Silent History 52





丸い窓から、雲が流れていくのを眺めていた。
柔らかな寝台の上で、シーツを体に巻きつけたまま座っていた。
夜の海は不思議だ。
夜の雲は、暗闇に淡く浮かび上がる。
すべてを引き込んでしまいそうに、恐ろしい。
深く、どこまでも果てしない。
水平線上には邪魔をする物など何もない。
灯りもなく、月の光だけが柔らかく海原を照らす。

新しいものに触れるたびに、今自分が違う世界にいるのだと気付かされる。
繋がっている同一空間なのに、知らなかった新しい世界。
不思議な感覚だ。
不安、恐れ。
でもどこかで、何かを求めているような甘い期待。
好奇心。
新しい世界に触れるたびに、自分の中の思いや感じ方が広がっていく。
自分の持っている、視野が広がっていく。
自分が変化していく。
だから人は旅をするのだろうか。
新しい、まだ見ぬ何かを求めて。
その中から生まれ出る、個を求めて。


複雑で入り混じった感情の中、それでも一人ではないと感じるのは、アレスとタリスがいるからだ。
支えられている、そう思い安心する一方、このままではだめだと心の中で戒める。
子鳥は巣を離れ、自らの羽で羽ばたかねば死んでしまう。

包まったシーツの隙間から手を伸ばし、指先を厚いガラス窓に付けた。
冷たい感触が皮膚を通して流れてくる。

波は穏やかだ。
表に出てみようと思ったのは、月と海がきれいだったからだ。
引き込まれそうな恐ろしさと美しさ。
海が女性に重ねあわされるのも、何となく分かる気がした。




肩から巻いていたシーツの抜け殻を残して、上着を代わりに肩からかけた。
部屋の扉を鳴かないように閉じると、足音を忍ばせアレスの部屋の前を通り過ぎた。
物音は聞こえない。

更に進んでタリスの船室の横を通過したが、中は静かだった。
夜も更けている。
緊急事態が起こらない限り、夜勤の船員以外誰も起きてこないだろう。
木が白く塗装された甲板への階段を、手摺を握って上って行った。
体を押し付けるようにして重い扉を押し開くと、甲板の床の向こうには星空の幕が張られていた。
人の手で作られた明かりのほとんど無い世界は、息を飲むほどに魅せられる。
後ろでに扉に手をかけ、首を反らせて立ち竦んでいた。
無数の星の輝きが、微かな瞬きさえ見て取れるほどに強く光を放っている。

「星って、こんなに光るものなんだ」
初めて星を見たわけでもないのに、言葉が継げなかった。

「人間の力って、恐いな」
こんな清浄で強い光を、打ち消してしまえる光を生み出している。

「でもおれたちは、その力なしでは生きられない」



「だが、それが人間だ。弱くて、常に何かを恐れて。だから守ろうと力を欲する」
透き通った、滑らかな声だ。
風のように流れ込む。

「だから今はただ、美しいものは愛でればいいんだ。理由なんて後で考えればいい」
声がした、折り畳まれている帆柱の下で、人影が動く。

「朝には早すぎる」
聞きなれた声だったので、驚くこともない。
ラナーンは帆柱を見上げた。

「お互い様だろう?」
船内への扉の上に、タリスが腰を下ろしている。
ラナーンが体ごと彼女のほうを向いたときには、タリスの体は軽やかに宙を舞い、甲板へと飛び降りていた。
驚くべき身体能力の高さに拍手を送る前に、何事も無かったかのように綺麗に着地してラナーンに近づいてくる。

「寝付けないのか? この船の寝台は、体に合わなかったか?」
「そういうわけじゃないよ。目が覚めて、窓からの海がきれいだったから」
「まあ、そうだな。こうして夜の海、眺めることなんてそうなかったから」
甲板の板を鳴らして、後ろで手を組んだタリスがラナーンの横に並んだ。

「タリス」
船が切る波の音が、かすかな動力音に混じる。
悩み多き青少年を白い月が照らす。

「レンがいなくて、不安じゃないか?」
不安でないはずがない。
寂しいに違いない。

「私たちの絆は、離れているからといって切れたりはしない」
時を重ねて紡いできた信頼の糸は、距離を置いても途切れはしない。

「約束が、私たちを繋いでいる」
「約束?」
「そう、約束だ」
それは、何?
聞きかけて開いたラナーンの柔らかい唇を、タリスの白い指がそっと押さえた。

「約束は二人だけのもの。ラナーンといえど、教えられないな」
「じゃあ、聞かないでおく」
タリスに横顔を向けて、流れる海の方へ欄干を挟んで両腕を垂らした。

「素直で聞き分けのいいラナーンは大好きだ」
「ところで、レンに何の仕事を預けてきたんだ?」
ラナーンの問いで、不意を打たれたタリスの顔が驚きに崩れる。

「妙なところで勘がいいな」
「しばらく一緒にいて、タリスを見てたら分かるよ。何となく」
「戦艦を造るんだ。ラフィエルタ級の超高速戦艦を」
「ラフィエルタって、あれは大河運行用の客船じゃないのか?」
港と首都とを繋ぐ、人を運ぶための船として機能していた。
確かに、恐ろしい速度で運河を突っ切って走るが、民間人の脚となっていた。
それを今、なぜ軍事転用する必要があるのか。

