Silent History 34





穏やかな日差しの中、柔らかい絹の衣に包まれて、心地よい気分で夢と現実の境界を行きつ戻りつしていた。

まだ昼になるには少し早い。

舟が一艇、中庭の泉に浮いている。
木製の舟は暖気を孕み、体を寄せると温かく、舟の揺れも眠りを誘う。

ラナーンは片手を水面に浸し、右腕に小作りの顔を乗せていた。
周りには木々に小鳥が集い、小さく歌い始めている。

デュラーンでは舟遊びはしたことがなかった。
水の豊かな国ではあったが、沐浴をすることはあっても、舟を浮かべることはなかった。
ファラトネスは、造船技術においては諸国に対して群を抜き優れている。
そのせいだろうか。
ファラトネスに来ると、よくタリスに伴われて、そこかしこにある泉に舟を浮かべて過ごしていた。

舟にはエメルが同乗していた。
タリスの、あの子も連れて行けの一言での決定。
タリスの水遊びに何度も付き合ったことのあるエメルなので、舟遊びには適した人間だ。

だがタリスは、ただそれだけの理由で彼女を同行させたりする人間ではない。
エメルが多少なりともラナーンに好意的な感情を抱いていることを、早々に見抜いていた。
おもしろ半分どころか、七割でエメルを推したに違いない。

一方でラナーンはというと、エメルの仄かな好意に気付くこともなく、舟の上で長い睫毛を伏せて、揺れ動く水面を見つめている。



デュラーンから伴ってきた彼の従者アレスは 、木陰でそんな二人を眺めていた。
ファラトネスのもう一人の侍女、フォーネは浅瀬で足を水に入れながら、舟へ目を向けている。
彼女もまた、妹のようなエメルの様子を温かく見守っていた。


水の中で、流れに合わせて動いていたラナーンの指が止まった。
目は完全に閉ざされ、肩は寝息に微かに上下している。

エメルがそっと薄絹に触れても、まるで術をかけられたように目を開けようとしない。
横から顔を覗き込んでも、目蓋も振れない。
置いてきぼりにされて少し悔しいような、安心しきって眠っていることにくすぐったいような複雑な気持ちで、小さく微笑んだ。

エメルは舟の端に頬を寄せ、しばらくラナーンの寝顔を見ていた。
完全に眠りの底に沈んでしまったラナーンの隣で、エメルの視界の端に蔓で編んだ籠が映った。

舟の先の籠には、先ほどエメルが摘んだ花が入れられ提がっている。
舟をなるべく揺らさぬよう注意を払いながら、花籠を抱え込む。
小さな花を一本手に取ると、柔らかなラナーンの髪に差し入れた。
一本、また一本とラナーンを花で飾っていく。

エメルが岸辺に腰掛けているフォーネに手を振っている。
フォーネは小さく笑って、その意図を汲み取り、エメルの可愛らしい悪戯に付き合うことにした。
花籠を持って、岸の反対側に回る。
ラナーンとエメルが乗っている型と同じ舟の縄を解き、一人漕ぎ出るとエメルの側に舟を寄せた。
水面を泡立てることなく碇を下ろすと、ラナーン飾りに手を貸した。


