Silent History 20





岸辺は見えず、見渡す限り濃紺の草原だ。
風に揺られるように、水面がうねる。

傾きかけた日はやがて、水面を鋭角に照らし、朱に染まる。
欠くことなく完全な、一色。
その美しさを、郷土を捨てた王子は、まだ知らない。








「ファラトネスへの到着は今夜?」
加速が安定へと船足は無事移行し、ラナーンは風を切る客船のデッキへ上がった。


「デュラーンの高速艇と一緒にするな」
彼の後ろから、長身で痩身ながらも威圧感のある男がついて歩いていた。

「あ」
「この船ならファラトネスまで、約三十二時間」
「そうだったな」
ファラトネスへ赴くのも、今までだったら船は単なる足に過ぎなかった。
船に乗り、食事をゆっくりと済ませて寛いでいる内に気が着いたらファラトネスに到着している。

「たまにはいいだろう、船の旅というのも」
船はラナーンにとって、およそ船旅とは呼べない、移動手段でしかなかった。
今回、ファラトネスへの渡航手段に、大量の人間を輸送する客船を選んだのは、アレスだった。

「これは、この速度でファラトネスへ?」
「そうだ」
形だけの白帆は、畳まれ裾だけが風になびいていた。
単なる装飾であり、実際の動力はデッキの下に息づいている。

この船は、帆船ではない。
しかし速度は風任せに進む船のようにゆっくりと進む。

「海の上で眠るのか」
「そうか、初めてだったか」
初めてだろうが、関係はない。
布団が変わって寝付けなくなるほど、ラナーンの睡眠欲は環境変化に敏感ではない。

「眠れそうか」
口調も表情も堅く、努めて感情を表さないようにしている意思と発言が、まるで食い違っている。

「平気。海に、獣(ビースト)はいないだろう」
「そうだが」
襲われる心配などない。
最も街で夜を迎えるときでも、獣を恐れるようなことはなかった。
彼らは街には近寄らないと知っているからだ。

獣(ビースト)は陸の生物だ。
海で確認されたことなど、一度だって無い。

冗談めかして言った自分の言葉が、胸に引っかかり、笑いかけた微笑が途切れてしまった。

「大陸には、いるのかな」
「いる」
「どこから現れるのか、知りたくないか」
船の欄干を強く握り、ラナーンがアレスを見上げた。

「大陸には文献がある。デュラーンとは比較にならないほど大量の」
「渡りたいんだな」
いつかは。
「でも、今は」
まだデュラーンを出たばかりだ。
先のことなど、決められない。

「今は、まだ」
躊躇っている。
世界に出ることを。
楽しみだ、そう思う半面で。
ラナーンの目は、船体に当たっては散る白波を追っていた。

「怖いんだな」
呼吸が止まった。
心の中を見透かされた。
アレスの言葉が、胸を突いた。
痛みを覚えるほど、強く。

「怖い?」
今のは自問。
しかし、答えは。

「怖いんだろう。怖いんだ。誰だって、知らない世界に踏み入れるのは」
アレスの言葉は的確だ。
どうして、ラナーン自身より、ラナーンのことを表現できるのだろう。
ラナーンは疑問を、今は飲み込んだ。

「変わっていく自分に、変えてしまう世界に、恐怖を感じる」
違うか?
見てみろ、自分の中にある心を、形が定まらないまま揺れる気持ちを。
アレスの目は、ラナーンの反応を待っていた。

「そうかもしれない」
ラナーンの側にいて、誰よりもラナーンを見てきた。
そのアレスが言うのだ。




「大陸は、余りにも広すぎる。そのすべてを知るには巨大すぎる。時間をかけて回ればいい」
先は、長いのだから。

「そうだな」
そして、まずは。

「ファラトネス。アレス、ファラトネスにも獣(ビースト)はいるって?」
彼らの幼馴染が漏らしたことがある。


「タリス」
それが、アレスが脅威すら感じ、ラナーンが憧れを抱く隣国の御子の名だ。


「ああ、実際に調査はされているから資料はある」
情報量は、大陸の大帝国に匹敵はしないだろうが。

「調べる時間くらい、あるよな」
のんびりと船の旅路を楽しんではいるが、彼らには追っ手がいる。
面の知れていないラナーンとはいえ、交流の深いファラトネスに入ってしまえばまた、慎重に行動しなければならない。

