Silent History 75





満たされることのない心は空っぽのままで。
すべてのものごとが、自分とは関係ない時間と空間を流れているようで。

道を見失ってしまった。




死ねばよかったんだ。

決して口には出せない言葉だった。



獣化して、自我を失ったイリアの手で消えればよかったんだ。

考えてはいけないことだ。
イリアは村を血で染めないために、耐えてきた。
意識を手放してしまえば彼女は苦しまずに済んだ。
それでも自分を犠牲にしてまで、待っていた。
自分を殺してくれる人間を。
その力がある者を。






目の前に食事が出された。
イリアの部屋にこもっていると、ディールが毎食手に温かい食事を持って現れる。

何も言わない。
ただ食事を置いて、しばらくしたら引き取りに来る。
まったく手の付けられていない、皿の位置も変わっていない冷めた食事を下げる。

毎日続いた。
何日目なのか覚えていない。
ディールがシーマの湿った髪に手を乗せた。

彼の体温。
そのとき、ディールはまだ生きていることに改めて気付いた。
なぜだか涙が止まらなくなった。
声を殺して泣いた。

湧き上がってくる感情を言葉で表現できない。


ディールは食事を取れと無理強いしなかった。
いい加減に部屋から出て来いと迫らなかった。
ただ見ているだけ、側にいるだけの彼だからこそ、シーマはディールを拒まなかった。








鬱屈とした部屋の窓を開けられて、シーマは目を覚ました。
朝か夕方か。
薄ら明るい光の中に、細く形のいい人型のシルエットが彫られている。
理想の形は、まどろむシーマの頭には夢の延長を見ているかのようだった。
風が流れ込む。
長い金の髪は、見事な糸のように柔らかく煽られて、風の流れを金の筆で描く。
髪を押さえることも、整えることもしない。
ただあるがままで、飾らない。

彼女は月だ。
弱く淡い光ではない。
満ちて強く透き通った光を放つ、神々しいまでの月光。

手を触れることも憚られるような。
彼女のように強くなれたらいいのに。
そうすれば、もしかしたらイリアを。

「朝は目を覚ませ。このままでは寝台の上で溶けてしまうぞ」
タリスは床に近い寝台でシーツに包まるシーマを見下ろした。
逆光の中で、タリスは慈愛の滲む微笑を浮かべている。

「自分が嫌いになって、消えてしまいたくなったら、自分以外のものに身を任せてしまえばいい」
タリスの言葉の意味がわからなくて、シーツに顔を押し付けたまま、彼女の簡素な服を眺めていた。

「私は踊った。無心で、何も考えずに」
獣(ビースト)に惨殺された自国の兵士。
タリスの目の前で、噛み千切られた。
おびただしい血の海、血の匂い。
赤い光景の中で、タリスは何もできなかった。
あまりに無力な自分が、それまで自分が国を支えていると思い込んでいた自分に、堪らなく嫌気が差した。
驕りだ。

「空っぽの体には、別のものが宿るんだ」
タリスが手を差し出した。
シーマの腕を引き上げるためではない。
シーマ自身が彼女自身の力と意思で、その手を取るために。

重い体を引き摺って、シーマは体を起こした。
タリスの端から漏れる光が眩しい。






「広い。大きい」

シーマは両手を広げた。
高い崖の端に立つと、鳥になった気になれる。
腕の周りを風が抜ける。
下ろした褐色の髪を、風が持ち上げる。
村を眼下に、地平線に至るまでには木が茂る。

「きれいな気持ちになれる」
体の奥底では、まだ膿んでいたが幾分か楽になった。

ラナーンも、アレスもいない。
ディールや集落の仲間たちもここにはいない。
タリスだけだ。
シーマはずっと黙っていた。
空の青を眺めていた。
何もしない。
ただ時間が過ぎるのを全身で感じていた。

タリスは芝の上に転がった。
シーマも並んで横になった。
二人で雲の流れを追っている。
口を閉ざして目を開き、耳をそばだてる。

いつもは感じないものを感じるようになる。
時間によって変わる空気や、聞き流していた小さな音たち。
自分はどれほどいろんなものに囲まれて生きているのかが見えてくる。

「獣(ビースト)を追ってきたって、言ってたよね」
「何も、知らないからな」
しかし、今回で少しは見えてきた。
彼らの現れる場所が。
だがそれだけだ。
次にどの道に進めばいいのか。

「知ろうと思った。国を出れば、きっと何か手がかりがあるはずだと思った」
「故郷には、家族とか」
「いるさ」
「大切な人たちが?」
「ああ。大切な」
掠れた声は、熱を帯びていた。

「本当に大好きな人だったんだ、その、国で別れてきた人って」
「レン」

タリスが立ち上がった。
邪魔だからと無造作に纏められた髪から、芝が舞い落ちる。
麻の混じった丈の長い服は、シーマの友人が与えたものだろう。
簡素だったが、タリスにはそれも良く似合う。
神話の中の女神はきっと、彼女のような姿なのだろう。
今彼女は編み上げられたサンダルを寝転がっていた場所に脱ぎ捨て、素足で芝を踏んでいる。

「レン、って言うんだ」
その大切な恋人と別れてまで、なぜ彼女はここにいるのだろう。
白い布に包まれた彼女の真っ直ぐな背中を見ながら、シーマは考えていた。






「どこに行ってたんだ!」
今まで見たことがない顔で、ディールがシーマを怒鳴りつけた。
二人が村に帰ってきたのは、日も暮れてからだ。

シーマの様子を見に行ったら乱れたシーツだけが、寝台の上に丸まっていた。
タリスの姿も、シーマの姿も見えない。


村中を探した。
ゼランの屋敷もくまなく探った。
川に落ちたのか。
流れは急だ。
足を滑らせていたりして、タリスも助けようと巻き込まれて。
家を抜け出したシーマをタリスは追ったのか。
まさか洞窟に?
あそこはイリアとゼランの一件が起こった場所だ。
アレスとラナーンは洞窟に向った。
入り口を探ったが、日が傾いてきたので引き上げてきた。

疲れきったところに、二人が緊張感の欠片もなく帰還する。
ディールが憤慨するのも無理はない。

「無事で、よかった。本当に」
シーマの両肩を掴んだまま、腕の中に包み込んだ。

「決めたんだ、ディール」
何かを決めるのは一瞬だ。

「私も、獣(ビースト)を追うよ」






シーマの一言に全員が驚いた。
ディールは、彼女の変わりようについていけない。
今朝まで死にそうに塞ぎこんでいた少女が、まだ顔色は悪いとは言え、どこからか戻ってきたら突拍子もないことを口にする。

タリスがよからぬことを吹き込んだか、あるいは気が動転し過ぎて、シーマ自身正気を失っているのか。

タリスの顔色を窺った。
彼女も驚きに目が開いていた。

家の外でシーマらを迎えたアレスとラナーンも絶句している。

「追うって」
ディールが口を開いた。

「タリスたちについていく」
しかし、イリアに関しては彼女の死で終結している。

「まだ、終わっていないんだ」
イリアは死んだ。

「イリアを忘れれば楽になる、そうじゃないんだ」
きっと忘れられない。
イリアと過ごした時間、彼女のために費やした時間は消えない。

「忘れられるはずがない」
忘れられないからこそ、忘れたくないからこそ。











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