Silent History 76





褐色に変色した紙が貼り付いて乾いた音を立てる。
埃っぽい匂いが開いた場所から浮かび上がった。

細かく埋め尽くされた暗号のように連なり絡み合った複雑な文字は、久方ぶりの来訪者を迎えた。

数え切れない数の人間が、彼に手を触れることなく目の前を通り過ぎた。
運良く手にした者たちのほとんどが、難解さに眉を潜め、静かに元の位置に戻した。
彼らは何人目の解読者か。
数えることも忘れてしまったほど長い時間を、彼はこの本棚で過ごした。
またそれ以上に長い時間を、人から人の手に渡って放浪してきた。



そして古の文字は、来訪者に囁く。



魔は闇に住まい

魔は扉を越える

魔は人を喰らい

魔は我らに災いを



魔は扉を抜け、世界に散らばった。

魔は、千五百年もの昔に封じられたはずだった。
かつての勇者ガルファードと眠れる女神サロアによって。

それが今、また。

封じられたはずのそれは、獣(ビースト)となって世界へと流れ出している。








「何ができるかなんて分からない。もしかしたら、何もできないかもしれない」
血の匂いが腐臭に変わり行く様を、ただ呆然と眺めていることしかできないかもしれない。
果てしないこの世の先を見下ろしながら、彼は言った。

「無力なことは、もう。十分過ぎるくらい、分かってるんだ」
彼らは、強い。
剣を握り、いくつもの危機を文字通り切り抜けてきたのだ。
素性ははっきり分からないが、その腕は確かだ。
目の前で実証された。

「できなくても、知らないでいるよりはいい。逃げたく、ないんだ」
途切れ途切れの言葉で、外套の深いフードをかき寄せた。
薄い肩をすぼめた背中を見て、泣いているのかと思った。
無意識に、手が伸びて寂しそうな背中に押し当てた。

「逃げるって?」
シーマが、背中に身を寄せるように外套を手の内に握り締めた。
「振り切って、捨てたつもりでいても、やっぱりだめなんだな」
背中が冷たい。
苦笑する声も湿る。

「切り離せないんだ。心のどこかで大切なものを思う」
シーマは自分のことのように胸が締め付けられた。
イリアはいなくなった。
それでもずっとシーマの中に彼女は居続ける。
それが思い出だからだ。

「無力だった。でも、私は後悔していない」
もしも、と考え始めたら止まらない。
太陽の石を手に入れるのが早かったら。
違う道があったのかもしれない。
洞窟も石も、側にあった。
それでも道は選ばなかった。

「イリア、最後に言ったんだ」
シーマは彼、デュラーン王族の身分を捨てた少年の肩に手を掛けて、爪先立ちする。
口を黒髪から僅かに覗く白い耳に寄せた。

「ずっと、ありがとう。ずっと大好きだよ、って」
一瞬だった。
そのままラナーンの背中に崩れ落ちて、顔を埋めた。

「わらった、んだ。さいごに」
壮絶な痛みと苦しみ、悲しみの中で、これほど愛に満ちた微笑はなかった。




風が強い。
きっとこの風も、しばらくは感じることはできないだろう。
次にこの場所に立ったときは、懐かしいと思うだろうか。
季節は、どこに針を合わせているだろう。

移り行く時間の中でも変わらないものはある。
同胞の愛、繋がりは消えない。
信じている。
だからこそ、戻ってこられる。
まだ彼女は帰る場所を失ってはいない。

シーマは崖に背を向けた。
山道はまだ続く。
下り、道なりに進めば日が傾くまでには町に着ける。
町までの道は幼い頃から歩きなれていたが、今回は少し違った。
一人ではない。
これ程の人数を連れ立ってというのも珍しい。


シーマ・ケラセルは、ラナーン、アレス、タリスの三人の旅路に同行する決意を固めた。
幼馴染のディールは引き止めなかった。
彼女が調べ上げた事実を、今度はラナーンら三人が洗いなおす。