アレスはその様子を微笑ましく見ながら、ラナーンの穏やかな眠りにつられてか、優しい眠りの縁にいた。








鳥の声は消えた。

気付けば、静寂だった。
水面を走るように伝わってきた、エメルとフォーネの笑い声も聞こえない。


深淵。


そこには、他に誰も見当たらない。

目の前の泉は、凍りついたように水面は波も立たない。

アレスは膝に手を当てて、ゆっくりと立ち上がった。
踏みしめる草の感触は生々しい。

泉の遥か向こうに、円亭が小さく浮いている。
ラナーンたちが舟遊びをしていた、アレスが見ていた情景と重なる。

泉の輪郭も、先ほど見ていたものと同じ。


舟は。
目の前にあった舟は泉の上にはない。

ラナーンは。
彼もまた、掻き消えていた。


泉の色は深く。
踏み入れたら決して抜け出せないだろう。

風の流れも、陽の揺らぎもなく、生けるものの息遣いはそこにはない。


「時は迫り」

気のせいかと思った。
水の沸き立つ音だと。

声は一方向からではない。
声そのものに包まれているように、アレスの周りから響いてくる。

「それ、は近い」

何かが、いる。
空気を敏感に察知して、アレスは刀の柄に手を掛けた。
息を潜め、動きを読もうと神経を尖らせる。


「ガルファード、あなたは」

泉の水が盛り上がった。
水滴を逆に見ているように、水球が水の糸を引き、中に持ち上がる。

「あなたは、どこに」

溶けた飴細工のように、水の球は人の形を成していく。

「ガルファードは、ここにはいない」
アレスは鞘を引き、徐に剣を抜いた。

「千五百年も前に、死んでいる」
世界中の魔を切り裂き、黒の竜王を闇に封じた。
その英雄もまた、人間だった。

剣先を泉の中央に向け、痛いほどに見据える。

「ガルファード」
「お前は、サロア神か。幻となって俺の前に現れて何とする」

水が模った女の指先は、亡きガルファードの姿を求める。
探るように、見えないもの手繰り寄せるように、透き通った指先はゆらゆらと揺れる。

「ガルファード」
そう、彼はいない。
人として、死んだのだ。

「ごめんなさい」
消えるような声で、形は崩れて、飛沫が飛散していく。

「闇は深く」
アレスは腕を体の横に落とし、消え行く様子を見届けていた。

「しかし、それももうすぐ」


水紋だけを残し、姿は風に流されるように空気に溶けた。
声も、聞こえない。
静寂の泉が戻る。
もう、誰もいない。


アレスは、抜き身のままの剣の柄を握り締める。

「これは、以前」
顔を伏せ、眉間に皺を刻んだ。

以前にも、聞いた声だ。
サロア神の。

だがあの時は、過去の言葉。
歴史書に刻まれた、昔の言葉。

今は、聞いた言葉は。
生きた、言葉だった。








甲高い悲鳴に、アレスは弾かれたように顔を上げた。
視線が声の場所に定まったときには、すでに駆け出していた。

同時に、大きな水音が泉に広がる。

「ラナーン様!」

エメルとフォーネが舟の端に寄りかかり、波立つ水面を見つめている。
水上には数え切れない花が、浮き沈みしていた。

その中央から浮上してきたラナーンが、ゆっくりと顔を出す。
アレスは、胸を撫で下ろした。
心配させるなと、水の中まで走り寄っていく前に、エメルの泣きそうな声で足を止められた。

「だいじょうぶ」
立ち泳ぎをしながら、ラナーンがエメルとフォーネに手を振った。



花飾りも完成に近づいた頃、ラナーンは目を覚ました。
頭に掛かる、軽い重み。
水面に映る自分のおぼろげなシルエットは、飾りで歪な形で揺らめいていた。
違和感で髪に手をやると、花が零れ落ちた。
驚いて、身を起こすとバランスを崩し、泉に落ちてしまった。



頭にまだ花びらをつけながら、岸辺を目指し泳いで来る。
エメルとフォーネも櫂を操り、ラナーンを追う。

「少し、驚いただけだったから」
岸で待ち受けていたアレスの招く手を取った。

「だいじょうぶ。心配ないよ」
水で幾分重くなった体を、アレスに支えられ真っ直ぐ伸ばした。

泳いできたラナーンは頭の先から足の先まで、すっかり濡れてしまっている。
ラナーンを受け止めたアレスも、服はしっかりと濡れている。
自分の上着を頭から被せて、滴る水を拭いながら、アレスは口元を緩めた。