「大丈夫だ。ファラトネスの兵にだけ気をつければいい」
中にはラナーンとアレスの顔を城内で見たものも少なくない。

しかしそれでも危険度はデュラーンよりは低い。
ファラトネス兵がラナーンとアレス見咎め、デュラーンに報告しても、その前に必ず、ファラトネス城へ一報が入るはずだ。

「タリスが抑えてくれるかな」
王室内でも権力と存在感のある彼らの幼馴染だ。
決してラナーンを不利な状況に追い込んだりはしない。
緘口令を直ちに敷き、デュラーンからの二人を一室に召喚し、理由を問いただす。
それがタリスのやり方だ。

「そうなったら俺はまた、周りへの口止めの見返りに、剣術の手合わせを持ち出されるんだ」
どうであれ、ファラトネスに行けばタリスの飽きるまで、アレスは剣に付き合わされる。
最早、到着の儀式のようですらある。

風が冷たくなってきた。
いつの間にか緋に染まっていた海は、灰色へと変わっている。
アレスに背を押され、二人は船室へと戻った。

「最後に連絡を取ったのはいつだったんだ」
アレスほどではないが、長身でしなやかなタリスは、その風貌に反して豪傑で有名だ。

「一ヶ月ほど前に」
「へぇ」
「もうすぐ祭りがあるから、遊びに来たらいいと言っていた」
「ファラトネスの城じゃいつも祭りだ」
アレスの言い様は皮肉が塗り込められているが、事実ラナーンが納得する部分もある。
デュラーン王室の一族がファラトネスに着いたその夜から、酒と歌と美姫たちによる宴が催される。

「確かに。タリスは王宮の空気を濃縮したような人間だからな」
ラナーンは小さく声を立てて笑った。

豪快でいて、よく気の回る人間だ。
手土産はいつでも、ラナーンたちの喜ぶ物を持たせて帰す。

昨年、エレーネへの贈呈品は絹の織物だった。
細く強い糸で滑らかに織られた反物を手にしたときのエレーネの喜びようはなかった。

「気に入ってもらえると嬉しい」
タリスはそれだけ言ってエレーネに手渡したが、タリス自身が国で一番の糸を探し出し作らせた逸品だ。

エレーネはデュラーンに帰国するや否や、城の職人に服へと仕立ててもらった。
服はエレーネの身に吸い付くように、また色はエレーネを引き立てていた。

「そのタリスにおくれを取らないアレスも、かなりの大物だと思うけどね」
ラナーンが知り得る中で、タリスは最強の人間だ。








船室は二人が十分に過ごせる空間を確保してあった。
円形の船窓からはデッキから見下ろせていた波飛沫が、近くに見える。

「この船、ファラトネス生まれだと知っていたか」
「本当に?」
デュラーンの船はファラトネスの造船技術に頼るところが多い。
デュラーンの技術進歩は目覚しいが、現段階でもまだファラトネスの技術には及ばない。
現在のデュラーンでも、ファラトネスほど強固で耐久性のある船舶は作れない。

「ファラトネス製の船は、デュラーン、ファラトネス間を往復する船舶のみだが、やはりまだファラトネス船舶を手放すことはできない」
長距離移動、長期稼動、加えて耐久性が求められる、不休の連絡船はファラトネスで造られている。

「さすが、海軍の国だ」
「海上の烈火」と謳われるファラトネス海軍は、領海へ侵入した敵国をことごとく薙ぎ払ってきた。
今や海の軍事力ではファラトネスに敵はなく、名ははるか大陸まで届いている。

「そしてその血気はむしろ濃さを増して、あいつの中に燃えているわけだ」
アレスもラナーンに釣られて笑みを漏らした。








波は穏やかで、船は順調に進む。

ファラトネスの地を踏むのは、明日の夜中になるだろう。
アレスとラナーンは夕食を終えると、早々に床に着いた。








真夜中。


目を覚ましたラナーンはしばらく、天井に下がる息のないランプを眺めていた。

静かに航海を進める船は、揺れを意識することもなく、すぐに眠りにつけた。
嫌な夢に襲われるわけでもなく、目覚めは爽快だった。
隣にアレスもいる。
闇を怖れることもなかった。




