Silent History 47





時の流れは、目に見えない小さな変化の連続でできている。
変革の瞬間は、気付いたその時ではなく、もっとずっと前に始まっていたのかもしれない。

微細な変化を繰り返すその時間は、絶えず上書きされていく。
まるで、細胞の代謝のように。
生きている人間のように。






船が背を向け、風を切り、岩陰に消えるまでタリス・エメラルダ・リスティール・ファラトンは岩の上で船を見送っていた。
風と波に抉り取られた足場の悪い岩の上で、両足を開き仁王立ちだった。
形の整った長い足が服の裾から惜しげもなく光に晒されている。

艶かしく見えないのは、それが戦女神の如く勇ましさすら感じるほど引き締まっていたからだ。
母親であるファラトネスの王、ラウティファータが物腰柔らかで包容力溢れるのに対し、彼女は気迫で相手を飲み込む。
ラモアでの獣(ビースト)の一件で、タリスの精神は深淵に突き落とされた。
無力さを悟り、同時に余りに無知であったことを知った。

それでも彼女は顔を上げ、再び立ち上がった。
彼女が強かったからだろうか。


いや、違う。
ラナーンは首を横に振った。


強いとか、弱いとかじゃない。
彼は、岩の上で海からの風にも身を揺らがせることのない、幼馴染の姫君を見上げていた。

何かと戦わなければ、消えてしまうからだ。
守れない無力さであったり、先の見えない絶望、選んできた道への後悔、諦め。

弱いままだったら、守りたいものも守れない。
何もできない、できるはずがないと閉じこもっていては、大切なものは自分の手をすり抜けて消えてしまう。


タリスは、大切なものを守りたいから立ち上がった。
母と姉を守りたい。
レンを守りたい。
誰も死なせたくはない。

それが、戦う理由だ。
血を流すだけが、戦いじゃない。

理由を見つけた彼女は、強く、美しかった。




「寂しくないわけじゃない」
上から声がラナーンへ降ってくる。
ラナーンの視線から、問いを読み取ったかのようだった。

「ずっと会えなくなるわけじゃない。一年、二年、もっと。どれ程長くなるか分からないけどな」
隣国デュラーン領内、離島イェリアスにある研究施設へアリューシア・ルーファを見送った。
本人も、いつまたファラトネスに帰ってこられるのか分からないまま旅立った。

「私もアリューシアも生きているんだ。いつだって、会おうとさえ思えば、また会える」
いつまでも別れの悲しさや再開の喜びを堪能していられるほど、情勢は穏やかではなかった。

「こちらが獣(ビースト)の発生条件や生態が掴みきれるまで、森が奴らを抱え込んでいるといいが」
有効な獣(ビースト)への対抗手段を、アリューシアや研究者たちが編み出すのが先か。
それとも、また凶暴な獣(ビースト)が人を殲滅する日が先か。

「どちらにしろ、時間はないわけだ」



タリスが上半身を斜め下、後方へ捻る。
軽やかな身のこなしで、ラナーンの三倍は軽くある大きさの岩を飛び降りた。
浜辺の細かい白の砂がタリスの足に跳ね上がっても、気にも留めない。
華麗に着地を決めると、真っ直ぐに背を伸ばした。

「ラナーン、ちょっと付き合ってくれるか」
足が埋もれ、歩きにくい砂地を大股でラナーンに近づいた。

「どこに?」
タリスは答える前に、ラナーンの左上腕を鷲掴みにした。

「アレス! お前の王子様、拝借するぞ。レン、先に城へ帰っていてくれ」
タリスに引きずられ、その姿は罪人の連行に近いものがあった。
それに気付いたのか、タリスは一瞬立ち止まり、今度はラナーンの左手を取った。

驚いたのは、ラナーンだ。
手を握る。
一緒に歩く。
馴染みのない行為に、恥ずかしいような、手を振り払いたいような、変な気分だった。






アレスは二人に声をかける隙もないまま、小さく見えるラナーンとタリスの背を見つめていた。
剣ではタリスに勝てたとしても、その他では惨敗だ。
すべてが彼女のペースで進む。
我侭で強引であるが、ラナーンのことを大切に思っている。
国と民、家族を愛している。
そんなタリスだからこそ、レンも側に居続けることを誓った。
タリスがいれば、ラナーンは安全だ。
無条件の安心があった。