魔。
それに繋がる獣(ビースト)。

古い扉は、書物だけの幻想ではなかった。
この世ならざるものたちの、闇への門を実際に目にした。

魔石。
帝国ディグダから、この地エストナール国にまで流れてきた。

太陽の石。
憑依し、癒着した人間(ヒト)の精神と獣(ビースト)の精神を剥離させるための石だ。
森の中でその力を輝かせるという。

その石こそ、門の欠片。








山を下った町にある伝信局へ案内したシーマの後ろに付いて、タリスが局の戸口を潜った。

国と連絡を取りたい。
設備の整っているところを教えてほしい。
山から長く歩いた町に着いて間もなく、タリスがそう言ったからだった。

局を出てきたときには、シーマの手には袋が提げられていた。

「私たちだって、食べなければ動けない。食べるには、路銀が必要だろう」
タリスは肩の位置にあるシーマの顔を見下ろした。

「ファラトネスからか?」
シーマの問いかけに、タリスは口の端を持ち上げた。


各地に、伝信局が存在する。
ファラトネスを離れる前に、姉たちに約束させられた。
町に出たら必ずタリス、アレス、ラナーンら三人の位置を知らせること。
近況を報告すること。
レンが報告を受け取り、ファラトネスから送金する。

「ただでさえ国を出るとき軽装で出てきたんだ。身に着けている装飾品を売ったって、何ヶ月持つか知れない」
何より、とタリスは続けた。

「気に入ったものを身に着けているんだ。そう簡単に手放せるはずがない」




薄暗い部屋、木製の長机に向っていたラナーンは、資料室の扉が開く音に顔を上げた。
本棚の間に挟まれるように立ち、背表紙を引っ張り出していたアレスも目を戸口に向ける。

タリスに請われて伝信局へ同行したシーマは、デュラーンの二人へ町役場の資料室を合流場所に指定した。

比較的小さくまとまった町で、役場への来訪者も少ない。
突然の訪問で警戒されるかと思ったが、アレスが機転を利かしエストアナ半島の地域調査をしていると説明した。
デュラーンの学術研究の一環で、文化の差異について書物を記すためだと説明を添えたら、幾分表情が和らいだ。
町が所蔵している資料室に、人をつけて案内までしてくれた。
世間擦れのない雰囲気のラナーンを伴っていたのも、警戒を解く要因の一つだった。
穏やかな町だ。
たまに訪れる外からの客は退屈にはよい刺激だった。


地域特有の情報に触れられるとあって、ラナーンの好奇心は疼いた。
だが一方で、シーマには申し訳ないがラナーンはあまり獣(ビースト)関連の情報には期待していなかった。
小さな町に豊富な書籍を蒐集するだけの財力はない。
ラナーンらが求めるのは、獣(ビースト)についての情報だ。
この地域では実際、獣(ビースト)の発生件数は少なく、研究もほとんどされていない。

酔香花か。
デュラーンやファラトネスように人が生み出した魔石(ラピス)ではなく、自生している草が獣(ビースト)の増殖を抑えている。

その酔香花に至っても、山中で消え、今は存在しないとされる村で起こった小規模なものだ。
誰の目にも止まらない。
書物に書き記され、後世に残ることもなかった。

ラナーンは本棚の片隅に、エストナール語で記された他の書物とは系統の違った文字を目にした。
しかし、見覚えはある。



「面白い本は見つかった?」
シーマがラナーンの椅子の左に寄り、三冊ほど重ねられた本に手を掛けた。

「歴史って不思議だな」
ラナーンが唸るように呟いた。

「場所によって見方が変わるみたいだ」
歴史書だ。
デュラーンを出てから、何冊か目にした。
少しの表現の違い、脚色の違いに気付く。

「黒の王。魔と扉」
シーマがラナーンの開いている本を覗き込み、分かる箇所の単語だけを取り出す。

「人の目が歴史を決める」
真剣なラナーンの目を、シーマは横目で窺った。
目に入らないものは存在しないも同じ。

「自分が見たものだけがこの世の真実だと思うんだな」
机へ腰を屈めたシーマの上に影が被さった。

「俺たちが探しているのは、文字の奥に潜む事実だ」
その声に、シーマは飛びのくように振り返った。
長身の男が突然背後にいれば、驚くのは当然だ。

「言葉を発しない歴史もある」
「歴史の裏側? おもしろいじゃないか」
背を向けた机にシーマが飛び乗って腰を掛けた。
子供らしく脚を揺らしながら、壁のようなアレスに対面した。
「私も知りたい。アレの正体を」
空間の裂け目から生れ落ちている、魔の姿を。



歴史は紡がれる。
人の手と意思によって。



描かれなかった事実はあるはずだ。
ここにいる全員は、その目に見えない歴史の糸に絡まれている。











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