横になったまま、船窓に目をやる。
外は驚くほど明るい。

幼い頃の真夜中の思い出を連想した。
デュラーン城で今日のように真夜中に目が覚め、部屋を抜け出した。
廊下の灯は息を潜め、侍女は引き、花籠を持って廊下を飾る女官も、警備の兵もいない。

「おしろも、みんなもねむってしまってるんだ」
ラナーンは、靴を履くのも忘れて柔らかな絨毯が伸びる廊下に踏み出した。

小さな脚で歩いてきた廊下は、とても長く感じた。
廊下を半分まで来て、振り返った。
いつも誰かが開けてくれる重い扉は、闇に掠れてほとんど見えない。

「かえれない」
そう思ったら、すべてが怖く感じた。
見慣れているはずの廊下も部屋の扉も、昼間とは違う。
美しいはずの彫刻も、微かな灯りによって影を深く刻んでいる。
廊下の角は黒に包まれ、いつもより広く感じた。

違う。
ここは、今まで知っていた世界とは違う。

図書館で読んだ絵本に出てくる「夜の国」のようだった。
怖い魔物が住んでいる世界。
それがたまに、人間の世界と繋がってしまう。
そんな話だった。

ラナーンは短い腕を精一杯振って、駆け出した。

どれだけ走ったかわからない。
気がつくと、目の前の扉から薄っすら明かりが漏れている。

たった一人で恐怖と闘ってきたラナーンにとって、まさに救いの光だった。
中に誰がいるか。
どこの部屋なのか。
入ってもいい部屋なのか。
起きていたことを咎められないか。
そんなこと考えている余裕はなかった。

扉の隙間に飛びつくと、ラナーンには高すぎる扉の手へ、手を伸ばした。




「まあ、ラナーン」
明るい部屋の奥、目に入ったのは女王と向かいに座るディラス王だった。

「こんなところまで一人で来れたのか」
ディラスは目を丸くしていた。

「ははうえ! ちちうえ!」

両手を前へ持ち上げたまま、ラナーンは母の膝に駆け寄った。

「大丈夫よ。もう、大丈夫」
柔らかく白い手で、ずっとラナーンの黒髪を撫でてくれた。

二人の間にあった机には、酒瓶とグラスが二つ、並んでいた。
明るいけれど、優しい光が、瓶の中の揺れる酒を淡く、照らしていた。




アレスは、知っているだろうか。
海の上に映る月光の美しさを。

ラナーンは体に掛かる、毛布を引き下ろした。
音を立てないよう、体を滑らせるように寝台から床に足を落とす。

丸い船窓の縁に手を置き、海面を眺めた。

「ラナーン?」
「ごめん、起こしてしまった」

アレスの寝起きで掠れた声は、首を一振りすると完全に平常に戻った。

「水に映る月が珍しいか」
思えば、夜中に城を抜け出すようなことはラナーンはしなかった。
眺めもしたし泳ぎもした、慣れ親しんだ湖ですら、夜の姿を知らない。

「甲板に上がってみるか」
「行けるのか?」
夜には閉鎖されるものだとばかり、思っていた。




細い廊下を抜け、甲板への段を上る。

上りきり、扉を開けて息を吸い込んだ。

「すごい」
闇の中と言うこともある。
そして驚きで、ラナーンの黒瞳は大きく開かれた。

「ところどころ雲があるが、ほぼ満月だ」
強い光が船体の輪郭を、細部まで照らし出している。
中央まで進み出た二人の側の地面には、はっきりとした影が染み付いている。
両腕を広げれば、遅れることなく影も真似をする。

「海の青、月の蒼」
知らなかった。

「アレスは、見たことがある?」
返事の代わりに、微かに口元を緩ませた。

「これから、いくらでも教えてやる」
アレスは欄干に歩み寄った。

「不思議な感じだな、海が漆黒で、でも光で白に」
「母上の、色だ」

白は、母の色。
髪も艶やかな白だった。
闇の通路を抜け、辿り着いた光溢れる部屋で見た母もまた、美しく輝いていた。

「寂しいか」
「もう、過去だよ」
デュラーンはもう遥か後ろにある。
切り替えなくては。
変わらなくては。

「先を、見るんだ」
世界を、この先を。











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