Silent History 19





海からの風に煽られ、葉の大きな木が体をしならせている。
窓の縁に肘をつきながら、一体何分そうして眺めていただろう。
ぼんやりと、外を眺めるのが好きだった。
湖の畔で横になって、雲を見ながらいつの間にか眠りに落ちるのが好きだった。

それも、もうできないだろう。
今はまだ、実感がない。
きっと、隣に幼馴染がいるからだ。


でもきっと。
必ず。


当たり前だったかつての情景が愛しくて仕方ない瞬間がくるはずだ。


帰りたい。


失ったものを、取り戻したい。
受けるはずだった愛を、その手にしたい。


誰もが思う、感情。

その心の波に飲み込まれた瞬間。
今のままの自分でいられるだろうか。
何かが壊れてしまわないだろうか。


行き過ぎた、発想。
かも、しれないな。

床の軋む音に、ラナーンが顔を上げた。










「外に出てみないか。昨日は、ゆっくりと歩く暇もなかった」

車に揺られ、デュラーンの北端の港街についたのは夜も深まっていた。
酒場では盛りに入ろうとしている時間だった。

デュラーンが狭くとも、これほどまで気候に差がでてくるのか。
書物でしか得ることのできない知識と現実との格差に、ラナーンは驚いた。
緯度は凍牙と変わらないはずだ。
しかし風景はまるで違う。
この時期、デュラーン城周辺地域は肌寒かった。
夜寝付けないからと、中庭を散歩すると上着を一枚肩に掛けなくてはいけなかった。

一方でこの港周辺は夜の寒さを感じない。
ほぼ半日揺られ、この街で外の空気に頬が触れたとき、海風の心地よさに目を細めた。




移動続きの数日間だった。
ラナーンにしてみれば、驚異的な移動距離だ。
鳥籠で守られて育ったラナーンの体に、どれだけ負担が掛かっているか知れない。


アレスらしくない。
過保護過ぎるぞ、とラナーンは笑ったが、事実昼ごろまで死んだように眠っていた。
祠での一件が、ラナーンの体にどんな作用をもたらすかも、まだわからない。

安心はできなかった。






「海風に当たろう。気持ちがいい」

大丈夫か。

その言葉をアレスは飲み込んだ。
物言いたげなその瞳を腰掛けた窓際から覗き込み、ラナーンは微笑んだ。

「ノースフラネみたいに市が立ってるかな」
「ああ、流石に商業の交差点と名高いフラネほどではないが、デュラーン城下に迫る賑わいだ」
「魚が見たい」
「お好きなだけ、どうぞ」
冗談めかして、アレスが大きな右手を差し出す。
ラナーンが左手を重ね、窓辺から滑り降りる。

「調理済みの物がお好みですか」
「今は、調理前」
「了解」
デュラーン流の敬礼をする。


「お土産、どうしようか」
「ああ、そうだな」
隣国の幼馴染は、欲しいものは大抵手に入れている。
行動力と経済力と権力、知力。
すべてを総動員して欲しいものを集めてきた。

ラナーンにしてみれば、その生き方は羨ましいを通り越して、真似のできない域にまで達していた。


「喜ぶもの、か」
正直言って、ラナーンが前触れなく突然訪れるのが一番効果が見込まれる。
そう言ってもラナーンは納得しないだろう。
ファラトネスの友人は皮肉を交えながらも、ラナーンを大層可愛がっている。
デュラーンに訪れる際は必ず、ラナーンとそのついでだと言いながら、アレスにも何かしら土産を持ってくる。


「酒なら受け取るんじゃないか」
「デュラーンの」
「ああ。特産物の一つに入るだろう」
特にフラネ周辺で作られる果実酒は、甘み香り深みが酒家たちの間で秀逸との評を得ている。


「レンも、好きだと言っていた」
レンは、彼らの友人の従者だ。
ラナーンにアレスが付くように、彼らの幼馴染もまたレンを伴っている。
レンの主が豪奢である反動なのか、レンの物欲は薄い。
そのレンが、エレーネが以前持ってきた西部デュラーン特産の酒に口をつけ、美味しいと漏らしていたのを思い出した。





