Silent History 24
レンに押し出された背中が熱い。
動悸は高まり、目線は不安定だ。
駆け寄るとは表現が生温い。
アレスはレンとラナーンを目掛け、一直線に突撃してきた。
これ程まで荒々しい、平生の冷静さを拭い去ったアレスを見たのは久しぶりだ。
言いたいことはあるだろうが、黙ったまま。
ただラナーンへ目を落とし、奥歯を噛み締め微動だにしない。
「アレス。ごめん、勝手に離れてしまって」
心配を掛けて。
「それは」
ローブの袖に、茶色く凝結した血が染みを作っている。
市場で転んだときの傷だ。
「レン!」
「叫ばなくても大丈夫」
ゆっくりとアレスとラナーンに歩み寄り、ラナーンの腕を手に取った。
捲り上げたローブの下からは、擦り傷が縦に伸びていた。
「範囲は広いけれど、深くはない。すぐに治ります」
それでもアレスの責めるような目は、レンに向いていた。
「わかりましたよ」
アレスの突き刺すような目を受けて、レンは右手を挙げた。
「スメリア」
レンが口からその言葉を出した途端、挙げた手からは白い光が溢れあたりを包み、瞬く間にラナーンの傷は癒えていく。
などということはなかった。
レンの言葉で現れたのは、光でも風でもない。
日に焼けた顔、隊服がはちきれんばかりの、筋骨たくましい一人の男だった。
「彼は治癒術の心得があります」
ラナーンの腕を、スメリアという名の男に預けると、レンは二歩退いた。
高い位置にある大きな頭を深く下げ、レンからラナーンの腕を受け取った。
「熱い」
反射的に腕を引こうとしたラナーンを、スメリアが血管の浮き出た大きな手で引き止める。
「火傷したりはしませんよ、ラナーン様」
湯を当てられているような感覚だ。
しかし、熱くはあるが痛みはない。
スメリアが右手を放した。
「まだ熱いですか」
「いや」
熱の名残すらない。
「傷は癒えてはいません。治癒力を高めただけですので、明日には傷が埋まり、明後日には完全に傷跡は消えているでしょう」
スメリアは一礼すると、そこが彼の定位置だとでも言うように、レンの後ろへと下がった。
「すまない」
アレスがスメリアと、視線を滑らせてレンを見て詫びた。
詫びるのは、ラナーンの方だ。
慌てて、ラナーンはスメリアの方を振り向いた。
「ありがとう」
「礼には及びません」
最初は無愛想だと思われたスメリアの目元が、微かに緩んだ。
「さて、どうします。お二人は宿に戻られるのですか」
それとも、今夜中にファラトネス城へ、入城するか。
ラナーンはアレスを仰ぎ見て、指示を待った。
「今夜は、宿に戻る。明日の朝、城へ入る」
「その方がいいでしょう。アレスも疲れているようですし」
レンへ連絡を入れた後、街の端から端へ走り回っていたのだ。
ラナーンに何かあれば、いつでも腰に提げている剣で喉を掻き切る覚悟だった。
「明日の朝、お迎えに上がります。もちろん、タリス様には内緒でね」
ラナーンが襲われた一件も、レンの口からアレスに語ることはなかった。
内心は、緊張で青ざめていただろう。
隣国の王子が、自国内で暴漢に襲われ怪我を負うとなれば、それは完全に治安維持を怠ったファラトネスの責任問題となる。
「では、私はこれで」
ファラトネス兵に、目で合図を送るとラナーンとアレスの横をすり抜けた。
「アレス。帰りは目を離さないように。あの方はまるで外を知らない子どもなのだから」
「わかっている」
アレスの返事に、満足そうにレンは涼しげな目を細めた。
すれ違い様、密やかに交わされた二人の会話は、ラナーンの耳には届かない。
「すまないが、風呂を沸かしてくれないか」
宿の扉を開けて、開口一番アレスの言葉が走った。
「ええ、すぐにご用意します。それに新しいお召し物も必要ですね。アライア!」
「はあい」
高く柔らかく伸びる声は、尖ったアレスの神経を宥める。
「だいじょうぶです、そちらも用意していますよ」
壁を挟んだ向こうの部屋で、動いている宿の女将が温かい声を返した。
「ラナーンさま、こちらへ」
アライアの声に引かれ、ラナーンは隣室へ向かった。
「迷惑を掛けて、本当にすまない」
アレスが沈んだ声で、隣のキルネに語りかけた。
「迷惑だなどと。ラナーン様にお会いできて私も、妻も喜んでいます」
「希少動物みたいなものだからな」
「ご成人なさるまで、お城から出られない。その上ファラトネスの我々が簡単にお目に掛かることなど。それが、今、こうして」
「神様みたいに、拝めば救われるといったものでもないが、珍しいと言ったら珍しいな」
「妻などは、ほら。はしゃいでしまって」
キルネは扉を見た。
扉を抜けて、アライアの笑い声がこちらの部屋まで届く。
「さあさ、こちらですよ」
アライアが湯に浸したタオルを広げて、ラナーンを迎え入れる。
「お顔が汚れてしまいましたね。お風呂が沸くまでは、こちらで我慢してくださいね」
「あ、あの。女将さん」
「アライアで結構ですよ、ラナーンさま」
「アライア、が。汚れてしまう」
抱きとめるようにしてラナーンの腕や顔を拭う。
埃と砂に塗れたラナーンで、すでにアライアの前掛けは白くなっている。
「平気です。それよりも、まあ」
