Silent History 70





生臭い臭気が立ち込める。
服の袖を口元に押し付けるが、その布も赤黒く乾いてきている。

背後にも注意しながら進む。
叩き切ったはずの獣(ビースト)だが、尋常でない体力と生命力だ。
息を吹き返さないかと心配になる。


またか。


アレスの剣が煌いた。
構えた刃先から、飛沫が散る。

剣は打ったままの姿だ。
刃は欠けておらず、痩せてもいない。
先ほど切り伏せた獣(ビースト)の血も絡んでいない。

それがアレスの力だ。
剣を取り巻く薄い水の膜が、この剣の真の刃となる。
派手な炎術や水術は操れないが、それらを埋める以上にアレスの剣の腕は貴重だ。


先ほどは三体。

今現れ対峙しているのは、二体。
この調子で斬り進んでいっても、体力がいつまで持つか分からない。




ディールの針が的確に獣(ビースト)の顔に深々と突き刺さる。
一本は顎、二本目を投げかけた腕を止める。
獣(ビースト)に押されたタリスが後ろに重なったからだ。

針の傷みに混乱した一体へ駆け寄り、下から切り上げたのはアレスだ。
首を狙ったが、剣は鋭い音を立てて弾かれる。
アレスの剣が、長い牙に振り払われた。

「厄介な」
頭がいい。
アレスの剣の動きを先読みしている。

距離を取って、頭を冷やした。
目の前の獣(ビースト)の顎から、ぶら下がるようにして刺さった針を伝って体液が地面を濡らす。

「灯り、放すなよ」
背後にいるディールが、手にした松明に力を込めた。
アレスが飛び出したのと同時に、獣(ビースト)が飛び上がった。
縦にも広い洞窟だ。
傾斜の微かにかかった壁に鋭い爪を掛け、アレスの上を取った。
そのままアレスに圧し掛かるように飛び降りる。




しかしその予測は見事に外れた。
アレスは抉れた壁の茶色い石と砂を浴びただけだ。
獣(ビースト)の体は横に逸れる。

下から上段で振り上げ、振り下ろした剣先は獣(ビースト)に致命傷を与えられない。
太い後ろ足を裂いたに留まる。

ディールだ。
彼が獣(ビースト)の狙いだった。
灯りさえなければ人間の動きは止まる。
獣(ビースト)はそれを見抜いていた。

始めからか。
だからアレスをディールから引き離した。

ディールが針を構えるが間に合わない。
牙の餌食か、爪で裂き殺されるか。


並んでいたシーマが前に出た。
瞬きもしないで、ディールを退けた。
短剣を顔の横で握っている。
そのまま動かない。
アレスが身を翻して、ディール、シーマ、獣(ビースト)の元へ走る。
だがそれも遅い。


シーマの鋭い目と固まった顔が獣(ビースト)の陰に隠れた。
終わりか。
せめて最初の一撃さえ避けるか、弾いてくれれば。

硬い音がする。
骨に当たった音だ。

シーマの肩に獣(ビースト)の硬質な爪が食い込む光景が頭を過ぎった。
凄まじい叫び声が上がる。
叫んだのは、あの声はシーマか。


「下がって、ディール!」
言い終わった時には、ディールは斜め後ろに跳び退っていた。
逆光で暗い獣(ビースト)の背、その向こうから影が左側に飛び出した。


シーマだ。
生きている。
動いている。

獣(ビースト)からは大量に血液が流れ出して川になっている。
脇腹からだった。
あばら骨の隙間へ、短剣の根元まで刺さっていた。

すれ違い様に獣(ビースト)に短剣を押し込んだ勢いで、シーマが懐から転がりだした。
小さな体で身軽だからこそできた。

「まだ、生きてる」
砂に塗れた顔を袖で素早く拭い、起き上がった。
獣(ビースト)はこれぐらいでは息絶えない。

「始末する」
土を蹴り上げアレスが駆ける。
剣が唸る。
錯乱し、頭を揺さぶり涎を撒き散らしている獣(ビースト)の爪もアレスの命を狙っている。
しかし、器用に避ける。

「へえ、意外と軽いんだ」
荒れた息の合間に、シーマが途切れ途切れに呟いた。
獣(ビースト)の前足に剣を落とす。
軸がずれ、傾いた背中に鋭くもう一撃。
起こした首が狙いだった。
顔を持ち上げたところで、体重を掛け半円を描くように剣を首に沿わせて斬った。

水脈を掘り当てたように、血が壁や地面に噴出した。
飛び下がったアレスは頭から被っている。
距離を置いていたシーマの服にまで飛沫が飛んでくる。
ディールとシーマは呆然と状況を眺めていた。

「ラナーン! タリス!」
アレスの叫びに、二人が我に返る。


大型の獣(ビースト)に、離れていたタリスら二人も苦戦していた。
タリスが跳ね飛ばされ、壁の前で崩れている。
上半身を起こして立ち上がろうとしているが、体が言うことを聞かない。

対峙しているのはラナーン一人だ。
獣(ビースト)の動きを鈍らせることはできても、ラナーンの剣ではまだ軽い。


「シーマ!」
ディールの声に振り向いた。
投げ渡される深い緑の布。
ディールの意図を、彼女はすぐに察した。

「そこの大男!」
甲高い声と布が、アレスへ投げつけられる。
灯りが薄く、それが布であるのは手触りで分かるが色までは判別できない。
それでも考えは読み取れた。
受け止めて握り込んだのは、二枚。

