Silent History 16





足下で霜が鳴いていた。

緩やかな上りが角度を上げていくにつれ、地表を這った氷は雪に姿を変えた。

以前来たときはこれほど視界に白が多かっただろうか。
ラナーンは襟元を寄せた。

街で買い込んだ衣料の上に、山へ登る直前に手に入れたコートを羽織る。
寒さの厳しい土地だ。
作りもしっかりしている。



息を白く吐き、二歩先を行くアレスの背を追っていた。

「前よりも雪の量が増えてる気がする」
「凍牙の平均気温がこの二年で約二度下がった」
「原因は」
「獣(ビースト)と同じく」
「不明ってことか」

凍牙に人が寄り付かない理由はこの寒さだけではない。
獣(ビースト)が出没するからだった。

あるいは、その逆か。





「休むか」
アレスが振り向いた。
彼の息も白い。
荷物の三分の一は彼の手にある。
それでいて同じ距離を登ってきた。

「まだ平気だ」
この先には町や村は一切ない。
そのアレスの一言から何時間歩いただろう。

危険な山にあえて登ろうとする人間もいないので、小屋もない。

「無理はしなくていい」
歩調を落としてアレスがラナーンに並ぶ。
それは優しさだ。
でも。
ラナーンの胸がちりちりと焼ける。

「無理じゃない」

黙り込んだラナーンの頭の中では、自問が回る。
何がしたい?
アレスに何を望む?
どうしてこれほどまでに怒りに似たものが、霧みたいに晴れない?



「晴れているからよかった。雪が溶けている」
なるほどアレスの言うとおり、土道が禿げるように茶色が覗いている。

「道、だよな」
「どうした」
「人が通らないはずなのに」
「まったく、というわけではない」
頂上付近にある祠、ほとんど洞窟だが、それが放置されたままなはずはない。

「公にはされていないが、王直属の兵を三ヶ月に一度派兵している」
「父上は知っているのか、クレアノールや凍牙の獣(ビースト)のことを」
「ああ、ご存知だろうな」
「なぜすぐに対処しない」
「対処か」

視界は広くない。
葉の落ちた骨だけの木が、陰を作る。
人に踏みしめられることの少ない土道は、細く浅く、心細い。

「獣(ビースト)を掃討する」
調査と研究では追いつかないのならば、力でしかない。

「お前はそれを望むのか。それで、獣が絶えるのか」
「わからない、けど」
他に方法があるのだろうか。
探っている間にも、人間は獣と出会っては、喰われていく。

狭い道。
いまここで、獣と遭遇したらと考えるとアレスの背は緊張で硬くなる。
それをラナーンに悟られてはならない。
戦い慣れしていないラナーン、彼だけは何としてでも守らねばならない。

「根を掴まなければいけない。思い出したくはないだろうが、獣は」
ラナーンの肩が跳ねた。


湿ったように光る目が、生々しく蘇る。


「あいつらは、明らかに意識を持っている。今はまだ単体だが」
それがまとまり、戦略を持って襲い掛かってくるとなると、鋭い牙や爪を持たぬ裸の人間では応戦できない。

「王が迂闊に動けないのはそこにある」

どこから獣が現れるのか。
それを明らかにしなければ、何も終わらない。

「もう少しだ。随分と登ってきたな」
アレスが首を回した。

左手が自然の土壁、右手に広がる林と下に落ちる崖の道を歩いてきた。

灰色の木々の向こうに村があった。
白い煙が伸びているのが小さく見える。

「車だと分からなかっただろう」


ラナーンは、アレスを追い越して足を速めた。
林を抜けると、視界が広がった。
平らな広場からは、下界が一望できる。

ラナーンは瞬きを忘れて、傾斜する谷と埋もれるように生きる村を見下ろしていた。

「山に登る人がいるって聞いていた。どうして何もないのに、ただ頂上を目指すんだろうって思ってた。今すこし、分かった気がする。形じゃないものもあるんだって」

寒さも忘れてしまっていた。








「ラナーン!」

叫ぶような声に、アレスを振り返った。
その視界の端に、黒い影が過ぎる。

声が出なかった。
体の動きが鈍い。

まただ。
また、何もできない。

できないのか。





駆け寄るアレスを獣の背後に認めながら、右手で剣を抜き放った。

大丈夫。
怖いのは相手を殺して手を血で濡らすことじゃない。

大切なものを失う怖さ。
それだ。

滑らかに抜き取られた剣は、弧を描き、獣の爪がラナーンに掛かる前に横腹に叩き込まれた。

痛みに怯んだ獣と、間合いを計るラナーンが距離をとった。
状況を見定めようとアレスの動きが止まった。

正面に構え、銀の獣を見据える。
その目には獲物を貪ろうという、飢えた目ではない。

先に動いたのは獣だった。
白い息を吐きつつ、ラナーンの喉を噛み切ろうと唸りを上げて飛び掛ってきた。

巨大な銀狼。
上を取られたら間違いなく跳ね除けることはできない。



獣の爪を左へ流し、すぐさま追い討ちを掛けて剣を振り下ろした。
だが、獣の動きは素早い。
剣先は耳を掠って裂いただけで、下半身を捻り向きをラナーンへ定めた。

「下がれ! ラナーン」
獣相手の剣術など、アレスは教えていない。
ましてラナーンはクレアノールの一件で戦意を喪失していた。
今度また同じ状況に陥れば、命を落とすこと必至だ。