友人は、ラナーンやアレスと剣を交わらせるためだけに、演技場を作らせた。
しかし、年に数回しか訪れないデュラーンの一行に演技場を待たせるわけにはいかない。

「せっかくだから、競技会でも開こうか」
その一言で丸い演技場を囲んで客席が備え付けられた。

「これじゃ市民が入りにくいだろう」
二言目で、城壁が大きく崩され、木製の重厚な扉が付けられた。

「後は、何が必要だと思う」
笑いながら、レンを目の端で捕らえた。

「競技者でしょう。今ファラトネス各地で選抜競技大会を準備中です。来月末には各地域二名ずつ選出され、ファラトネス城での大会に出場できるよう、調整しています」

こういうレンだからこそ、主人を補佐できる。
押さえつけるのでなく、主の進む道へそれとなく手を差し伸べる。





ラナーンは以前、晴天の演技場で、レンと話し込んだことがある。
従者や家族に囲まれて会話する機会は多くあるが、一対一で話をするのは珍しい。
円形舞台ではアレスと友人が剣の火花を散らせていた。

「よく、付いていけるな。おれだったら、今頃引きずりまわされて満身創痍だ。絶対」
それ以前に逃げ出している。

「誰だって惹かれずにはいられません。あの光に」
レンは目を細めた。
慈しむように。
遥か遠くを見るような目をしていた。

謙虚だった。

文武両道にして、人格も非の打ち所がない。
絶大なる権力者、ファラトネス王の子の寵愛を受けながらも、自分の存在に光を当てようとはしない。
表に出るべきではなく、常に影で支えることこそ己の役目だと弁えている。
かといって、主が不満に思うほど媚び諂っている訳ではなく、主に見合うだけの行動力と配慮を備えている。




「同じ立場でも、こうまでアレスと違うなんてね」
それは国の違いではなく、人の違いだ。
ラナーンは、幼馴染のようにはなれない。
アレスもまた、レンではない。






「気分が悪いか」

顔色は悪くないが、自分の世界に嵌ってしまったラナーンを、アレスが引き揚げた。


「レンだからこそ、役目が務まるんだなって」
「レンしかできないから、あの城はうまく回っている」
王の子のわがまま一つで、莫大な金が動くことになる。
それが国と国民の利益に回るよう、計算して動ける脳を、彼らの幼馴染は持っている。

それは問題ない。
ただ気に掛かるのは、周囲の人間関係だ。
生きているからこそ、嫉妬や羨望を抱かずにはいられない。
美しく清らかな感情だけ、人は持っているわけではないから。



「そのあたりの問題とも、レンはうまく付き合える」
主を慕っているからこそ、それを取り巻く環境を安定させていようと計らう。

主は、「わずらわしい」と一刀両断で切り捨てる。
しかし、その「わずらわしい」だけでことは処理できない。
後々の差し障りとなるかもしれない。
塵は塵であるうちに処理しておかなくてはならない。
主の道を妨げるものを、レンが調整していっている。



「愛、ゆえに。だよな」

ラナーンが溜め息をついた。

友人の従者としてレンが適格者である決定的な理由は、そこにある。










酒屋は、間口が狭いものの、中はさながら貯蔵庫だった。
薄暗く、空気が冷えていた。


「レトナ産の果実酒を探しているんだが」
酒屋の主人が声をかける前に、アレスがカウンターに目を走らせた。

泳げるほどの酒で酒宴を繰り広げるファラトネスの王族だが、どの酒でも飲めれば酒だ、というわけではない。
レトナの酒を愛でるに足るだけの舌は持っている。

アレスがレトナを見初めたのは、二年前になる。
レトナより内陸に位置する、フラネの料理店で意気投合した主人に勧められた酒だった。


レトナは海沿いにある小さな村だった。
村の収入の六割が漁業によるもので、酒造に力をいれているわけではない。
ただ、酒家の間で秘蔵酒と静かに謳われているのが、この小さな漁村で作られる果実酒だった。
生産量は少ない。
出荷数ともなると、更に量が削られる。