彼女はラナーンの左腕を持ち上げた。
「痛かったでしょうに」
「転んだだけだ。地面で擦れてしまっただけ」
「腕を貸してくださいな」
傷に触れないよう、優しく傷の上を覆う。
「だいじょうぶですよ。ゆっくり体を休めれば、傷も体も楽になります」
スメリアの術で、血は止まり、刺すような痛みはなくなった。
それでもまだ鈍痛がしていた傷は、アライアの手の下で、鎮まっていく。
「アライアの手、温かい」
治癒術を使えるのか、とラナーンが問うと、アライアは目尻に皺を寄せ微笑んだ。
「早く傷が治ってほしい。痛いのは消してしまってと思う気持ちが、相手に伝われば誰にだってできますよ」
ラナーンの腕を慈しむように、目を伏せた。
「気持ちを受け止めて、その人が早く傷を癒して元気になりたい、と願えば。それは魔法なんです」
だいじょうぶよ。
すぐに治るから。
木漏れ日の下で、読んでいた本を草の上に置いた。
転んで膝を擦りむいたラナーンを包んでくれた、母。
痛いのは、消してしまいましょうね。
明日には、また、笑顔で元気にいられますようにって、お願いするの。
母は、幼いラナーンを抱きとめ、血がにじむ膝へ手を当ててくれた。
その、温もりが。
「懐かしい。大切なことを思い出したよ」
腕の傷跡はほとんど目立たなくなっていた。
「眠くなりましたか?」
「ん、少しだけ。でも」
眠りに落ちる瞬間。
現実と夢の狭間。
それが、心地いい。
きっと、アライアの手が優しく、包み込むタオルが柔らかいから。
ここは、何て温かい。
「今日は、いろいろなところを歩きましたものね」
「いろんなことがあったんだ。転んだり、追いかけられたり。痛いことも。楽しいことだって」
「市場はたくさんの人がいて、賑やかですもの」
デュラーンにこもっていたラナーンには、刺激が強すぎるほどに。
「本を、見つけて」
「ああ、もう少しでお湯が沸きますから。あとちょっとがんばってくださいね」
ラナーンをふくよかな肩で支えながら、優しく背を叩く。
「本はちゃんとあちらのお部屋に置いてありますよ」
「うん」
「どんな本なんです?」
「昔の、ずっとずっと昔の話だよ」
戸をノックする木の音が響いた。
「アライア、風呂が沸いたぞ」
「すぐに行きますよ。さあ、ラナーンさま。歩けますか」
「平気」
目は半分閉じている。
老年に入りかけている、丸く小さなアライアに支えられて、ラナーンは風呂場へと歩いていった。
アライアに体をまかせ、されるがままに背中を流してもらった。
まるで巣立っていった私の子どもを、お風呂に入れているみたいだったわ。
湿った白髪を片手で宥めつつ、アライアは風呂場から出てきた。
「ラナーン様は、どうなさっている」
「後は自分でするからと仰って」
湯船から引き上げられ、服を手にしたところでアライアは退散した。
「大丈夫か」
キルネの声に応えたのは、アレスだった。
腕を組んで、テーブルにもたれ掛かっていた腰を持ち上げ、風呂場へ大股に消えていった。
「キルネ」
アレスの呼ぶ声に、今度はキルネが風呂場に駆けつける。
王子の座を捨ててもなお、ラナーンを中心に回っている世界を見て、アライアは笑わずにはいられなかった。
「アライア! タオルを」
「タオルなら、お部屋の端にあるでしょう。籠の中よ」
言いながら、アライアも風呂場に足を向けた。
「服を着終わって力尽きたみたいだな」
アライアから受け取ったタオルをラナーンに巻きつけながら、アレスが短いため息をついた。
「まったく、行方不明になってどれだけ心配したと」
アレスの心配を他所に、ラナーンは黒い睫毛を伏せて、夢に沈んでいる。
「手伝ってくれるか。部屋まで運ばなくては」
「もちろんです」
キルネに先導され、アレスは二人分床を軋ませながら部屋へと戻った。
今日は、眠ってしまいたい。
夢も見ないほどに。
ラナーンをベッドに下ろし、布団を掛けると漆黒の濡れた目がアレスを見上げていた。
完全に熟睡しているものと思っていたのに。
眠りから少し、浮上したようだ。
「アレス。怒ってるな」
「怒っていない」
ラナーンに直接当たりはしない。
ただ、無口になる。
このモードになったアレスが、頭の中で何を考えているのか、ラナーンには読み取れない。
「ただ、頭の中を整理したいだけだ」
「悪かったと思っている。本当に。勝手な行動をして、困らせて」
「無事だったんだから、それでいい」
よくはない。
ラナーンは思うけれど、結局何もできない。
「疲れただろう。もう、寝ろ」
疲れたのは、アレスの方だ。
ラナーンがアレスと離れて、どこに行っていたのか、掘り返そうとはしない。
いつも視界の中にいて、困ったときは必ず手を差し伸べる。
どこにいても、駆けつけてくれる。
その優しさは、父親譲りか。
その強さも。
ラナーンを守ろうとする。
その、忠誠心も。
アレスは、何を見ているのだろうか。
何を、守ろうとしているのだろうか。
ラナーンは、幼いアレスとその父親を思い出しながら、再び睡魔の海に、静かに引き込まれていった。
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