない。
やり始めて一時間で諦めてしまった。

「でさ、覚えてる? 道」
急に不安になった。
調査に行ってくるとラナーンの腕を引っ張って出てきた。
止めようとしたアレスの声は聞かなかったことにした。
タリスが振り向いたときには声の届かない場所まで走っていた。

「帰り道ならね。どこに行くかは聞いてないよ」
「言ったってば」
シーマが寝転がっているラナーンの隣でバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。

「魔を吐き出す空間の裂け目。それを囲う門」
シーマを包み込むように風が巻く。
島の白い小花が波打つ。

「神門(ゲート)って言ってた。夜獣(ビースト)を抑えるのか? そもそもあの裂け目って」
シーマの視線が落ちる。

「魔が行き来していた扉。聞いたことあるはず。封魔の物語」
子供に聞かせる昔話。
それはどこまでが真実かは分からない、伝説だ。

「人間が閉じたんだ。魔を闇の世界に封じるために」
闇の世界だの、勇者だの。
馬鹿馬鹿しいと笑ってしまいたい。
たった数人で世界が救えるか?
どんな超人だ。
たった一人の愛や勇気で世界が救われるなら、消えてしまったシーマの大切なイリアはどうなる。

「白か黒なのか? 正義いて悪が滅せられる。尊きものが世界を支配し導く。それがこの世界か?」
一人の力で何ができる。
勇者がこの世にいるなら見てみたい。
シーマは笑いをかみ殺した。

「でも実際に生きている、サロア神がね」
いつ目覚めるとも知らない生き証人。
人が選んだ正しき道を示す、知覚できる神はそこにいる。
シーマの背中が草の中に落ちた。
ラナーンに背を向けて丸まった。

「分からないよ、ラナーン。魔がいて、夜獣(ビースト)がいて」
「おれにも分からない。ずっと守られた城の中にいたんだから」
何も見ず、何も聞かず。

「でも確かに夜獣(ビースト)が増えてきている。デュラーンだけじゃなく、いろいろな場所で」
ラナーンの手がシーマの頭に乗った。
不器用な慰め方にシーマは笑えたが、少しは安らいだ。

「夜獣(ビースト)が怖いけど、おれたちはそれが何なのかほとんど分かってない」
「だから怖いのかな。強いし」
「うん。少し前まではもっと怖かった。どこから来るのか分からなかったんだ」
シーマが草の上を転がる。
二回三回と回りながら、ラナーンから離れていく。
追いかけて捕まえたシーマからは草の匂いが上がった。
青くて、懐かしい匂い。

「けどね、ファラトネスとデュラーンが夜獣(ビースト)を押さえ込もうとしてるんだって。出てくる場所が分かったから」
森の深部、人を拒絶するほどの深い場所。
周りを取り囲むようにファラトネスの魔石を埋め込んだ。
タリスがもたらした情報が、ファラトネスそしてデュラーンへ伝わった。

「時間稼ぎにしかならないかもしれない」
シーマが口にした不安は、自らの故郷への不安でもある。
ディールを残してきた集落は、酔香花で夜獣(ビースト)から護られている。
それもいつ決壊するか分からない。

「そのために、旅をしてるんだ。もっとも、最初の動機は違ったけどね」
置かれた状況から逃げたかっただけだ。
逃げるしか、方法がなかったから。

「行くんだろ。森に」
「なんだ。やっぱりちゃんと聞いてたじゃないか!」
開いた口から白い小さな犬歯が覗いた。






森の中には入らない。
それがシーマに結ばせた約束だった。

シーマは腕が利く。
年の割りにといえば本人はすこぶる不機嫌になるが、事実あの小さな体は驚くべき瞬発力に溢れている。

アレスが常に帯刀している大振りの刀や、タリスが得意とする細身の剣は扱い慣れない。
短剣を手に体ごとぶつかっていくような、懐に潜り込む戦法を好んだ。
そんなシーマの腕をラナーンは評価しているが、流石にどこへなりとも危険を顧みず突っ込んでいく気にはなれない。
まして知らない土地だ。
無茶はせず、大人しく観察に徹すること。
言い含めた上で、シーマの後を付いていった。



それらしい。

シーマは頷いた。
彼女が心持ち上向きに顎を持ち上げ森を見下ろした。
丘の下には彼女の目に留まった、というよりも堂々と広がる深緑の森林が広がっていた。

ラナーンは目を細める。
地平線に重なるように森の切れ目が横に走る。
小高いこの場所から森の終わりが見えるということは、ファラトネスの大森林ほど奥深くはなさそうだ。

「行ってみる?」
隣に顔を向ける前に、シーマの頭は消えていた。

「もっちろん」
声はラナーンの目線より下から聞こえてきた。
丘の斜面のこぶを器用に飛び越え下り始めている。
ラナーンも続いて飛び降りる。
シーマのように小さくないので、転がるような軽やかさはない。
アレスがいなくてよかったと苦笑した。

「少なくとも一週間は目が合うたびに笑われる」
着地の一歩をつまづきかけて、踏みとどまった。
よろめくラナーンの腕をシーマが引いて支えた。

「さてどうしようかな」
「夜獣(ビースト)センサーがあれば何か感知しそうな雰囲気はたっぷりだ」
「夜獣(ビースト)の何だって?」
そうだ。
彼女は知らない。

「いるんだよ。夜獣(ビースト)の気配を感じられる子が」
「ふうん。タリスの友だちか?」
「当たり。よくわかったね」
ラナーンは目を細めて、小さくも聡明な少女を見下ろした。
シーマは口元を引き上げ、にやりと笑みを返す。

