Silent History 23





まるで祭りのようだ。

店屋の主人は、手を頬に当てて目玉商品を叫ぶ。
立ち止まって値段交渉する、女性客。

デュラーンでは、市場に出ることすら許されなかった。
壁の向こうの世界が、目の前に今、ある。

ラナーンを中心点に、三六〇度すべて市場が広がる。
入り乱れる音の海にいるだけで、胸がざわつく。
熱くなる。

見慣れたラベルを見て、瓶入りの酒を売る露天に潜り込む。
タリスの城で晩餐に出た酒だ。
アルコール度数が強くて、エレーネは顔を赤く染めていた。
タリスはというと、水のように酒を飲む、を体で証明していた。





「それはお勧めだ。ファラトネスの中でも、セルシアの水を使っていてね。魚料理によく合う」
主人は瓶を持ち上げた。

「特に焼き魚料理だな。風味を壊さない」
淡色の液体が、瓶の中で傾いて揺れている。

太陽は傾きかけている。
買出しに来た女性が商品を指差して、店主との会話は終わった。



雑貨を売っている。
棚の前で、買ってもらったばかりの人形を、大切そうに抱えている少女と目が合った。
ラナーンが笑いかけると、不思議そうに見上げている。



本までもが、屋外で並べられていた。
古びた本ばかりが、箱を引っくり返して作られた台の上に乗っていた。
布を敷くでもなく、無造作に置かれた本に惹かれてしまう。
触ったら埃がつきそうなほど、紙は黄ばんでいた。
一冊手にとってみたが、店主の老人は客に興味がないらしく、新聞に目を落としたままだ。



表紙からでは、中身が想像できない。
縫いこまれた題名は、色あせて擦り切れて見えにくい。
乾いた音を立てながら、優しく開いた。






歴史書。
デュラーンのか。
でも。

違う。
これは。


読みにくい。
文字は、古語だ。
城で勉強はしたが、本として読んだことはない。

ずっと昔の話。
それも、歴史と神話が混沌としてしまうほどの昔。

大陸、大戦、生まれる微かな希望。




「千五百年前、人間と魔による大戦が大陸を呑み込んだ」
それまで俯いて新聞の捲る音しか立てなかった老人が、口を開いた。

「魔の住まう闇の世界、人間界を結ぶ扉から魔があふれ出し、人間を喰らう」
滑らかに出る台詞に、ラナーンが顔を上げた。
老人の眼と重なった。

累々と横たわる屍。
それは既に人ではなくなっていた。
地は血を吸い、草木は枯れ、病と飢えとがあらゆる悪を引き寄せていた。

人々は、世界の死にゆく様をその眼に映した。
希望を望む力も失せようとしたとき、一筋の光が差した。

扉からあふれ出た、魔。
一掃するために生まれ出、命。

「魔を斬り扉へと追い詰める」
在るべき世界へ、還元するために。

祝福された者。
恩寵を受けた者。
希望を背負い立ち上がった者。


その名は。


「ガルファード」






老人の眼から、顔を反らせないまま硬直していた。

「その本」
ラナーンの手の上を、眼で示した。

「持って行け」
金はいらん、と呟いてまた新聞へと目を落とした。
まだ動けないラナーンに、声だけ相手をした。

「手に取る気になるのは、お前ぐらいのものだ」
そしてまた、黙り込んでしまった。
派手に新聞を捲る音が、早く行けと言っている様で、ラナーンはその場を離れた。


闇は光を食い潰していく。
暖かかった空気が締まる。
夜が始まるのだ。

子どもの声は消え、淡い灯りの下で細長いシルエットがうごめく。




「アレス?」
右を見ても、同じ風景。
左を見ても、見知らぬ人ばかり。

アレスの姿は、まるで見えない。

「宿へ」
戻れば、会える。
でも、今どこにいるのか。
宿はどの方角にあるのか、わからない。
深い深い森の中に入り込んでしまったような気分だ。

どうすればいいのか。
どこにいけばいいのかわからない。

「城へ」
だめだ。
すぐに首を横に振った。
夕闇が迫る。
そんな中、一人でファラトネスに行っても、タリスに会えるはずがない。
衛兵に止められるだけでなく、不審人物として檻に入れられてしまう。