その様子を、ラナーンは不思議そうに下から見上げている。


「お前と初めて会ったときを思い出した」
覚えているか。
目は優しげに見下ろす。
ラナーンの髪についた花びらを、指で摘み取った。

エメルとフォーネが舟を休ませ、二人の元に集まってきた。
アレスがラナーンを伴って座るのに倣い、二人の侍女も芝生の上に腰を下ろした。






草の陰から、か細い詰まるような声が聞こえた。
動物でも放し飼いにしているのだろうか。

アレスは、周囲を見回した。



ディラス王治める、デュラーン王国に来てから数ヶ月経つ。
王都の城に登ってからは、二週間目になる。

最初の一週間で一通り城の中を探索した。
外も見て回る程度には歩いてみたが、動物を放し飼いにしている様子はなかった。

穏やかな陽気に反して、二日前から城内の空気が肌を刺すように痛い。
理由は、すぐに知れた。
だが、アレスにはどうすることもできず、父に促されるまま広大な庭を散策することにした。


デュラーンは水の豊かな土地だ。
クレアノールの峰に浸透した雨水は、時間をかけて濾過され、麓の街々を潤す。

地下を静かに染み渡り、流れはデュラーンの中枢にまで届いていた。
城内にも、水路がいくつも通してある。
城の中にまで川を引き、個人の部屋にある地下の階段を下りれば、清らかな水が水路を通って絶えず流れているという。

その源の泉も、城の庭にはいくつもあった。
アレスの一番のお気に入りは、木陰にひっそりと広がる小さな泉だ。
誰にも見つかることなく、湧き上がったばかりの清らかな水に足を浸すことができる。


細い、弱々しい声はまだ聞こえてくる。

一体このような人目につかない場所で、何がいるというのだろう。
好奇心に駆られて、アレスは草を分け入った。
アレスの動く音に反応して、あちら側でも草を踏み分ける音がした。
引きつったような小さな鳴き声を上げて、駆け出す気配がする。

逃げられてしまったか。
残念に思ったその時、水の跳ねる音がした。

低木を回り込み、アレスは音のする方へ駆け寄った。
草の間には、生き物の姿はない。

どこに逃げたのだろう。
泉の中ほどへ、視線を滑らせた。

動物、ではない。

「子ども」
アレスも十分に子どもの域だったが、それ以上に幼い人影が泉の中で背中を見せている。
水浴びをしている風ではない。
服の裾は、水面で浮き広がっている。

胸まで水に浸り、小さな背を更に小さく丸め、顔を伏せている。

湧き出る水は冷たい。
このままでは、あの子は冷え切ってしまう。

「こっちへ」
アレスの声に、肩が跳ねた。
振り向くことなく、背中で拒絶している。

かといって、放っておくことはできない。
アレスは、服が濡れるのも構わず靴のまま水の中に入っていった。
近づいてくるアレスに、幼い子どもは逃げようと懸命に水を掻き分ける。

だが一回り大きなアレスに、あっさりと肩を捕らえられた。

まだ高い陽が水面に反射し、水に濡れた子どもの顔を照らし出す。
性別すら定まっていない、幼い顔が明らかになる。
伏せられた目、水滴を落とす髪、どちらも漆黒だった。

子どもながら、見入ってしまう。
肩を握りこんだまま、黒髪の子どもを見下ろしていた。

自分が固まってしまっていたのに気付いたのは、その子がアレスの手をすり抜け、再び泉の奥に逃げようとした時だった。

「行くな」
慌てて、細い手首を握る。

「そっちは深い」
泉の浅瀬は透き通っていたが、奥になるほど色は濃くなっている。
場所によっては、大人でも足が付かない深さの泉もあるとアレスの父は言っていた。

「だいじょうぶか」
抵抗する力もなく、その子はアレスに手を握られたままだった。
跳ね上がった水は顔だけでなく、髪まで雫が滴るほど濡らしていた。
アレスは、顔を覗き込んだ。

