Silent History 46





危うくアリューシア・ルーファの強烈な頭突きを受けるところだった。
ラナーンは背を伸ばして寸でのところでそれを回避する。
鼻先で風を感じた。

「反射神経、思ったより鋭いのね」
体を起こしきって、垂れた横髪の簾を通してアリューシアがラナーンを覗き込んだ。
いつもは一つに結われている髪は、今日はまとめられず肩の上を流れ落ちている。

座れば、とでも言うように、アリューシアは自分の隣の芝生を平手で軽く叩いた。
断る理由もないので、ラナーンは黙って青々と茂る柔らかな草の上に腰を下ろす。
二人の足元でイーヴァーが賢しい目をこちらに向けながら蹲る。


「ずいぶんと懐かれたこと」
「タリスが遊んでくれないから、暇そうなおれの相手をしてくれてるんだろう」
それとも、子守か何かのつもりかもしれないが、獣(ビースト)の考えていることは分からない。

「このまま、ファラトネスにいるつもりではないのでしょう」
非難ではない。
皮肉でもなかった。
ラナーンが次に動こうとしている心情を読み取るかのように、温もりすら感じる柔らかい口調だった。
彼女も、独特な空気をまとう。
タリスのようなガラスのような透き通った鋭さはなく、かといって鈍くはない。
擦弦楽器の音色に似ている。
温かいが、胸の奥に響く。
ラナーンには兄のユリオスしか兄弟はいなかったが、いたとすれば姉のような感覚だっただろう。

「アリューシアは、明日だな」
「本当は、もう少し落ち着いてからってことだったんだけどね」
デュラーンでは王子が彼の従者と共に蒸発した。
第一位の王位継承者ではなかったが、事実はそれだけで十分に国が沸き立つ。
だがファラトネスにその一大ニュースは流れてこない。
デュラーンの中枢が情報操作を行ってるとしか考えられない。
その程度ならばアリューシアにも容易に想像がつく。

「でも状況がそれを許さなかった」
ファラトネスはデュラーンの国内事情を慮る余裕がなくなってしまった。
止められなかった獣(ビースト)。
彼らの気配をかき消してしまった大森林を覆う霧。

「より凶暴な獣(ビースト)が出現し、魔石(ラピス)が効かなくなった今、一刻も早く原因の追究と対処法を見出さなくてはならない」
これ以上、軍人と民間人に犠牲者を出させるわけにはいかない。
軍人もまた人間だ。
一人一つの命が宿っている。
盾にして平和になる世界など、あっていいはずはない。

「だからこそデュラーンの国内情勢を見極め、協力の要請へと繋いでいきたいというのが、ファラトネス王の意思なのよ」
アリューシアはデュラーンの研究施設に、ファラトネスから派遣された研究員として参加する。
同じ船で入国したアルスメラは国内を回り、デュラーンの情勢を探る。
それと同時に、ファラトネスの獣(ビースト)問題への協力要請への足場を作る。


「私には、世界で何が起ころうとしているのか分からない」
ラナーンは答えられなかった。
それはアリューシアの独り言かもしれなかったが、ラナーンもまた同感だった。
確かに、何かが変わり始めている。
原因が何か、これからどう変化していくのか。
過去も未来も見えてはこないが、着実に今までとは違う世界に変容しようとしている。

「かつて、地表は魔によって血に覆われた。目の前で起こっている事実は伝説を連想させる」
魔は獣(ビースト)に置き換わり、歴史は繰り返される。
先人たちが過去と現在の類似点を見出し、漏らしたその言葉が示す通りなのか。



石化した歴史。
どれが真実とも分からない過去。
伝説。


人は魔という異質な存在を恐れた。
魔は人を喰らい、血で地を濡らし、絶望をもたらす。
一条の光射し、ガルファードと名を持つ英雄によって、暗黒の時代は幕を下ろした。

後にそれは封魔の歴史として語り継がれることになる。



過去の事実として歴史書に描かれる封魔の歴史。
魔の存在にラナーンは疑問符を投げかける。
今、魔という生き物は欠片も存在しない。

魔と呼ばれる曖昧なカタチは存在そのものが怪しい。
人は恐怖の対象を擬人化する。
魔もまた、過去の人々の恐怖の象徴なのかもしれない。




「見えていないものが余りに多いのに気付かされる」
自分のことだって分かっていない。

「私はね、はっきりさせたいの。獣(ビースト)の存在。霧の存在。それが私自身が何なのかを見極めることに繋がる気がする」
アリューシアの瞳の先には、眠りに落ちかけているイーヴァーが横たわっていた。
朝、城の侍女たちに櫛を通されたばかりの銀毛は、微風で柔らかく膨らんでいる。

「最も、最先端の技術と知識の集積、イェリアス島の研究施設に席を置く研究員たちに並ぶだけの物を携えてはいないけど」
アリューシアが揃えた両脚を抱え込む。
不安なのだろう。
見知らぬ土地だ。
村の周囲しかほとんど知らない少女だ。