潮風に煽られた果実は甘みを凝縮し、強い光に実を赤く染め、酒に姿を変える。
酒に使用する果実は数を実らせない。
レトナの生産量が上がらないのは、果実の栽培の難しさにあった。


「それなら奥の貯蔵室に何本かあったはずだ。来るか」

ねじれるような階段を下るとすぐに、焦げた色をした木の扉が見えた。

「驚いた。こんなに広い貯蔵庫、見たことない。酒って、こういう風に保存されるんだな」
ラナーンは丸い目を更に大きくして、棚に隙間なく並べられた酒瓶を眺めた。

「湿度、温度を一定に保ち、瓶を倒して保存する。レトナはこっちだ」
貯蔵庫は木の湿った香りがした。
城内の林を歩いている気分だ。
雨上がり、湿った草の匂い、立ち上る木の皮の匂いがラナーンは好きだった。

「瓶を寝かして保存するのは、なぜです?」
ラナーンが主人の背中へ呼びかけた。

「瓶の栓だ」
立ち止まると、男は蓋を爪で弾いた。

「木の、蓋?」
わからないラナーンに、アレスが助け舟を出す。

「栓に中の酒が触れているだろう」
色の濃い瓶の中では栓の半分までが、水面に浸っている。

「そっか、木を水分で膨張させて、密閉度を高めてる?」
「正解」
ラナーンとアレスの横から、振り返った男が口を入れた。

「うん、なかなか勘がいいな」
「乾燥すると、木が収縮して隙間から空気が入って劣化する」
違いますか、とアレスが目で酒店の主に問いかける。

「そうそう。それに、乾燥したまま栓を引き抜くと、脆くなった木が酒の中に入る」
木屑の浮いた酒なんて飲みたくないだろう。
愛想のいい主人ではない。
言い終わらぬ内に、再び背を向け奥へ向かった。




気付いてみれば、棚には産地の名前も記されていない。
それでも主人は広い地下の貯蔵室を、迷うことなく突き進む。

「ここだ」
宣言した通り、手を伸ばして引き出された酒には斜字体の波打った文字で「レトナ」と書いてある。

「実にシンプルだ」
ラベルには絵も模様もなく、レトナという文字だけだった。

「ラベルが特徴なんだ」
手作りが伺える。
手でちぎったように、ラベルの端は切り整えられていない。
大きく中央に書かれた「レトナ」の文字も、手書きだ。

「出荷数量が少ないから、こうした手の込んだことができる」
語り始めたら止まらないらしい。

「今ここにあるのだけで四本だ」
今年の生産は終わったと、主は言った。
それを譲ってくれると言う。

「助かります。ファラトネスの友人が、フラネの酒を気に入っているんだ」
「大抵のお酒は口にいれているから、レトナだと喜ぶと思うんだ。それにそのラベル、気に入った」
髭の男は顎に拳を当てた。

「希少価値ばかりに目がいった、頭ばっかりの奴には、値段を吹っかけるんだけどな」
だが今、男にその意思はない。

「いいだろう、持っていけ。需要があったとしても増産しない。その姿勢がさらにこの酒を美味くする」

主人は階上を指差した。

「上で包んでやる。戻ろう」











そして今、昨日重厚に梱包してもらったファラトネスへの土産を手に、ラナーンは海風を受けている。


「海だ」

久しぶりだった。
塩の匂いが濃度を増している。
デュラーン城内の湖で泳ぎはしても、海ではまだない。
ファラトネスでは泳げるだろうか。

街を一巡りして、腹は満たされた。
必要物資は買い揃えた。

船は目の前で、低く唸りながら停泊している。

後は。

「ファラトネスへ」

桟橋の中央で、ラナーンが振り返った。
痛いほどの陽の光を受けた笑顔が、眩しい。
潮風に黒髪が弄られる。



「今、行くからな!」

それは彼の友人への言葉だ。
突き抜けるような蒼穹に叫んだ。

ラナーンの声に数人が振り返ったが、当人は気にしていない。
桟橋の板を軽快に駆け抜けていく。

アレスは軽く溜め息を一つ落とした。

「若いな」
小さくなっていく王子の背を追った。











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