Silent History 35





タリスがこちらに向って手を大きく振っている。

「体、少しは乾いたか」
水面を震わせるような大きな声が、泉を伝ってラナーンに届いた。

もう、寒くはない。

タリスは泉の中央に、舟を浮かべていた。
ラナーンが言葉の代わりに、タリスから受け取った薄衣を手に絡ませて頭の上で振った。

タリスは満足して微笑むと、再び舟に寄りかかり、泉の下に目を落とした。
白く小さな水中花が、緑の葉眩しく揺れている。
程よい温かさのこの季節、こうして時間をたっぷりとって舟遊びに興じることを、タリスは好んでいた。
風に弛む水面、浮かぶ小舟は優しく揺られ、まどろむ時間が気持ちいい。




「こうして、母上も父上と一緒に舟に揺られていたのだろうな」
独り言か、それともフォーネへ伝えたかったのか。
おそらくそのどちらでもないのだろう。

フォーネは黙したまま、タリスの側に控えていた。

「父上のお顔を、覚えていないんだ。どのようなお声で話されていたのか、優しい方だったのだろうか」
物心付いたときには、すでに亡くなっていた。
死を理解し、悲しみが芽生えるには、タリスは幼すぎた。
父親がいない寂しさを埋めるほどに、母や姉たちの愛は溢れるほどタリスに注がれた。

「時折思う。もし父上がご健在だったとしたら、と」
タリスの指先は、水面で遊ぶ。

「母上と一緒に亭で、昼下がりの陽の光を、移ろう季節を、時間を宝物のように過ごしていたのではないかと」
母が愛した、父だ。
あの母が認めた、男性だ。
従い、寄り添って生きていこうと決めた、ファラトネスの王だ。

「大層お優しい方だったと伺っております」
古参の侍女から伝え聞いた話でしかないが。

「男女の別なく、また下々の者にまで気が行き届くお方だったとお聞きしています」
元来、ファラトネスでの女性の地位は高い。
それだけでなく、亡き王の妃への心配りは頭が下がるほどだ。

「そして格別、お妃であられたラウティファータ様へのお心遣いは、見ている者が羨望の
熱いため息を付くほどのものだったと」
執務の合間に、庭に手をかけているラウティファータの下へ馳せ、貴重な時間を過ごしていた光景は、しばしば侍女の間で噂となった。

泉に浮かぶようにして建つ、亭の中での一時。
手を取り合って散歩する中庭での二人。
時折交わされる、温かな視線と視線。
両親の思いやりを継いで生まれ育っていく、純粋無垢の子どもたち。


幸せだった。
これ以上にないほどに。

あれほど愛し、愛された夫婦があったものだろうか。
いかなるものが、彼らの愛を切り裂くことができようか。

恒久に続くと思われた時間。
だが、それは脆くも崩れ去った。



死という、残酷なたった一つのものにより。



「土の豊穣、風の流れ、水の潤、木々の繁生。それら愛する者を包み守るもの。先のファラトネス王はそれを大切に守って参りました」
大規模な開拓を許さず、人の営み、木々の営みを両立させるべき道を常に模索していた。
森を削れば水が淀む。
生物の輪を乱す。
それは人も、人でなきものも。

そして、今のファラトネスがある。

「すべては愛すべき国、民、何よりお妃や姫君たちの御為に」
威風堂々たる姿は、守るべきものが側にいたから。
先の王が崩御した後も、幼かったフォーネたちに語り継がれてきた偉人だ。

「守ろうとした民にそのような言葉を貰え、父上も喜んでいらっしゃるだろうな」
水中から手を引き上げて、タリスは蒼穹を振り仰いだ。
高い空に向って大きく伸びをする。

「そして愛娘も、こうしてご立派になり、さぞかしお喜びでしょうね」
「とんでもなくわがままで、突拍子なく、繋いだ鎖も切れてしまう娘でも、か?」
「あら、自覚があったのですか?」
「認めたくはなくても、周りにいろいろ口うるさく言われていればな」
小さな舟の上、タリスとフォーネ、二人で堪えきれない笑いを漏らしていた。

