Silent History 79





木の床が軋む音で目が覚めた。
体が慣れてしまっている。
これは習性とも言えるだろう。

耳をそばだてた。
気のせいではない。
慎重に歩いている人間の足音だ。
忍んでいても響く音は仕方がない。
床板は古くなっている。

衣擦れの音に注意して、寝台から滑り出した。
夕刻に合わせた顔を思い浮かべる。
人の顔を覚えるのは得意だった。
これも、職業柄身に付いた。

問題を起こす人間には思えなかった。
隙がなく、目の奥に秘めた刃のような研ぎ澄まされた鋭さがあった。
睨まれたら足が竦む強さだ。
それでも、薄気味悪さは感じない。

小さな灯を手に提げた。
暗闇を丸く切り取った、ほの明るい部屋の中から扉に耳を密着させた。
足音は徐々に大きくなり、やがて遠ざかっていく。
一つか。

しかしだとしたら奇妙だ。
単に真夜中に外出しただけか。
そうは言っても、昨日と今日との境界をとっくに跨いでしまっているこの時間。
こんな小さな村で明いている店などないはずだ。


木戸の取っ手を握りこんで、音を立てないよう気を使いながら薄く戸を開いた。
様子を窺い顔を寄せていた木戸の廊下側に堅いものがぶつかった。

暗闇の廊下中に響き渡る音ではなかったが、板に耳を付けていたところでの音だったので、文字通り飛び上がった。
喉から漏れた細く引き攣った悲鳴は、息とともに止まる。
僅かに開いた扉の隙間から伸びた指が扉を掴む。
木戸の取っ手に体が引き摺られながら、予期しなかった人間の、予期しなかった力で外側から引き開けられた。

腰の引けた低姿勢から恐る恐る上を見上げた。
長身の男が一人、下からの灯に照らされていた。






静かに。

膝が崩れかけている宿屋の主に、アレスは手のひらをかざした。
先を行く足音は廊下の奥へ消えた。

「心配ありません。あれは私の連れです」
「よ、夜中だぞ」
「だから追うのです。しかしあいつに夢遊病の気はなかったはずだが」
口を魚のように開いたり閉じたりしている宿屋の主に視線を落とした。

「大丈夫。捕まえたらすぐに戻ってきます」
説明するが、主の視線はアレスの近辺を動揺で泳いでいる。
だいたい真夜中、手を前に伸ばしてでなければ歩けない暗闇の中に、沸いて出たような男だ。
説得力がない。

「見なかったことにすればいい。何も気付いていない。聞いていない。これは夢だ」
澄んだ声が半開きの扉後ろから流れ込んできた。
女の声だ。

「そんな都合のいいことを」
「簡単なことだ」
宿屋の男は、滑らかで柔らかいものが彼の手首をすくい取ったのが分かった。
それが女の手だと分かったのはしばらく後のことだ。

「左手に力を入れて、後ろを向く。後は真っ直ぐ歩いてベッドに戻ればいい」
まるで魔法にかかったようだ。
彼女の声に抵抗もなく、扉に背を向けた。
そのままふらふらと頼りない足取りで前へ進んでいった。


ああ、何で俺はこんなことを?
布団を腹に掛けてから、正気に戻った。
ゆっくりと堅くなった手を広げた。
金貨が一枚零れ落ち、寝台のシーツの上で跳ねた。






暗闇が幸いして目標の足が鈍った。
外に出た解放感で、音に対する警戒心が薄らいだ。
追跡者たちにとっては有利だ。
相手はこちらに気付いていない。
こちらは相手の足音を辿ればいい。

「あっちだ」
声を落として、歩調を速めたのはシーマだ。

この中では一番耳がいい。
自然の中で育てば感覚も鋭くなっていく。
お前は付いてこなくていい。
アレスは言ったが、タリスとシーマ二人並び、彼の前に上目遣いで立ち塞がった。
どうして仲間はずれにするのと非難たっぷりの目と声で力一杯訴えられては押し切れなかった。


すぐに背中が見えた。
窓の隙間から漏れる光に白い輪郭が浮かび上がっては闇に溶ける。

「この先は民家だけだったはず」
タリスが家の外壁に体を密着させながら、角から半分顔を出した。
一定距離を保つこと。
気配を消すこと。
闇に紛れた今はそう難しくはない。
さらに言うなら、相手は鈍感だ。