「あの変わり者のお姫さまだからね」
腕を組んで想像を膨らませる。
絶世の美女だ。
口を閉じていればまるで彫像のように芸術的なつくりをしている。
均整の取れたしなやかな体躯からは滑らかな剣技が繰り出される。
文武に長け、好奇心は彼女の精神の美を輝かせる。
だが人並み外れているのは彼女の造作だけではない。

言動、思考、行動。
突飛で、時に何よりも信頼できる。


「夜獣(ビースト)センサーね。あれば便利だな。警報機みたいで」
「あったらあったで結構大変なんだ」
気分悪そうに眉を寄せるアリューシア・ルーファは気の毒だった。

「じゃあ、ひとまず一周してみます?」
「一周? どれくらいかかるんだろう」
ラナーンは肩を落とす。

「わかったわかった。体の弱い王子さまの体力を考慮して、半周ね」
「いいよ。一周で!」






風に弄られる草木の音に包まれる。
道なき森の際を並んで歩きながら、シーマが水のボトルを取り出した。
散々騒いだ道中なので、予想以上に水の消費が激しい。

「もっと持ってくればよかったかな」
ボトルはシーマが一本。
ラナーンが一本。
どちらも残り半分と言ったところだ。

「重くなるって。水がなくなる前に帰りなさいってことだよ」
「デュラーンの水の神さまが言ってるわけ?」
並んで日陰を歩く。
今何分の一かな、とシーマはラナーンを見上げた。
一周回るんじゃないのか。
目を細めてシーマを見下ろした。
自分よりいくつか年上なはずなのに、こうしたちょっとした子供っぽい仕草が差を感じさせない。

アレスがラナーンを過保護したがる理由が見えた。
放っておけないのだ。
気は弱そうだが、いざというときにはアレスに磨かれたと言う剣の腕が光る。

少し森に寄れば木は密度を増す。
容易には踏み入れがたい闇が広がっている。
人気はない。
地面には森に流れる道はない。
獣道らしきものを辿って迷い込めば、きっと出られないだろう。
夜には絶対に来たくない場所だ。
太陽を高い木が隠す。
陰は忍び寄るような冷たさがあった。
鳥の高く小さな鳴き声が木々の中で重なり合っている。

「この中にも神門(ゲート)があるのかな」
シーマが立ち止まった。
一つに結ばれた髪が、冷ややかな風に流れる。




「シーマ!」

ラナーンの鋭い叫び声がシーマの耳を貫いた。








突然飛び掛られたシーマは状況が把握できなかった。
横倒しになった体の上にラナーンが圧し掛かっている。
目の前にラナーンの細い首筋がある。
重いというよりも、下敷きになった左腕が痛い。

ラナーンはシーマの上着の下に手を突き入れた。
シーマの体が強張る。

地面から跳ね起きたラナーンの背中に森が隠れる。
立ち塞がった彼の手にはシーマの短剣が握られていた。

動かない背中。
空気は張りつめていた。
シーマが体を浮かす。
擦れた花が乾いた音を立てた。
割って入った音で止まった時は動き出した。

跳躍するラナーンの陰で見え隠れする動物。
獰猛な息遣いと酸味のある匂い。

飛び掛られ、応戦し、跳び下がり、短剣は鈍く光る。
夜獣(ビースト)が上になり下になる。
長く茶色の爪はラナーンに容赦なく襲い掛かる。

「夜獣(ビースト)」
引き攣った声を上げるシーマの目の前で、ラナーンが崩れた。

夜獣(ビースト)はシーマに一瞥をくれたが首を振り上げ鼻を鳴らした。
噛み締めるような唸り声を上げるとシーマとラナーンに振り向きもせず風のように消えた。

「ラナーン」
背中に駆け寄ろうとしたときだった。



右手から茂みを掻き分ける音がした。
体を堅くして、反射的にシーマが顔を弾き上げた。

「お、い」
黒い大きな目がシーマを射る。
女だ。
人間だ。
まだ若い。

「夜獣(ビースト)、が」
震える声で搾り出した。
あれが、町にでも行ったら。
シーマの目は走り去った夜獣(ビースト)の行き先を追っては、抱え込んだラナーンの背中に戻る。

「獣(ビースト)、あれが」
夜獣(ビースト)と入れ替わるように現れた女は、言うが早いか向きを変えた。
追うつもりだ。

シーマはラナーンの手から滑り落ちた短剣を拾い、女に放り投げる。

島の服を着ている。
見たところ、丸腰だ。
素手で夜獣(ビースト)に叶うはずもない。
その短剣もどれほど役に立つか知れないが。

取り落とすことなく器用に片手で掴み取り、黒髪を揺らして駆けた。
あっという間に姿は見えなくなった。
シーマが張り付いたラナーン背中は冷たくなっている。

「どこだ。どこをやられた」
「傷は深くない。腕、右の」
ラナーンが抱え込んだ右腕を手許に引き出して、シーマは顔を寄せた。
生温かい湿った感触。
裂けた布を捲って唇を噛んだ。
来なければよかったと、後悔した。

赤い雫がシーマの指を伝い、草を湿らせた。











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