「でも、私が生きてきたこと。過ごしてきた時間。小さな世界だったけど、無意味じゃないわ」
それだけは、誇れる。
卑小なもの、取るに足らないものなんて、言わせはしない。

「タリスみたいに飛び回って、大活躍はしてなくとも。私には私のできることがあるはずだから」

ラナーンが脚を伸ばし、両手を地面に付き上半身を支えた。
頭上には浅く茂る木の葉が、程よく光を透過させている。
抜けた光が顔を斑に、青く染めるのではないかと思うほど、鮮やかに輝く。

思い出せば断末魔の叫び、血生臭さが鮮明に浮かび上がってくる。
大森林での獣(ビースト)との血みどろの戦闘。
それが起こったと同じ国で、今穏やかな時間が流れている。


「それにきっと、守りたいものは同じ」
タリスとアリューシア。
まったく違う性格の二人。
違うからこそ、惹かれあうものかもしれない。

「友人。それに家族」
周りの者たち。
タリスも母や姉たち、大切なものたちを守りたい。
当たり前のことかもしれないが、獣(ビースト)の脅威から守りたい。

「あなたは何と戦うの。なぜ、獣(ビースト)を追って海を越えたの?」
ラナーンは口を閉ざしたままだった。
自分のことや、理由について考えるのは苦手だ。
分からないまま、深みに沈みこんでいく。

「あなたは何も知らない、まだ子どもなのね」
アリューシアがラナーンの手をすくい取る。
剣で手のひらの一部が硬くなっている。
しかし、持ち上げた手に続く腕は薄く筋肉がついているだけだ。

「人って、きっと」
ラナーンの手のひらとアリューシア手のひらを重ね合わせ、目の前まで上げた。

「他人と触れ合うことで、自分が見えるのよ。少しずつ、自分が何者か理解していくの」
重ね合わせた境界からは、自分とは違う体温が流れ込んでくる。

「他人を見て、自分を見る。鏡のようなものね」
手は、アリューシアのそれとくっついたように離れない。

「でも、あなたはずっとお城の中にいて、他人を知らない。痛みも、温もりも」
「痛み」
「あなたがこれから感じていくことよ」
アリューシアがラナーンから手を離した。
魔法がとけたように、力を失ったラナーンの右手は膝の上に落ちた。

「私も、世界を見るわ。旅して回ることはできないけれど、今までいた世界とは違う世界を」
故郷のデュラーン。
父であり王、ディラス王は息災だろうか。
兄のユリオスは。
従妹のエレーネは。
懐かしさがこみ上げると同時に、もう戻れない寂しさを噛み締めた。
それが、国を捨てるということだ。

「見送りに行く。船に乗るまで」
「ありがとう」




胎に子を宿したエストラが、その子の父となるリヒテル王の元に戻った。
彼の国では航海の安全を願うとき、風の神に祈るという。

ファラトネスから迎えられた、母となるエストラ。
彼女の母国では、願うとき海の水に宿る神に祈る。

遠い海から組み上げた水を、砂を清めて焼き上げられた壷に収める。
小さな壷を大切に絹で包み、河を遡ってファラトネス城まで運んでいく。
城中の小さな神殿で、神司たちによって祭祀が執り行われる。
王族が航海に出る際、成される儀式だ。
ファラトネスにも、リヒテル、デュラーン同様に神がいる。


レンは埠頭の端にある狭い階段を、壁伝いに下っていった。
干潮が始まり水面に埋まった階段の最後の一段で留まると、腰を屈めて手を伸ばした。
左手には白い壷が納まっている。
浮かんだ木切れや流れてきた細かいゴミを手のひらで払いのけ、手を海水に沈めた。
口を小さく開いた壷が泡を吹きながら、水を飲み込んでいく。

蓋を閉め、壷を傾けて水が漏れていないことを確かめてから、レンは立ち上がった。
下ってきた階段を行きよりも慎重に上っていくと、埠頭の地面からレンの頭が覗いた。



最後の一段に足をかけ、手にしていた壷を側にいた茶色の髪の従者に手渡す。
彼は白の布を両肩から下げている。
神司の一人だ。
簡易な祭祀姿の男は、受け取った壷の水滴を拭ってから懐から取り出した布に包み込んだ。


レンから離れた船の桟橋で、アルスメラとアリューシアがそれぞれの別れを惜しんでいた。
アルスメラは城での服を脱ぎ、淡い色で統一された裾の長い衣服に身を包んでいる。
装飾品もほとんど外され、横に控える侍女の風采と変わらない。
姉妹と母にしばらくの別れを告げる。

アリューシアは見送りに来た両親の手を握りながら微笑んでいた。
変化する環境に不安は付きまとうが、振り切らねば先に進めない。



埠頭に背を向け、アルスメラに続いて桟橋を渡ろうと踵を返したアリューシアにタリスが小さく言葉をかける。

「気をつけて」
一言だけだったが、アリューシアは微かに振り返り小さく首を縦に振った。
距離からすれば、今にも目に見えそうな近い島だ。
デュラーン本島とファラトネスの間に浮かぶ小島だが、ファラトネスから離れるというだけでアリューシアとの距離を深く感じる。











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