「高速艇、調子はいかがです?」
「順調だ。いずれは潮の上をも走るだろう」
その日は、そう遠くない。

「あのラフィエルタが」
「ああ。それに一隻だと寂しいだろう。姉妹を造ってやらなければ」
「このところ執務室へ篭っていらっしゃるのは、そのためだったのですね」
「ラフィエルタ。そうだ、あの子に礼を言わねばな」
「デュラーンのお二方も、ご満足いただけたようで」
フォーネが岸辺のラナーンとアレスに視線を流した。
光合成中の二人は、何とも穏やかな顔をしていた。

「大成功だ。だからこそ、そうだな。日が傾いたら会いに行こう」
「レンもご一緒に?」
「いや、置いていく」
「まあ、かわいそう」
「いたら、護衛をつけるだの、顔を隠していけだの、あっちの道は危ないだの煩くてしょうがない」
「報われませんね。レンも」
すべてはタリスの身を案じてのこと。
それを分からないタリスではないことを、フォーネは理解している。

「フォーネのご家族にご連絡しておきますね」
「いらない」
「でも」
「突然、だからいいんだろう? びっくりさせよう。ああ、考えただけでも胸が躍る」





「タリス様!」
泉の空気を、一本の声が切り裂いた。

「どうした」
ただならぬ声に、タリスは勢いよく声の元へ振り向いた。
フォーネが見つめる横顔には、先ほどの和やかさは消し飛び、仕事中のような厳しいタリスに戻っている。

「森が」
言葉にならないエメルの叫び。
すぐ隣には、他の従者が肩で息をしながら地面に崩れている。

「フォーネ」
鋭い声が命じる前に、フォーネは櫂を手に舟を漕ぎ、岸へ向っていた。
デュラーンからの客人には、何が起こっているのかただエメルを見つめるばかりだ。

「二人とも、落ち着け」
隣の従者が息荒く、顔を上げた。
エメルも潤んだ目をタリスに持ち上げる。

「東の、森が」
「森から、獣(ビースト)が」
唾を飲み込み、己の手を握り締めながら震える唇でエメルが伝えた。

「それで」
獣(ビースト)の出現は今に始まったことではない。

「ラモアの街に接近していると」
「数は」
答えたのは、タリスたちを探して駆けて来た少年の従者の方だった。

「現在の報告では、十二体」
「状況は」
「ラモアの警備隊が森の表層部で脚を止めていますが」
「レンはどこだ」
「ラモアへの応援部隊を組織しています。出立は二十分後」
聞くが早いか、タリスは振り向きもせず駆け出した。
その場にいた全員が、彼女の後に続く。
僅か後ろに続くエメルへ速度を落とすことなく命じた。

「私はレンの元へ行く。私の服を城門へ」
「承知しました」
城の壁が見えてくると、エメルは左方向へ一人外れて行った。

「フォーネは私の剣を」
「はい」
「ラナーンとアレスは部屋に戻っておけ」
「タリスは、行くんだな」
「ああ」
兵は城門に集まりつつある。
タリスもそこへ行くつもりだ。

「行ってどうする」
アレスの声が、タリスの脚を引きとめた。

「行って、何かできるのか。船を造ることができる。その権力があったとしても、獣(ビースト)をどうできるわけではない」
兵を動かすのならば、指揮官に任せていればいいことだ。
わざわざ王の娘が出向く必要はない。