「アレス!」
ラナーンは彼を見ない。
見るべきは自分でもアレスでもない。
目の前にいる獣、ただ一人。

「おれは守ってみせる。アレスがするように、おれも」
自分自身を、そしてアレスを。

ラナーンの剣は獣の頬を裂く。
獣の爪はラナーンの腕を裂く。

「守られるだけじゃない」
ラナーンの傷は浅い。
すれ違い、振り返って先に切りつけたのは、ラナーンだった。

横一線に払う。
獣の首に赤一文字が刻まれる。



ただ戦うだけじゃない。
ただ殺すだけじゃない。
その先に見える、命。
生きる、強さだ。
誰かを守るために。
何かを守るために。



獣が体勢を整え、振り返った。
爪が腹を抉ろうと繰り出される。
ラナーンはそれを後方へ飛びのき回避する。

爪は唸りを上げて、宙を掻いたのは二度目までだった。
三度目にはラナーンの衣服を引っ掛ける。
斜めに二本、裂け目からはラナーンが体をよじる度に、赤がにじみだす。

息の上がったラナーンに、獣が襲い掛かる。
顎を引き、体を丸めたまま突っ込んでくる。

アレスが荷物を振り払って、獣に斬りかかって行くのが同時に見えた。

どちらの動きもゆっくりと、ラナーンの目の前で再生されていく。
ラナーンは、腰に提げていた荷を獣の横顔に叩きつけていた。
アレスの剣は振り下ろされ、獣の左肩口に沈む。

邪魔だと言わんばかりに、獣は前脚を振り上げた。
ラナーンが捕らえたその動きはまるで、人間が左手で払うかのようだった。

弾き飛ばされるかと思われたアレスは、大きく後ろへ仰け反ったものの踏みとどまった。
手にはしっかりと片刃の剣が握られている。
腰を沈め、獣の首筋へ狙いを定める。



アレスは強い。
守るべきものがあるからだ。

そして、弱い。
守るべきものを失うことを恐れて。






何も聞こえなかった。


計算するよりも早く、体が動いた。
背中は見上げれば首が痛くなるほどそびえ立つ崖だ。
逃げ場はない。


アレスの一刀は骨に当たる。
ラナーンが下から切り上げた剣は、皮を裂いても肉に食い込むことはなかった。
どちらも致命傷にはならない。

獣がアレスを突き倒し、呻き怯むとすぐにラナーンへ目を向けた。
鈍く光るその目は、ラナーンの黒い瞳と対峙する。
アレスに比べ、ラナーンの方が戦闘能力が劣る。
それを見抜いていたのだろう。

獣は短く声を上げると、ラナーンへ牙をむき、爪を光らせて飛び込んだ。
アレスの剣が効いたのだろう。
さっきほどの俊敏さはない。



雪が吹雪き、目に染みる。
頬に当たって、水になる。
体から蒸気が立つ。

白く濁った空気の中で、ラナーンは剣を強く握り、上から飛び掛ってくる獣の胸へ突き立てた。



目の前で起こった、それは死の光景。
自分の手で命を取った。
断末魔を上げたその目もまた、意思の光を宿していた。








機能を停止した、ラナーン。
アレスが肩に手を乗せても、反応しなかった。


開こうとしない手にアレスが触れる。
雪の寒さのせいではない冷たさは、まるで鉄のようだった。
緊張で強張った指を、一つ一つ緩めていく。
時間をかけて分離させた、手と剣。

硬直したまま動けないラナーンの代わりに、アレスが静かにゆっくりと剣を獣の胸から抜きとった。



「また、汚れたな」
血と、土とで。

「怖かったか」
本当に怖いのは誰かを、何かの命を奪うことじゃない。

「死ぬかと思ったんだ。殺されるかと。アレスが、それにおれが」
だから戦った。
必死だった。

「怖いか」
しかしそれが、戦いだ。
誰かが死ぬ、その上に生がある。

「なら、振り返るな。前を見ろ」
「前を」
振り返って、死んでいたかもしれないと思う。
それは今生きている証。
けれど振り返ってばかりでは先に進まない。
過去を恐れてばかりでは、生きられない。
死は常に前にあるのだから。


「行くべき道を見ていればいい。振り返らずに」
後ろは、俺が守るから。
アレスは抜き取った剣をラナーンの前へかざした。

「守ればいい。その剣で。お前が望む世界を」
そのために戦う。
生きるために。
守るために。

「俺も、俺の世界を守る」
ラナーンを取り巻く世界を。
傷つけさせたりはしない。


アレスから受け取った剣はラナーンの力を受けて、蒼く澄んだ光を取り戻した。



「凍牙の洞窟」
ラナーンが乾いた声で呟いた。

「ああ、そこの坂を上れば見える」


極寒の洞窟、封じられた祠。
ラナーンの兄、ユリオスが示した場所は、目の前だった。





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