Silent History 67





「目が覚めた。頭が痛くて、寒かった」




指を動かしてみた。
生きてる。

目蓋が重いが、生きていると分かれば動かなければ。
しかし、ここはどこだ。

周りは薄暗い。
カビ臭い、湿ったにおいがする。
体を転がして、仰向けになった。

高いな。
見上げた断崖の上から淡い光が差し込んでいる。
闇に慣れた目で岩肌を探ってみる。
登れるだろうか。
不安になった。

そもそも、なぜこんなことに。
心の中で呟いて、殴られたように体を起こした。

イリア!

そうだ、ゼランが誘い出し、ここに連れてきた。
イリアがいると言って。
あれは罠だ。
イリアなんていない。
それをそのまま信じて。
間抜けにも程がある。

自責の念にかられつつも、岩壁を掴んで立ち上がった。
左腕が痛い。
だが、骨は無事のようだ。
軽い打撲だろう。

この崖を落ちて来たんだ。
真下から見上げた絶壁の高さに息を飲んだ。
よく軽傷でいられたものだ。
脇腹の服が破け、肌も抉られている。

服が崖から飛び出た岩に引っかかり、落下速度が落ちたから生きていられた。
上手い具合に落ちたのだろう。
あばら骨も問題ない。

一番崖の上に近い岩を探し出し、手をかけた。
岩の上に這い上がって、そこから崖を登っていけばいい。

せめてナイフなり、縄なりの道具があればいいが、そんな便利なものを最悪の状況下で持ち合わせていない。

ゼランを少しも疑わなかった。
その愚かさがここにも響いている。

水や風で削られることのない鋭い岩肌が指の皮膚に食い込む。
その指に体重を預けるのだから、奥歯が鳴くほど痛みを堪えた。
今度落ちたら生きていられる保証はない。
ほぼ直角に切り立つ崖を、足の位置を選びつつ慎重に登った。
湿りを帯びた岩だ。
いつ崩れるとも限らない。
人一倍俊敏で、身軽だと自負していたが自信も這い登る壁の前では虚しく砕け散った。

最後に右手が地面を捉えたときにはどれ程救われたか分からない。
上半身を崖の上に乗るまで引き上げると、しばらくそのまま上がる息を鎮めた。
見開いた目で洞窟の奥の闇を見つめていた。
息が治まっていくにつれ、頭も冷静さを取り戻していく。

なぜ今になってゼランは自分を殺そうとしたのか。
こんな場所で。
こんな方法で。

確実に命を取るのだとしたら他の凶器を使うはず。
刃物、鈍器、あるいは手で。
だとすると、狙いは。

イリアか。

血の気が一気に引いた。
手が震えて力が入らない。
膝が崩れそうになるのを何とか立ち上がらせて、光が漏れ入る洞窟の入り口へ駆け寄った。

イリアとシーマ、二人を離すことこそゼランの狙いだった。




「私が洞窟の外に出ると、人が倒れていた」

絹糸を散らしたように長い髪が砂地に広がっている。
見慣れた姿だ。
見慣れた服だ。
見慣れた、顔だった。
目に焼きついた、幼い頃から側にいて。

イリア。
叫んで走り寄った。
なぜここに?

引き起こした。
揺すってみた。
頬を叩いてみた。
しかし、イリアは口を開かない。
声も届いていない。
目はシーマを見ていない。
体からは力が抜けていた。
人形だ。


振り返って呻き声がした。
イリアから離れて、ゼランが木の下で行き絶え絶えにこちらの様子を眺めていた。
目は虚ろ、命は長くないのがすぐに分かった。

「ゼランを殴った。起こったことをすべて吐かせようと。でもその前にあいつは」
ぞっとする薄笑いを浮かべて、最後に呟いた。

イリアは私のものだ、と。



イリアを村に連れ帰った。
医者に診せた。
言われた通り、気付け薬を調合し含ませても意識が戻らない。
数日間待っても何の変化も現れなかった。

医者の家とイリアの家を行き来して過ごしていた。
薬の調合、薬草の知識、製薬の技術。
先の全く見えない、無力を噛み締める闘いだった。

イリアがこのまま意識を失ったままだったら。
考えたくもない仮定だが、そうなればゼランの言った通り、イリアはゼランの中で彼だけのものになる。

イリアは他の誰のものにもならない。
イリアのすべて、命を彼の手で奪ったのだから。

「そうはさせない。どんな手を使おうとも、どんな罪で穢れようとも、ゼランの思い通りにはさせない」






純粋だった。
シーマは、痛いほど真っ直ぐだ。
汚れてなどいなかった。
誰を傷つけることも望んでいない。


「私とイリアの時間が止まっている間にも、時間は流れていた。残酷に、あからさまに」
ゼランが死んだ。
病床のイリアよりも、ゼランの死という一粒の雫で村の中は波が立って治まらなかった。
ゼランが国家役人の、中枢により近い人間の弱みを握っていたからこそ、この村は朽ちずに済んでいた。
今や、役人にとって煙い人間は消えた。
目をかけてやる必要など最早ない。