「確かに、私に力はない」
万能ではない。
できることと、できないことがある。
理解している。

「でも、獣(ビースト)なんだ。私の、イーヴァーと同じ」
黙って城で待っているわけにはいかなかった。

「だから、私は行かなければ」
止まった脚を、また動かし走り出した。
デュラーンの二人は立ち止まったままだ。


「アレス」
ラナーンが友人の腕を押さえる。

「おれたちも行こう」
なぜ。
その理由は、ラナーンの黒い瞳が語っていた。
獣(ビースト)を知らなければ。

揺るがない意志。
アレスが危険だと止めても、振り切るだろう。

「分かった」
そうだ。
どんなに危険な場所であろうと。
彼を守らねばならない。
アレスが決めたことだ。

「ありがとう」
アレスに背を押され、ラナーンはタリスを追って駆け出した。






「レン!」
呼び止められ、振り向いた顔が堅く締まる。
眉間に皺が寄る。

「なぜここに。お戻りください」
「嫌だ」
「わがままを聞いている時間も、状況でもないのです」
「危険だということは分かる。だが、私も行かなければ」
「行って何をするのですか」
アレスと同じだ。

「見届ける」
燃えるように熱い意志だが、レンには届かない。

「私には、あなたをお守りする責任がある」
「自分の身は自分で守れる」
「甘いのです、あなたは」
実際の戦場を踏んだことがない。
見たこともない。
平和だった。
ファラトネスは王に恵まれ、隣国にも恵まれていた。
時折起こる、獣(ビースト)との摩擦。
それすら、タリスの目に触れさせることはなかった。

「行くんだ。獣(ビースト)なのだろう」
「だからです。言葉の通じない相手だ」
「それでも私は」


突如、タリスの左手が頭上に上がった。
それを後ろから離れて見ていたラナーンには、なぜタリスの腕が持ち上がったのか瞬時には分からなかった。

レンが、それまで見たことのない恐ろしい形相でタリスを見下ろしていた。
タリスの左腕が、レンの手で捻り上げられている。

「レン」
驚愕した顔つきで、タリスが掠れて呻くような声で、レンの名を呼んだ。

「いい加減にしなさい。自分の立場を考えるんだ。あなたはファラトネス王の子。国の子だということを忘れるな」
腕を掴んだまま、タリスを投げた。
両脇にいた兵が、吹き飛んだタリスの背を受け止める。

「言葉が効かぬというのなら、力を以って止めてみせます」
タリスを受け止めた二人の兵に、そのまま連れて行くようにと伝える。

「レン!」
身を捩っても、掴まれた腕は離れない。
タリスを冷ややかに見下ろすと、踵を返し城門へ向う。

その背中を見て、タリスの火薬に火がついた。
喉が潰れるかと思うほどの叫ぶ。
タリスの気迫に押され、兵の力が緩んだ。
両腕を振る。
掴まれていた腕が外れた。



見たことのない、猛々しいタリスの姿。
光景を、呆然とラナーンとアレスは眺めていた。

その側を、何かが駆け抜ける。
白い、何か。


物凄い勢いですり抜けていったそれは、タリスの隣で滑るように急停止した。

「イーヴァー!」
鼻先をタリスの膝に摺り寄せ、聡明な目が物言いた気にタリスを見上げている。
タリスは、イーヴァーの言わんとすることを汲み取った。
尖った耳から背にかけて優しく撫でると、堂々たる足つきでレンの背中に歩み寄る。

「私は行く。イーヴァーとともに」
レンは振り向かない。
言葉を返さない。

「俺たちも、行かせてもらう」
アレスがすかさず、宣言した。



きつく目を閉ざす、レン。
ため息を飲み込んだ。

「まったく、あなたたちは」




「タリス様」
息を切らせたエメルが服を差し出した。
着ている薄絹ではない。
防御に優れた強く軽い糸で織られた衣服だ。

「お待たせいたしました」
フォーネが剣を差し出す。
タリス、そして預かっていたラナーンとアレスの剣だ。

「お二方もお召し換えを」
驚いて、ラナーンの目が少し見開く。

「行かれるのでしょう?」
流石だ。

「先ほどレイラが慌てて、イーヴァーが突然走り出したと」
レイラは、イーヴァー付きの侍女だ。

「気付いたんだ。同じ種が近くに迫っていると」






「行こう」
主導権は、いつの間にかタリスに移っている。

「分かりました。五分でご用意ください」
レンは隊の先頭に向った。











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