Silent History 13





手の中に収まるくらい小さな果実だったけれど、口をつけるのが惜しかった。
城の卓上の籠に盛ってある果実も、色とりどりで美しかったけれど、今手の内にあるような活力に満ちた輝きはない。
太陽の下でこそ、植物は一番美しく魅せる。
動物すべてがそうだ。
人も。


小川を見つけた。
土手へ腰を下ろし、果物に口をつけた。
真っ赤な表皮の下は、白。
その鮮明な色を裏切らない、甘くて香りのいい果実だった。

起きてから、水を摂らなかった喉に、果汁は染みていく。
満足したところで、甘い香りのついた手を、小川で濯ぐ。
冷たい水に誘われ、ラナーンは顔も洗った。


濡れた顔を横へ向けたら、見慣れた長身が、背の低い草に埋もれている。
もしかして、と思い音を忍ばせて近づいた。
しかしアレスは更に上手だった。
眠っているはずなのに、気配に気づいた。
目を開けたと同時に、ラナーンがアレスに襲い掛かる。

川で冷え切った指先でアレスの首筋を包み込んだ。
ふいうちで弾けるように転がったアレスを見て、ラナーンが声を立てて笑った。

アレスと二人。
お互いの距離を測るような沈黙は、嫌だった。




「場所が場所なら首を斬られてたぞ」
足音が響く川原だからいい。
見通しが利くし、何よりいきなり襲い掛かる人間はいない。

これが街の外なら。
確実にラナーンの首は落ちていた。

「いきなり剣を首に当てる人間に、手は出さない」
無防備に他人を近づけるだけでなく、触れられてようやく体勢を整えたアレス。
以前の彼だったら、考えられないことだ。
夜、十分に睡眠が摂れていないから。
そしてそれは。

「ごめん」
「何でお前が謝るんだ」

眠れないのは不甲斐無いラナーンのせいだから。

「ごめん」

ラナーンは謝罪の言葉とアレスを残し河岸を登る。
建物が密集した街の中心へ歩き始めた。
アレスの顔は、疑問符でいっぱいだった。
納得できないまま、溜息をつく。
首を振った。


「来い」
「アレス?」
アレスがラナーンを追い越し、街に入る。
人の往来が激しい、メインストリートと平行に走る裏道に出た。
湿気が多い道ではない。
風と光がよく通る、石畳で舗装された道だった。

そこを抜けると、目の前に市場が並んでいた四方に広がる道路と道路の中心、蜘蛛の胴体のような広場が広がった。






日が高くなり、野菜を扱った朝市は引き始めている。
そこに、アレスが慣れた風に近づいていった。




縞模様のテントの下に、宝石が並べられている。
連なる露天の中、たった一つの店の前でアレスは足を止めた。


「これだ」
市が並び始めたときから目を付けていた宝石。
隣国で採れる原石を加工、細工技術にもデュラーンは優れている。
宝玉も豊かだ。


青の石。


アレスが手を伸ばす。

「きれいだな」
深い青の耳飾だ。
涙のように小さな石だが、澄んだ色はラナーンの目を捉える。

アレスは装飾品を身につけない。
ラナーンに土産として持って帰って来たことすらない。
そのアレスが足を止めたことが、ラナーンには珍しかった。

硬貨と引き換えに、口の重い店主から石を受け取る。
服の中へ仕舞うと、何もなかったかのように歩きだす。

「出発は明日だ。必要なものは今日、買い揃える」
目を合わそうとはしないアレスの背中へついていく。








必要な会話以外は言葉を交わさない。
そうしながらも、両手は食料と衣類で塞がっていた。
夕闇が迫る。
太陽は紅く燃える。
二人の足は宿へは向かわなかった。



街の外れを流れる川へ行こうと、言い出したわけではない。
荷物を抱えながら、アレスが街の西へ進んでいった。
ラナーンは彼について行っただけだ。
一人で見知らぬ土地を歩き回る気にもなれなかった。



「うわ」
川辺に来て、ラナーンは声を失った。

「太陽が溶けてる」
いや、溶けているのは地上かもしれない。
水も、人も、草や木も。
すべてが赤になる。

流れる水面は目に痛いほど光を弾く。

「俺は言葉で表現するのがうまくない。俺が心の内を表そうとする度、お前は沈んでいく」
神々しいまでに光る川を前に、アレスが縁に腰を下ろす。

「おれは、今まで守られてばかりだった」
アレスを本当に理解しようと思ったことがあるだろうか。
与えてくれるばかりだったアレスの気持ちを、考えたことがあっただろうか。
知らぬうちにアレスに負担ばかりをかけている。

「それじゃだめだと思う。アレス、おれは」
振り返ったと同時に、アレスの手がラナーンの顔に伸びる。
殴られる。
近づく手を見て、反射的に目を瞑った。

女々しいラナーンに苛立って手を上げる。
予想した衝撃。
しかしそれは、やってこなかった。
温かい手で、横髪を掻きあげられる。
柔らかい耳に触れる、アレスの手が熱かった。