砂と岩の向こうに灰色の石造りの埠頭が広がる。
埠頭から出航した船は、岩でできた自然の防波堤を抜けて外海に出る。

タリスとラナーンは、アリューシアと姉妹の三女アルスメラの二人を送り出した埠頭に戻っていた。
砂地を進めない車は、そこで待機していた。
足を取られる砂地を歩いて岩場まで行き、行った分を戻らなくてはならなくなるが、タリスは苦にしていないようだった。
大切な友人の見送りを、車に乗り込んだ護衛の兵に邪魔されるのが嫌だったのだろう。

レンの苦労を思わずにはいられない。
城を抜け出し一人で街に出る。
獣(ビースト)を見たいと戦場について行く。
獣(ビースト)のイーヴァーを城に連れ込んだときなど、倒れる思いだったはずだ。
大切な姫君が、危険な場所に踏み込む。
考えただけで身震いがする。

幸い、デュラーンの令息にはそこまで無茶をする気質はない。
まるで外界から隔絶された環境で育った、温室の花だ。
だからこそ、こちらとしても違った心配事を抱えることになるのだが。


獣(ビースト)の血飛沫を浴びたときのラナーンの顔が目に焼きついて離れない。
あんな目に、合わせるべきではなかった。
体に傷を負わせることは、避けるべきだった。
傷は浅く、跡が残ることはなかったが、いつまた同じ目に合うかわからない。

死という言葉すら側にほとんどなかった子どもが、いきなり現実の死が目の前に現れた。
怖れるなというほうが無理な話かもしれない。


掟だから。


成人を迎えるまでは、公になってはならない。
加えて、兄に次代国王の座を押し付けるような形になった、その重荷がラナーンの行動を制約した。
行動だけではない。
感情すら。

守るべきものだから、閉じ込めて。
しかし、内から徐々にラナーンは崩壊していく。
このまま城にいたら。
あのまま城に残ったら。

ラナーンが外に出ると言ったとき、チャンスだと思った。
守れる自信があった。
ラナーンの側にいることで、肉体的にも精神的にも、守ってやれると思っていた。
だが、それは驕りだと気付いた。

「側にいても、見守ってやることしか、俺にはできないなんて」



レンがアレスを一瞥した。

「アレス。私たちも戻るぞ」
アレスに背を向け、埠頭へと歩き始めている。
主以外には冷たい男だ。








ラナーンとタリスが車に乗り込むと、座席につく間もなくタリスが運転席に顔を突き出した。
二言、三言言葉を交わすと、ラナーンが座る座席の向いに腰を下ろした。

「レンは、連れてこなくてよかったのか?」
「ラナーン、そんなにあいつが気に入ったのか」
「そうじゃなくて」
分かっている、とタリスが片手を振って制止した。

「レンは私のだ。ラナーンといえど一欠けらもやれない。残念ながら、な」
「貰ったところで困るけど」
「うるさい従者がもう一人増えることになるからな」
タリスが拳を口に当て、笑いを押し殺していた。

「どこに行くのか聞いてない。聞く権利はあるだろう? 無理矢理連れてこられたんだから」
問答無用の連行だった。

「ちょっと受け取りたいものがあったんだ」
「必要なものなら、城で揃うんじゃ」
「ないんだ」

ファラトネス最大の貿易港、ファラトル。
他国への航路が幾つも確保されている。

ラナーンとアレスが国から渡ってきた港もファラトルだった。
先ほどアルスメラとアリューシアがファラトネスを離れたのはジルフェ。
ジルフェで有名なのは、ファラトネス城下まで伸びる大河、それを駆け抜ける高速艇ラフィエルタだ。
かの舞姫の名を戴いた高速艇の始発点である一方、デュラーンへの便もここから出ている。

ファラトルにはその本数は劣り、専ら不定期便として使われる港ではあるが、研究施設のあるイェリアス島にはこのジルフェが近い。



タリス一行は、ファラトネス城から高速艇ラフィエルタでジルフェまでやって来た。
ジルフェ内の移動手段で車を使いはしたが、まさかそのまま外にでるとは、ラナーンは想像していなかった。