仮に砂を蹴る音が耳に入っても、肩を跳ねて驚くか、気のせいだと涙を滲ませつつ思い込もうとする人間だ。

細い道を曲がっていく。
見失ってはいけない。
大股で距離を縮めていく。








「はい止まれ」
肩を握りこまれ、反転させられ声になりきっていない叫び声を上げた。

「あ、あ、あ」
そのまま気を失うんじゃないかと思った。
膝が崩れ、それでも意識は立とうとしているのか顔だけはどうにか上を見上げた。

「はいはい王子さまお迎えにあがりました。ご就寝のお時間でゴザイマス」
平淡な声で言われるのが恐ろしい。

「はい泣かない泣かない」
彼は子供のように歯を食いしばっている。

「タリス、慰めてやってくれ。俺にはどうも苦手だ」
「この嘘つきが」
言いながらも振り向いたアレスの要請を受け、細道の曲がり角に待機していたタリスがアレスに歩み寄っていく。

「お前のほうが。まあ、いい。ほらラナーン」
手を差し出して、ラナーンを立ち上がらせた。

「落ち着いたか?」
「泣いてないし」
「我慢しなくていいぞ」
「してないって」
タリスの軽口ですっかり緊張が解けた。

「で、何で真夜中で何してるんだよ。こんな真っ暗な場所で」
シーマがタリスの隣に現れた。
タリスの肩に背が届くかどうかというところに頭の先がある。

「シーマもいる!」
「お子様は寝る時間だって言いたいのか?」
十人中十人、見れば彼女は子供だと言い切る。
そのシーマの目が据わっている。
少し背中が寒くなったのは、タリスとアレスには秘密だ。

「そうだぞ、アレスも。彼女は功労者なんだ」
アレスが宿屋の主人に手間取った時間を、彼女の聴覚が救った。

「結局全員集合なのか。賑やかだ」
ラナーンにしてみれば懸命に練った作戦だったのだろう。
そして真っ暗闇の中一人で抜け出す。
小さな冒険だ。

「うまくいくと思ったんだけどな」
タリスたちと村を歩いているときに、夜になっても動けるよう道や風景を記憶した。
情報収集もした。
アレスが寝静まるまで、目を開けて待ち続けていた。

「アレスの忠誠心と過保護は伊達じゃない」
なぜかタリスが胸を張り、自信満々に答えた。








「珍客だよ」
扉を開いて最初に投げられた言葉だ。

「こんばんは」
「一度手放したものが戻ってくるとはね」
「何の話です?」
訝しげにアレスが見据える。
視線の先には椅子の上に老婆が身を沈めていた。

「話の話さ」
ゆっくりと噛み締めるような口調だが、穏やかさはない。

夜にしか会えない人物だと聞いたから、あえてこの真夜中の時間を選んだ。

「そちらの薬師」
大きな布を頭から垂らした老婆は、その裾から真っ直ぐにシーマを見る。

「そうだ、お前だよ」
小柄な体、乾いた髪、落ち着いた口調。
老婆ではあるだろうが、声は澄んでいる。

泳いだシーマの視線が、老婆で止まる。

「ハリカに処方してやったそうじゃないか」
目が細くなった。
そうか、笑ったのかと気付いたのは数秒経ってからだ。

「ああハリカって」
道へ半分体を投げ出して倒れていた。
藪に踏み入れて草に足を取られたのだと荒い息で告白した。
膝下には小さな穴と引っ掻いたような痕が紫色に腫れていた。
シーマは髪を結んでいた布で、倒れていた女性の足を縛る。

「棘に触ったんだ」
「あの林には踏み入れるなと言っておいたのに」
人の良さそうな中年の女性だった。

「人には毒となる樹液を持った木がある」
かぶれる程度の樹木は、デュラーンやファラトネスにもある。

「低木には棘がある。触れるだけなら大丈夫だ。握ったりして棘が折れ樹液が傷口から入ると熱病を起こす」
ハリカという女性は足を取られたと言った。
転がったところが悪かったのだろう。
毒の低木の上へ倒れこんでしまった。
服は裂け、棘は剥きだしになった足に容赦なく突き立てる。

「薬をやれば四日、五日で目を覚ますのだが」
シーマはすぐさま藪の中に踏み込んだ。
やっとのことで女性が這い出してきたぐらいだ。
近くに彼女が倒れこんだ草があるはず。
予想通り、すぐに見つかった。
木は枝が折れ、地面に垂れ下がっている。
慎重に一房折り取った。

「熱は二日で引いたと聞いた。なかなかの手だな」
「私の周りにも、似たような木があった。見知っていただけ」
「ハリカの命を救ったのに違いはない。村の者の恩義は私の恩義でもある。礼を言おう」
声で性別は分かるが年齢がまったく読めない。
白く部屋の隅まで見渡せる灯ではなく、蝋燭で灯したような頼りない光だ。

「では、そちらの話を聞こうか」











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