宿の主人は、何と言ったか。

「キルネ。それから、アライアだったかな」
宿屋の主人と、その妻の名は。
聞けば、誰か知っている。
これだけの人間がいるのだから。




知っているはずのファラトネスの大地。
風の匂い。
なのに。
目を閉じ、耳を塞いで、しゃがみ込んでしまいたい。

ここは、どこだ。

周りに、本当に誰もいない。
こんなこと経験したことがなかった。
縋りつくものが何もなく、頼れるものなどない。

このまま、夜を待つのか。
足早に過ぎ行く人影を、眺めるしかできなかった。
着飾った少女たちが、楽しげに腕を組みながら、通り過ぎていく。




ラナーンの側を通り抜けた男が、肩に突き当たった。
殴られるように、弾き飛ばされる。

勢いのまま、仰け反る。
救いを求め、伸ばした右手は虚しく宙を掻く。

左腕から着地した。
ローブから露出した肌が、痛い。
男は邪魔だ、と言うように舌打ちを残して人波に消えた。

何もできず、動けないラナーンを残して、周りの世界だけが忙しなく回る。
埃を払うのも忘れ、ゆっくりと立ち上がると痛む腕を持ち上げた。
手首から肘にかけて、擦り剥けていた。

叫んでも、助けは来ない。
アレスから離れたことを後悔しても、状況は変わらない。

「とにかく、入り組んだ市場を抜けないと」
大通りに出れば、何とかなるかもしれない。
じっと立ち止まったまま、待っていても仕方がない。
速過ぎる人の波に、歩調を合わせようとするが、何度も肩と肩が当たっては睨まれた。

太陽は隠れ、人の灯した明かりが、世界を暖色に照らす。
グラスとグラスを重ね合わせる音が、笑い声に混じる。
楽しそうな風景が、今は不安を煽る。

歩いても歩いても、周りの景色はどれも同じに見えた。
眠らない街、明けることのない夜に、迷い込み抜け出せない。






横から、絡みつくような不快な視線を感じた。
気のせいだ、と市場を縫って歩いたが、粘着質を帯びた視線は、なお絡んでくる。

ラナーンは左腰に、手を当てた。
ローブの下で硬い感触がする。
常に帯刀しておけと言ったアレスの言葉が、今になって染みる。
そこに剣があるからといって、突然宝刀を振りかざすわけにはいかないが、幾分か安心する。

壁を右に曲がる瞬間、後ろを盗み見た。
一瞬で確認できた人数は二人。
ラナーンから一定距離を置いて、ずっと後をつけてきている。




市場の端に来た。
土地勘ゼロに、不安は募るばかりだが、最早他に逃げようがない。
次の角で、一気に引き離す。

街の角を睨みつけた。
幸い、城壁内とはいえデュラーンの森や草原で体力はつけている。
始終侍女を侍らせ、腰掛に横になっているタリスよりは俊敏に動ける自信はある。

悟られないよう、足早になる体を押さえつけ、前だけを見て角を曲がりきった。
号令が掛かったかのように、曲がるとすぐさま前傾姿勢で通路を駆け抜けた。
背後からは予想した通り、乱れた足音が続く。

曲がれる角は曲がって、隠れられるところに身を隠してやり過ごそう。
木箱が積み上げられている箇所がいくつもある。
ある程度距離を離せたら、陰に身を潜めて彼らが通り過ぎるのを息を殺して待つことができる。


だが。


距離は思った以上に縮まらない。
地理に不慣れな分だけ、次に進むべき道を瞬間で判断するのが難しい。
行き止まりに行き当たってしまったら、それまでだ。
獣(ビースト)に剣は向けられた。
今、彼らに剣を突き立てることはできるだろうか。
剣があっても意志がなく、抜けず斬れなければそれは既に、道具ではない。

手に提げる鞄はなく、埃で汚れた服と体だけだ。
半ば伏せられた目蓋の下から、鈍く眼が光る。
色あせた唇からどんな言葉が飛び出てくるのか想像もつかないが、刺激しない方がいいというのは、眼光から知れる。
見たところ、彼らは丸腰だ。
だからこそ、彼らの意志は見えず、反応が読めない。

進むたびに、通路の幅は減っていく。
反比例するように、破れた壁広告は増えていく。
壁高くへばり付く、申し訳程度の外灯の火は足元までは届かない。
曖昧に浮き上がる壁の凹凸が、後方へ流れる様に酔う。
遠近感や、速度感覚が麻痺している。
脳で考えて判断を下すより、角を見つけては自動的に体が曲がっていた。


明るい場所へ。
まるで走光性の虫が、光を求めて集会場所へ駆けつけるかのように。


人間の肉体の中で眠り込んでいた、動物的勘が頭をもたげたのか。
ラナーンが一際明るい光が漏れる通路へ、角を左に折れたとき、人の通りが僅かながら戻った。




右か、左か。
迷っている暇はない。

市場ほどに込み合っていない分、走りやすい。
同時に言えるのは、障害物がないだけに見つかりやすい。
人を盾にしつつ、二人の男から離れていった。

撒けたか。

胸の鼓動は太鼓のように叩き鳴らしていたが、気分は少し落ち着いた。
理を知らず、追われる身を隠して夜の通行人に紛れた。
何度かそっと後ろの様子を伺ったが、くたびれたシャツを着た人間は歩いていなかった。