「ありがとう」
細い声で、子どもは告げた。

話せるんじゃないか。
アレスは微笑もうとしたが、目の前の様子が気に止まる。

「おまえ」
手のひらを、子どもの頬に当てて、よく見えるように顔を上向かせた。
子どもの視線が横に反れる。

冷え切って元気がないだけかと思っていた。
だが、違うようだ。

目が赤い。
泉の水とは違った、熱い水がアレスの親指を伝う。

「ごめん」
泣いていたんだ。
草陰で。
たった一人で。
嗚咽を押し殺し、ひっそりと。
そこに、アレスが無作法にも踏み込んだ。

「ごめんな」
小さな子を慰めることを、したことはなかった。
ずっと昔、親にしてもらった方法しか知らなかった。

アレスは冷たくなった小さな子の体を抱きしめた。
そのままそっと岸辺に運んでいく。


誰にも見られたくなかった。
だから息を潜めて、一人きりで泣いていた。
アレスにも泣き顔を見せたくなくて、泉に飛び込んだ。

陸の上に戻った、二人。
アレスはその子を抱きかかえたまま、草の上に座り込んだ。

しばらく、そのままでいた。
離れたら、顔を見てしまう。
離したら、きっと逃げてしまう。

腕の中に納まる強張った小さな体が、アレスの温もりで解れていくのが分かった。

長く引きずる衣の袖を白くなった手で、握りこんでいた。
初めて会ったアレスに対する緊張と、泣き顔を見られてしまった羞恥心が残っていたからだ。
だがそれも、アレスの温かさでゆっくりと溶かされていく。
袖口から手を放し、アレスの服を握り締めた。


声を上げて、泣いた。
アレスはただ、小さな子どもの濡れた髪と背を、黙ったまま優しく撫でることしかできなかった。



どれくらい時間が経ったのか、覚えていない。

子どもが泣きつかれて、ぼんやりとアレスに頭を預けていた頃、城の侍女が泉に現れた。
侍女が探しに来たのは、アレスではなく小さな子どもの方だった。

びしょ濡れになって寄り添う二人に、驚いて目を丸くしていた。
慌てて上着を二人の上にかけると、心配そうな目を子どもたちに向けながら城へ歩いて返った。

小さな、子ども。
侍女が探しに来たその子を無事に城に連れ戻してから、その侍女と二人になった。
彼女は、アレスに教えてくれた。

子どもが、今朝方崩御したディラス王の后、デュラーン女王の子、ラナーンであったと。






「いい話だな」

長い絹衣をまとったタリスが、座ってアレスの話を聞いていた一同を、後ろから見下ろしていた。


「タリス、いつから」
「ラナーンが花飾りのまま水にダイブしたときから」
タリスは進み出ると、ラナーンの隣に座り込む。

「仕事は終わったのか」
アレスが悔しさ混じりに声を掛けた。
彼も、タリスの気配に気付かなかった。

「休憩くらいしてもいいだろう」
タリスが横目で笑いながら、膝に顔を乗せた。

「その話、私も初めて聞いた」
傾けた顔が、子どものように幼い。
権力も知力も行動力も備えたタリスだが、たまに気を許したとき、このような表情をする。

「アレスは自分のこと、ほとんど話さないからなあ」
ラナーンに同じく、幼馴染という立場でありながら、アレスについてタリスの知らない部分は多い。

タリスは立ち上がり、薄い衣を脱ぎ捨てると、ラナーンの上に被せた。

「フォーネ。舟を」
ラナーンは頭から覆われてしまった薄衣から這い出す。
せっかくの着物が濡れてしまう。

「着ておけ。温かくなるまで」
服一枚でタリスは、フォーネとともに舟へ駆け寄った。


ラナーンも、思い出した。
あれから数日後に父に呼ばれた時のことを。

泉で出会った彼がラナーンを守護役を与えられた、友人となる。
その日のことを。

それは、穏やかな季節。
そして、平和だった日々。











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