「いきなり戦艦って。いったいどこと戦うつもりだ」
ファラトネスと近隣諸国との関係に問題は見当たらない。
ファラトネスもデュラーンも王を数代継いできたが、その中でも現在は摩擦の起こらない穏やかな時代だ。
さしあたっての脅威は見当たらない。

「ラフィエルタを含め、戦艦三隻。レンに託した仕事だ」
「出発まで忙しく執務室に篭ってた理由が、それなのか」
「世界は変わり始めている。私やラナーンを巻き込んで」
「意味が、分からない」
「分かるさ。そのうちにな」
タリスが大きく伸びをして、甲板の中央まで歩み出た。
彼女は何を知り、そしてラナーンは何を知らないのだろう。
天を仰ぐ顔と反らせた首が、磁器の人形のように冷たく月光を受けている。


「さて、つかの間の船上生活だ。陸に上がったら、贅沢なんてできなくなる」
優雅に金を尽くして休暇を楽しむための旅ではないことは確かだ。

「ゆっくり休んで、たっぷり食べて、今この瞬間を堪能することだ」
「ちょっと、タリス。軍備の理由、まだ聞いてない」
「寝るぞ、ラナーン。夜更かししてると、うるさい保護者に怒られる」
腕を車輪のように回して、今から走りにでも行きそうな勢いのまま、船内への扉に向って闊歩している。

「何か勘違いしてないか?」
「何を」
鼻から息を吐いて、目尻の上がった大きな青い目がこちらに向いた。

「アレスは友だち」
「そうかな」
星と月しかない空を見上げて、二秒ほど考え込んだ後、また振り返った。

「対して変わらんだろう」
何を言ってもだめだ。
タリスには敵わない。
それ以上肯定も否定もしないで、タリスの隣に並んだ。
アレスなら、それでも何かしら反論しただろう。

「寝るぞ寝るぞ」
真夜中に不似合いなほど元気なタリスの背中を追いかけて、甲板を後にした。




しかし、なぜタリスは起きていたのか。
柔らかな布団に身を沈めて丸まってから、まどろみのなか思いついた。

感傷にでも浸っていたのか。
レンや家族と別れて、だろうか。

「やっぱり、タリスだっておれと変わらない」
最後の言葉は、寝息に溶けていった。








「陸だ!」
タリスが舞踏でもするかのように、軽い歩調で助走をつけると、船の欄干に飛びついた。
目を細めてようやく確認できる、淡い線を長い爪でなぞる。

「久しぶりな気がするな」
「あれ?」
「どうした、ラナーン」
欄干に身を寄せる二人の姿を、保護者よろしくアレスが見守る。

「よく見えないけど、何か」
ラナーンが顎を突き出した方角にタリスも目を凝らす。

「点」
朧げに見える黒点を追って、ラナーンは上半身を欄干の上に乗り出した。

「危ない」
タリスが叫び、ラナーンの肩を引き戻す前にアレスが前に傾くラナーンの服の背中を掴んだ。

「はしゃぐのもいいが、落ち着け。二人とも、子どもじゃないんだから」
渋々、欄干から離れた。
それで陸地到着まで大人しく座るなり、船内を歩くなりして静かにしているかと思えば、タリスがまた提案を始めた。

「展望室。いや、操舵室に行こう」
言い終わらないうちに、タリスが走り出している。
広い船内を駆け抜け、迷うことなく操舵室の扉までやってくると船員を説得して中に入れさせてもらった。




「もうあんなに近づいている。いったい何だあの船は」
タリスが窓の向こうを指差して、副船長に詰め寄った。

「ご心配なく。沿岸警備船です。こちらに要人が乗船していると本国から情報が入ったのでしょう」
「なぜ? 私は何も、誰にも言っていない。エストラ姉様を心配させたくはないというのに」
「その意志も、彼らは汲み取っているはずです。どうやら、我々の船を先導してくれるようです」


オペレーターが椅子の背から顔を出した。

「船長、沿岸警備船より入電。ファラトネス王国フェリウス様よりご伝言とのこと」
「読み上げろ」
近づいてくる陸地の線に、それまで黙って目を向けていた中年の船長が口を開いた。

「気が済んだら帰って来い、だそうです」
オペレーターが明確な発音で一文を告げた。

やがて王の座を継承する、長女フェリウス。
王としてのラフィエルタ王の気質をも継いでいる。

「フェリウス姉様らしいな」
タリスは腰に手を当てて、先行するリヒテル船にフェリウスを映し見て苦笑した。
沿岸警備船は、ファラトネスからの船を、正面の港ではなく少し離れた場所に着かせるらしい。


「リヒテル。エストラ姉様の国。久しぶりだ」











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