「息を止めろ!」
絶叫しながら、果敢にもディールが単体で獣(ビースト)に突進した。
声に獣(ビースト)の眼が反応した。

続いて顔がディールに向く。
獣(ビースト)の前にいるラナーンが息を吸い込んだ。


ディールの動きに合わせて、アレスがラナーンと獣(ビースト)から距離を置くタリスへと飛び出した。
大きく走れば五歩の距離だ。
苦しげに喘ぐタリスの頭を押さえ、口元に布を押し付けた。
少しばかり乱暴だったが、我慢してもらおう。


ガラスの割れる音がした。
小さな音だった。

次に起こる結果が、彼らにとって勝利に繋がるよう五人とも願った。
期待通りに事態は動いてくれるか。
ディールの手から放たれた一つの瓶が、人の命を左右する。




獣(ビースト)は動かない。
タリスも、シーマも、アレスさえも。

ラナーンの振り出した剣がやけにゆっくりに見えた。
獣(ビースト)の頭に落ちていく。
額を裂いた。
突き出した鼻が飛んだ。

左に流れた剣先を押し戻し、左から首の付け根へ薙ぎ払った。
首の三分の一まで剣が食い込む。
断末魔の声を上げることもできず、獣(ビースト)は地面に沈んでいった。


「すい、こう、か」
掠れた声は、洞窟へ静かに吸い込まれていく。
剣を握りながら、ラナーンが首を反らすように後ろに倒れていった。
意識が遠退いていく。
自分ではどうしようもできないほど、体が重い。


アレスが瓶を放ったままの姿で動かないディールの横をすり抜けた。
効果がこれほどあるものとは、ディール自身も驚いて硬直している。

頭を地面にぶつける寸前で、アレスがラナーン背中に腕を滑り込ませた。
自分の布で、ラナーンの鼻と口を覆う。
息を止めたまま、ディールへ振り向いた。

服の裾から飛び出した布を引っ張り出し、アレスへと投げ渡す。
掬い上げて受け取ると、口にあて深く息を吸い込んだ。

「おい」
アレスの声に薄く目を開ける。

「獣(ビースト)は」
「もう死んでる。お前の手で」
「そっか」
目蓋が落ちるラナーンを揺さぶった。

「おい!」
「ねむ、い」
甘い香りが漂う。
灯りが波打つたびに、意識も揺らぐ。
波の上に浮いているようだ。

「血の、においがする」
においの元を探るラナーンの手がアレスの服を引き寄せた。
顔に近くに寄せた服の布地には獣(ビースト)の血が染みている。
生々しい感覚が甦って、弾かれたように上半身だけ起き上がった。
体を半分に折りたたみ、前かがみになりながら咽る。
発作のように止まらない咳と震えを、アレスが両肩を握り締めて押さえ込もうとする。

手の中にあったアレスの服をきつく握り締めて、苦しげな目を薄く開いた。
咳が治まり、手の中の服を解放した。
そのまま重力に引かれ落ちていった左腕は力が抜けている。

アレスの目は傷を見落とさなかった。
机から落ちた筆を反射的に手を回して拾い上げる容量で、ラナーンの腕を引き上げた。

「軽傷だ」
そう言って腕を引こうとするラナーンの腕を強く掴む。
地面に置いた薄明かりに照らし出してみた。
確かに傷は深くなかった。
腕の内側を真横に切っていた。
筋も骨も異常はない。

ラナーンの視界の中に、砂埃を被ったタリスがいた。
シーマに体を支えられている。

獣(ビースト)の腕が効いたようで、ラナーンと視線を合わせても苦いものを噛み締めた引き攣った笑いしか返せない。

「無事、なのか」
「案外丈夫にできてるんだな、人間の体って」
内臓には問題ないみたいだと、タリスはそっとシーマの腕を外し自立してみせた。
ラナーンも壁伝いに立ち上がった。

「酔香花が獣(ビースト)にも効くとはな」
「人でも効くんだ。獣(ビースト)だって不思議はない」
体力が戻りつつあるタリスは、頬の砂を拭いながら最もな指摘をした。
人も大量に酔香花の香りを吸えば意識を失う。

だが、その森からすべての動物が消え失せた様子は無かった。
あれだけ酔香花が群生しているのに森に踏み入れたときに違和感は無かった。
もし動物すべてが生きられない場所だったら。
不気味な静けさに満ちていただろう。


「酔香花が咲く理由」
歌うように、滑らかにラナーンの口から流れ出す。

「理由?」
反復したのはアレスだ。

「もっと深い気がする。だよね、ディール」
「たぶん、この先に答えはある」
穏やかな口調ではあったが、確信を得た強さを含んでいた。

シーマがふと、視線を持ち上げた。
誰かに顎を持ち上げられたように自然に顎が上がった。
しばらく固まって口を開かない。

「ぜ、だ」
一言、口の中で呟いた。
口を覆う布のせいで濁ってしまい聞き取れない。
だがもう一度、今度ははっきりと口にした。

「風が、吹いてる」











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