ずいぶんと走った。
夫婦の小さな宿から、かなり離れてしまっただろうことは、わかった。
ようやっと、当初の問題をゆっくり考えられる。
どうやって逃げるかという悩みが終われば次には、どうやったら帰れるかだ。

脊髄神経のように、太い道路からは両端に細い路地が延びている。
一日が終わった人、これから始まる人が入り混じっている。

地上の光で暗色が溶かされて、空は群青に染まっていた。
ラナーンの前方、歩道の端に中年の女性が歩いている。
彼女に道を聞けば、何かわかるはずだと、根拠の希薄な勢いで足早に駆け寄る。



路地から体毛の濃い腕が伸び、ラナーンのローブを掴んだ。
抵抗する間も与えず、そのまま路地へ引きずり込まれる。

完全に油断していた。
姿が見えないから、引き離せたと思ったのに。
先回りされた。

投げられ、壁に叩きつけられる。
息もできないまま、立ち上がりもできない。
壁際で背中を丸めてうずくまったラナーンの首元を、一人が締め上げた。

走ったから息は切れ、投げ飛ばされて背中が痛い。
掴まれた首を、振り切ることができなかった。
引きずり上げられ、上向いた顎。
後ろに流れた黒髪の下から、耳飾が顔を出した。
男は澄んだ色の宝玉に興味を惹かれたらしい。
濁りのない蒼は、どんな人の心を引き付ける。

そのまま耳を引きちぎるつもりか。
耳から下がった装飾を、左手に乗せた。

一瞬ラナーンから宝石へと目を奪われた男の股を、右足で力いっぱい蹴り上げた。
血走った目を見開き、ラナーンから手を放すと、その場に崩れ落ちた。
もう一人の、赤毛の男がラナーンの頭へ殴りかかるが、間一髪で避ける。
表の通りに抜ける道は、小太りの男たちに塞がれてしまっている。

回り込んで表にでなければ。
小路の奥へと突き進んだ。
左へ折れる。


背後から足音が迫る。
振りかけられる罵声。
近づく荒い息。
肩を、掴まれた。
日に焼けた黒い顔が目の前に。
手には、短剣が握られていた。

殺すのか。

錆びつき濁った剣先が、ラナーンの喉に突きつけられた。
切れ味が悪くとも、突かれたら容易く肌に埋まる。



これが、人を殺すための道具だ。
その意志があり、手にすれば、命を奪うことができる。


死ぬのか。










砂袋が、落ちるような音がした。
赤毛が立っていたあたりだ。

短剣を手にしていた男の視線が、ラナーンから反れた。
だが変わらず、剣先はラナーンの喉に密着している。

男の視線が左右する。


「何を探しているのです」


冷え切った声が、冷風のように小路を抜けた。
抑揚がない、囁くような声だったが、恐ろしいほどよく耳に届いた。

剣先が、ようやくラナーンから離れる。
ラナーンはその場に座り込むこともできず、背にした壁に体を預け呆然と立ちすくむしかなかった。

「鈍った剣で、一体何を切ろうというのですか」
闇の中、鏡のように刀身が僅かな光を弾き、突き出された。
的確に目標を射抜いた剣先は、茶色の髪をした男の頬を切り裂く。


短剣を斜めに構え、戦闘姿勢に入る。
不安定に灯る形ばかりの外灯で、突然の乱入者の顔は判然としない。

短い動作で、腕を前後に振る。
剣は、見知らぬ乱入者の腹を狙っていた。
横に大きな体の割りに、よく走り、俊敏な動きを見せる。

しかし、痩身の第三者の方が明らかに腕は上だった。
細身の長剣を巧みに繰り出し短剣を右に弾くと、その隙に男の耳を切りつけた。
剣を返して、腿を貫いた。
男は取り落とした剣を拾うこともできず、膝を折ってそのまま地面に倒れ伏す。