中央から完全に隔離された村はざわめき立った。
ゼランから湧いて出たぬるま湯に浸っていた彼らに、冷水を浴びせるどころか水一滴すら流れてこない。
手工業の衰え始めた村は枯渇するばかりだ。

村を見捨てるものが多く出始めた。
村と心中するつもりはない。
働ける者は山を下る。

それに拍車をかける事態が起こった。




「薬草を摘みに行った。山は広い。私の知らない植物がまだあるはずだと」
イリアが元の彼女に戻らない、そのわずかな間にシーマは医師を教えることはないと言わしめるまでに成長した。
手にしている本は崩れて何度も修繕した。

「酔香花(すいこうか)の群を見つけた」


光景は異様だった。
一斉に咲き誇っている。
ひしめいている。

時期ではないのに。

酔香花の香りに精神が溶かされるのを感じ、すぐさまその場を離れた。
原因を考えた。
いつもより気温は高かっただろうか。
雨量が影響したか。
いずれも確信には至らなかった。

酔香花を避けるようにして薬草を摘んだ。
一日、また一日と酔香花は驚くべき生命力で増殖を続けた。
村は酔香花に囲まれてしまった。
根を引き抜いても、花を刈り取っても、酔香花は咲き続ける。

諦めたのは人間の方だった。
ゼランが消えてから、何もかもが悪い方向へと流れていく。
誰しもが心の中で思い始めていた。
それらの元凶は、あのイリアだ。
彼女がゼランを受け入れてさえいれば。
言われなき憎しみや怒りが、変わらず人形のようなイリアに降りかかった。

酔香花に侵された村は、こうして人を失い地図から消えた。




「今ここにいるのは、行く場所を見出せなかった人間。いや」
違う。

「イリアを慕い、彼女を守ろうとした。この村を最後まで見捨てなかった人間だけだ」
八人の子どもたち。
村が好きだった。
イリアも好きだった。
そして、ゼランの甘い汁に染まった人間の醜さを目の当たりにした子どもたちだ。
彼らはそれぞれに、何かしらの技や知識を習得している。
自ら学び取ったり、シーマに教わったりした。


「私はもう一度、あの場所に戻ることにした」
戻っても何もないことは分かっていた。
しかし、採れる薬草は摘み、考えられる調合は試した。
もう打つ手はない。
諦めるのか。
諦められるはずがなかった。

イリアが倒れていた場所に屈みこんだ。
ゼランは何の薬をイリアに飲ませたんだ。
医師に診せても、分からなかった。
書物を調べて、思い当たる病を探した。
それでも明確な答えは見出せなかった。

かつてイリアの体の下にあった砂を握りこんだ。
そして、ゼラン。
彼は木の下に倒れこむように脱力していた。
イリアから離れて。

ゼランの死体からは何も見つからなかった。
周囲を見回しても何もなかったという。

しかし、その時の状況がおかしいことに、実際の現場に戻って気付いた。
イリアに薬を飲ませるのならば、なぜゼランはイリアに手の届くはずのない場所に座っていたんだ。
イリアとの距離は、人間四人の背丈ほどの長さに開いていた。

死に瀕したゼランが、あえて這って木の根元に行くだろうか。
考えにくい、現実味の薄い答えに行き当たった。
ゼランは何かに弾き飛ばされた。
イリアにそんな力はない。
イリアではない、他の力。
だがそれ以上は連想の鎖が繋がらなかった。

とにかく、もう一度周りを歩いてみる必要はある。
茂みの濃い洞窟の周りを丹念に調べた。
草を掻き分けて、ゼランが息絶えた場所の周囲も丁寧に草を分けていく。
半日休みなしに探り、手は緑色に染まった。

夕闇が早くも山にかかり始めた頃、草の中にありそうもない奇妙な塊を発見した。
持ち上げて顔に近づけるが、木々の影に薄い日の光は遮られ、細部までわからない。
手の中に握れる大きさの堅い石を手に、家に帰った。
火を灯し、その前で回してみる。
不恰好ながら、球を縦に引き伸ばしたような形に削られている。
よほど堅かったのか、全体的に滑らかではなく、雑な削り方だ。
艶を帯びた灰色の塊だった。

これだ、と直感した。











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