「アレス?」
目を開いたときには、アレスの顔は遠ざかっていた。
指で、自分の耳に触れる。
垂れ下がっているのは水滴のような、滑らかな石だった。

「これは、さっきの」
「朝、見つけた」
「意味がわからない」
時々起こる、アレスの奇妙な行動。

「意味なんてない。いや、どうだろう」
「どっちだよ」
あるのかもしれない。
ラナーンの笑顔が欲しかった。
城にいた頃のように、それ以上にラナーンの笑顔を見ていたい。

冷め切っていた空気を、壊したかった。
それはアレスも、ラナーンも思っていたことだ。
同じことを思っていながら、通じ合えない心がある。

「俺が怖いか」
「何言ってるんだよ」
「俺は殺したんだ」
「でも、そうするしかなかった。殺さなくては、殺されていたんだ」
アレスは俯いて、ラナーンに目を合わせない。
なぜ?
殺してしまった罪の意識からか。
違う。

ならば、何のために?



そうか。
ラナーンは少しだけ、耳飾の意味がわかった気がする。
アレスも、ラナーンに近づきたかったのだ。
避けていたのはどっちだろう。


剣を抜き、獣(ビースト)の命を奪った。
剣だけでなく、体も血にまみれた。
近づけば鉄臭い臭いが湧き上がる。
ラナーンを近づければ、また死の瞬間を思い出させることになる。
ラナーンが、アレスを怖れることを思って。



怖れられることを怖れた、アレス。



「怖くない。アレス、おれを嫌わないでくれ」
「どうして俺がお前を嫌わなくちゃならないんだ」
「いつまでも与えられるばかりだから。子どもじゃないのに」
自分のわがままさを、知った。
無知で無力なことを、知った。

「何もできない。自分のことだって、何も」
呆れられたくない。
アレスを不安に追い込みたくない。



嫌われることを怖れた、ラナーン。



どちらも根底は変わらない。

同じだ。
たとえ思いが通じていなくても。
同じなんだ。
嫌われたくない。
嫌わないで。
もう、失いたくないから。


気が抜けた。
ラナーンは色を濃くした太陽と、染められた景色を川越しに眺めた。
草に寝転がる。

「ああ。デュラーンの草のにおいだ」
うつ伏せて、毛の短い草を握りこんだ。


「嫌わないでほしいと願うことは、虫が良すぎるのかな」


「王やユリオス、エレーネたちのことか」
穏やかな空気を、掻き回した。
取り返しのつかないことをしてしまった。

もう二度とこの草の匂い、この風を感じたり、地を踏みしめることができないのだと思うと胸が痛くなる。




「おれは帰っては来れない」
城に踏み入れることは許されない。

「エレーネに恥をかかせた」
泣いてはいけない。
涙を流しても、取り戻せないのだから。

「父上は、お怒りだろうな」
決して消えない怒りの炎。
いつまでもそれは胸の中でくすぶり続けるだろう。

「そんなことで、嫌いになるか」
「そんなことじゃ、済まないんだ」
捨てておいて、後で取り戻しに帰る。
そんなことできるはずもない。

「そんなこと、だ。今まで愛した父親やユリオス、エレーネの愛情に比べたら、些細なことだろう」
「ひどいことを言っても?」
恨みこそすれ、もう愛してはくれない。

「俺はお前を大切に思っている。兄弟のように育ち、暮らしてきた。それは王やあの二人だって同じことだ」
そんなことぐらいで、消えはしない。

「望むのは、幸せだ。それが愛情ってものじゃないのか」
好きな人には笑っていて欲しい。
悲しんで、苦しむ顔は見たくない。


迷惑をかけた。
行方を眩ましたラナーンを追う兵。
婚礼の準備を進めていた、その後始末。
城中が今、大騒ぎになっているのは想像するのに難しくない。
その元凶のラナーンを、無条件で愛してくれるなどあり得ない。
城の中で育んできた愛情のすべてを失うことでできた傷口は、膿んで疼く。


ラナーンは気づいていない。
そのラナーンの苦しみを理解しようとしているアレスを。
傷口を埋められないことで自分を責めるアレスを。


言葉では限界を感じる。
その傷口を癒せはしない。
だからアレスは、ラナーンの頭に手を乗せた。
洞窟の中で剣を握った大きな手は、今は温かく心地いい。




「俺はすべてを守ることなんてできない。無力だからだ。でも、ラナーン」
世界を守るなんてできない。
万人を救うなんて英雄にはなれない。

「お前とお前の周りの世界だけは、守る。死ぬなというのなら、どんなことをしてでも生きてやる」
俺はお前の世界の一部だから。


「だから、離れるな」


顔を覆ってくれる草と闇。
その中でラナーンは息を殺して涙を流した。


今、アレスの手だけは、ラナーンをわかってくれる。
その苦しみを、悲しみを、わかろうとしてくれた。
強張った心を解そうと、優しく撫でる。

その温もりが、ラナーンの心に染み入る。





冷えてきた。
ラナーンは乾きかけた頬を持ち上げた。
視界が狭くなったと思ったら、闇が迫っている。
空には小さな星が、散っていた。
大きな空、本当に小さなことだ。
小さな存在だ。
アレスも、ラナーンも。
それでも生きようともがく。

小さな彼らの世界で。











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