圧倒的な、力量。
狭い路地で、よくそれだけ長剣を扱えたものだと、後で思えば感心することばかりだ。

勝者は剣を真上に上げた。
止めを刺すつもりか。
敗者は地で呻き、裂けた耳は無残で、腿から出た血は地面を細く流れている。


剣は、振り下ろされなかった。


それを合図に男たちが数人、赤毛の男と地面の男を取り囲み、捕縛した。
汚れた剣を側の男に託すと、痩身の乱入者はラナーンへ歩み寄った。




「あなたはもっと自覚すべきだ。アレスに注意されませんでしたか」
声質が先ほどのものとは明らかに変わっている。

「アレスに」


いくら服を変えても、わかる奴にはわかる。
それに、人間を商品として見る奴だっている。


アレスは、先を読んでいた。
注意されていた。
それなのに、それでも自ら危険に踏み入るような真似をして。
結果、これだ。

「まあ、この場合。街の歩き方も知らないあなたから目を離したアレスにも、問題はありますけれどね」
背を伸ばして、腰に手を当てた。


ラナーンの目の前で息も荒立てず、ラナーンの埃すら払ってくれる余裕のある人間。

「レン」

柔らかな髪が、動くたびに揺れる。
ラナーンの友人の、従者だ。


「早くお風呂に入れなくては。鏡を持ってくればよかったです」
「ごめんなさい」
縮こまって、一回り小さくなったラナーンの腕を、レンは叩く。

「遅くなりました。タリス様の目を盗んで抜け出して来たものですから」
口の堅い兵を、急の召集で用意できたのは今いる六名だけだった。
アレスから、ラナーンを見失ったとの知らせがレンに入り、すぐに捜索隊を立ち上げた。
街にいる親しい者たちの協力を仰ぎ、目撃情報を集めて、ポイントを絞った。

「怖い思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
レンはアレスから捜索要請を受けたとき、もう一言添えられていた。
どうか、事を荒立てぬように。

本通でラナーンを捕捉したとき、そのまま追跡者二名を捕らえることも可能だった。
だが、そうすれば間違いなく人目のある場所で、華やかな逮捕劇を繰り広げることになる。
できれば避けたい。
路地の奥へ進む、その機会を狙っていた。




「お怪我は」
「平気。大丈夫、歩けるよ」
レンの金色の髪を眺めていた。
外灯に透けて、きれいだ。
逆光になってレンの顔は伺えないが、心配そうに見下ろしているはずだ。

「痛みますか」
「いや。レン、剣うまかったんだな」
「教わった通りの動きをしただけですよ。基礎です」
「タリスがよく、声を掛けないな」
「タリス様は、私に剣は振り上げません」
その腕前、鞘に収めてしまうには惜しいように思える。

「タリスは、元気?」
「ええ、武闘大会が近づいています。熱気に当てられていますよ」
毎日剣を振り回して、兵を中から疲弊させる気かと、王から注意されたという。

「レンは、どうやってタリスに言って出てきたの?」
「古い友人に食事に誘われました、と」
嘘ではない。
ラナーンとアレス両人との付き合いは深く長い。

「それはぜひ会わせろ、と仰っていました」
お前の物は、おれの物。
おれの物も、おれの物。
いつの時代もはびこる、無茶な論理だ。

「それで、答えた?」
「ええ。近々、とだけ」
レンらしい。




「どれくらい探してたんだ」
細い指でレンは、ラナーンにフードを被せた。

「今あなたが聞きたいのは、それではないでしょう?」
黒髪は、隠れた。
フードの下から、レンを覗く。

「あの。アレス、は」
レンが柔らかく微笑んだ。
エレーネの微笑に似ている。

「間もなく参ります。ここで待ちますか?」
「いや、こっちから行く」
謝りたい。
殴られるかもしれない。
頬が赤く腫れるかもしれない。
その痛み以上の痛みを、アレスにさせてしまった。
心配を、かけてしまった。

兵たちは散開した。
ラナーンを追ってきた二人も、連行されていく。

「レンに剣を教えたのは、タリス?」
だとしたら、どうして今は剣を交わらせないのだろう。
何度もタリスに聞いたけれど、それだけは答えてくれなかった。

「タリス様が仰らないのでしたら、私からは申し上げられません」
微笑んで、誤魔化された。

完全に夜に呑まれた広い通りを、ラナーンとレンは歩いた。
ラナーンは黙り込んでいた。
頭の中では、アレスに怒鳴られるシミュレーションばかり何パターンも生まれては消えていった。

手が、震えている。






「アレスです。見えますか」
周囲の目も知らず、真っ直ぐにこちらに向かってくる。

「怖いのですか」
レンはラナーンを横目で見た。
ラナーンは、答えなかった。
徐々に姿は大きくはっきりとしてくる。
胸が痛いほど、鳴っていた。

目の前で急停止する、アレス。
その形相は眉が寄せられ、気迫が具現化するのならば、周囲一体が炎上していただろう。


「さあ」
レンは、ラナーンの背を押した。











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