車はジルフェの南門から表に出た。
そのまま真っ直ぐ南下したように思うが、ラナーンには地理感はない。
確かな方角は掴みきれなかった。

「このまま一時間ほど南下すると、スレイスという町がある。小さな町だ」
知っているか? とタリスの青い目が聞いた。

「半島の中央に山がある。デュラーンのクレアノール山脈にはとても及ばない、低い山だけどな」
ファラトネスにある無数の町や村をすべて把握しているわけではない。
だが、ジルフェの南西に伸びる半島と、中央に腰を据えている山の存在は知っていた。

「その山裾にスレイスはある」
「それで?」
「そこに行く。私が受け取りたいもの。それは、今は内緒」
「どうして」
ラナーンの眉が、不満げに引き寄せられる。

「そこが肝心なのに」
「到着までの一時間、想像して暇が潰せるだろう?」
「暇潰しができるほど、暇にならないと思うけどね。タリスと一緒だと」
「うるさいっていう意味か?」
タリスが指先でラナーンの鼻を小さく弾いた。
すぐに引っ込められようとするタリスの手を、ラナーンが引きとめた。
絡ませた五本の指を、タリスの手のひらから手首に指を滑らせていく。

「やっぱり」
目を軽く伏せて、細くため息をついた。

「痩せた。ラモアの一件以来」
「そう落ち込んではいない。あの時は、ちょっと辛かったけど。でも私は、私の肉親を失ってはいないから」
惨殺された兵士たち。
本当に辛いのは、彼らと繋がりの深い家族や友人たちだ。
事後の処理は、レンを始めとした軍部が行った。

事後の処理。
そう、ことは終わった。
一応は処理済の事件だ。
しかし、このままでいいはずはない。
森から現れる獣(ビースト)の正体を突き止めるまで、忘れ去ってはならない。
過去のものとするには早過ぎる。






だとしたら、私たちはどうだというのです。

互いに理解し合えているでしょうか。

誰かを傷つけることなく、血を流させることなく。






「レンは、私に言ったんだ」
獣(ビースト)を連れ帰るだけでなく、城で住まわせた。
常軌を逸している。
人を喰うかもしれない。
大人しく見えて、いつ暴れだすとも分からない。
そんな凶悪な生物を、馴れさせられるはずがない。

周囲の感情を理解できないほど、タリスは愚かでも幼くもなかった。
しかし、獣(ビースト)を知りたいと思った。
この機会を逃すと、その存在は謎のままだ。
ただ、殺し尽くす対象、敵のままとなる。

レンはタリスに言った。


「人間と獣(ビースト)は、理解し合えるかもしれない、と」
「だって、獣(ビースト)は。人を、殺して」
「でもイーヴァーは違う。でも、あれは確かに獣(ビースト)だ。だとしたら、なぜ?」
分からない。
問われたラナーンだけではない。
みんな探している。
ファラトネスも、デュラーンも。
アリューシアだって、答えを探すためにデュラーンに旅立った。

「知らない。分からない」
「人間と獣(ビースト)は、似ている。言葉の壁はあったとしても、イーヴァーだって私の意思は理解できるんだ」
あの、銀の獣。
ラナーンがファラトネスの庭を散歩していたときもそうだ。
側にいたイーヴァーが空気のように感じた。
温かで、柔らかい。

「人間だって殺す。残虐なことをする。それが人であっても、なかったとしても」
「同じように、獣(ビースト)も人間にとって敵にならないものもあるというのか」
「可能性を探すんだ。そして、理由を」

タリスは少し細くなった自分の手首を片方の手で握り締め、窓枠に区切られた流れる風景に顔を向けた。



タリスはいろいろと、考え過ぎるように思う。
他人の気持ち、周りの反応。
レンが衝撃吸収剤の役割を果たしているが、受け止めきれない周囲の反応や期待に応えようとしているように思える。
ラナーンの目、レンの目、アレスの目、そして彼女の姉姫たちの目を通しても。
それに。

ラナーンは膝の上で手を組み合わせ、視線を落とした。
言う資格はない。
口には出せない。
しかし感じる。

タリスは体を酷使し過ぎる。
己を壊してしまうほどに。











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