Silent History 12





風が抜ける。
草が擦れあい、鳴く。
目を閉じ深く息を吸い込むと、デュラーンでの泉を思い出す。

降り注ぐ白い光を、湖面が弾く。
ささやく草の音は、子守唄のように心地いい。

なのに。

目蓋の裏では、赤が走る。
命を奪おうとした。
人でないもの。
だから罪の意識は薄れるのか。
薄れはしない。

あれは、人の目をしていた。
体毛に覆われ、四つの脚を地につけていても、意思のある目をしていた。
向けられる憎悪と殺意で、身がすくんだ。

殺せない。
殺すのが怖い。
死を近くに感じるのが恐ろしい。
罪を負う勇気がない。
その重みに耐えられそうにない。

これは、いい訳だ。
そう、都合のいいように解釈しようとしている。
それで逃げようとしている。
だから、アレスはラナーンを見限った。
その目に失望の色が明らかに現れた。

アレスにそのような顔をさせてしまった。
弱い自分が、嫌になる。



「ラナーン」

目を開く。
顔を上げた。
目の前が緋色に染まる。
洞窟の中の両手を思い出し、きつく目を閉ざした。

違う。
違う。

「ラナーン」
もう一度、呼ぶ声。
夕闇が空の端に迫ってきている。

「光を取り戻したっていうのに、また夜が来る」
目の前に迫る街へ歩き始めた。
先を行く、アレスの姿を追って。






声で目が覚めた。
ラナーンは半分眠りにいながらも、耳をそばだてる。
歯を食いしばるような、短い唸り声が静まり返った部屋を満たす。

薄目の向こうで、アレスの顔がこちらを向いていた。
眉間を深くして、目は堅く閉ざされる。

細かな表情まで目で捉えられたのは、窓から差し込む月光が照らしたからだった。
カーテンのない部屋で、ちょうど窓枠に収まった円に近い月が、目に痛いほど白い光を放つ。

音を立てないよう注意して、ラナーンは寝台から抜け出した。
アレスの枯葉色をした髪が光に透ける。

どのような夢を見ているのだろうか。
今日襲ってきた、獣(ビースト)と眠りながら戦っているのだろうか。
ラナーンを守ろうとして、剣を振りかざしているのだろうか。

「守れないから。自分の体さえも」
守られることが当たり前だった。
危険に晒されることすら、なかった。

知らなかった。
そのことが一番、許されないことだ。

「ごめん」
指を汗で湿ったアレスの髪に絡ませた。

「情けないよな」
眠りが浅いだろうアレスを慰めるように、髪を梳く。
幼かったラナーンに、母親がしてくれたように。

「平気だから。もう、アレスを困らせないから」
だから、眠ってくれ。

ラナーンの祈りが届いたのだろうか。
母親の思い出が、手を貸してくれたのかもしれない。
アレスの寝息は、穏やかになっていった。

ラナーンは、寝台の隣に寝かしてある剣に目を向けた。
刃こぼれせず、水を含むと青く光る。
魔力を帯びた剣は、今は鞘の中で眠っている。

あれは、殺すための剣だ。
いくら美しく刃が光ろうとも、血を受ける。
命を吸う。

それは、罪なのか。
誰も答えてはくれない。

アレスが落ち着いたのを見て、ラナーンは自分の寝台へ戻った。

考えなければならない。
目を瞑って、心を落ち着けて。
考えよう。
受け入れるばかりだった、城の中。
ここは今、外だ。
動かなければ、何も手に入らない。
頭を動かし、体を動かして、考えよう。

納得できる、自分なりの答えを。





アレスの朝は早い。
今日こそはラナーンの方が先に目が覚めると思っていた。
隣を見たら、きちんと畳まれた布が、寝台中央に置いてあった。
美しく折られた四角にも、隙がない。

窓を開けた。
まだ日は高くない。
朝の少し冷えた空気が、鼻と喉を通る。
それでも人は動き始めている。

「そうか」
ラナーンは東を見た。
時間が早いわけではない。
陽が上るのが、遅いのだ。
クレアノール山脈が、地平線から顔を覗かせる日を遮っている。

「また、寝すぎたかな」
外を散歩してみようと思った。
剣は、どうしよう。
アレスが寝ていた寝台の隣を見た。
壁に立て掛けられていた剣はない。

このまま空になった部屋に、デュラーンの宝剣を放置していくのはいけない。
長くて邪魔になるかもしれないが、慣れなくては。
ラナーンは佩刀する。

宿を出るときにすれ違った主人に挨拶をし、しばらく街を歩いてくる旨を伝えた。
人の良さそうな男だ。
笑顔で禿げた頭を小さく下げた。


ノースフラネは、クレアノールの向こう側、ルニエとは違った。
同じような市場を想像していたが、より活気付いている。
ノースフラネ、それより南のフラネ、イーストフラネの三都市は名前以上に商業的交わりが深い。

農産物が豊かなこの土地は、市場も一層賑やかだった。
野菜や果物が色鮮やかで美しい。

一人で市場を歩くことなど、今までになかった。
市場そのものも、目に馴染むほどには踏み入れていない。
ラナーンはどこまでも別世界に生きてきた。


テントの下に、老婆が座っていた。
目の前の木の箱には、織物が掛けられ、赤と黄の果物が乗っている。

「めずらしい? 坊や」
じっと眺めていたラナーンに、老婆が下から顔を覗き込んだ。

「ああ、ごめんなさい。見たことがなくて。きれいだ、こんな赤」
「私の愛情と太陽の光で作ったもの。子どもみたいなものだよ」
彼女はしわだらけで日に焼けた手を、果物に伸ばした。
布を取り出すと、実の表面を優しく磨く。

「ほら、顔が映りそうだろう」
ぼやけて、歪に伸びたラナーンの顔の輪郭が紅く映る。

「おいしそうだ。それ、ください」
「ありがとう。一人でお買い物?」
「連れが、いるんだけど。兄のような人なんだ。でも、早起きだから」
「あら、私と一緒ね。年を取ると、どうしても早起きになってしまう」
手と同じ、しわだらけの顔。
それでも笑顔はとても美しかった。
生きる力に満ちている。
太陽を浴びているから、だろう。

「これ、そのままでいいの?」
「うん。すぐに食べるから」
受け取った果物を太陽の光に当てる。
赤がさらに鮮明に輝く。

「同じ赤なのに」
血も、果物も。

「どうかしたの?」
「似てる。連れも、あなたと同じ。太陽のにおいがするんだ」
真っ直ぐで、いつも笑っている。
ふざけて、冗談を言って笑っているのに、いつも真面目だ。

「あなたはすごいね。元気をくれる。胸が温かくなる」
「そんなこと言われたの初めてだわ。それもきっとこの果物と同じ」
太陽の力。
眩しいだけのものだったのに、草や木に力を与えるんだ。

「ありがとう。ずっと狭いところにいたんだ。今やっと、抜け出せた気がした」
太陽を知ったから。
広い空を知ったから。

「世界は広いから。まだ若いんだし、見てみるといいよ。私は少し遅すぎた」
言っている彼女に、後悔はない。
彼女は彼女なりに、世界を見てきたのだろう。

「そうする。ありがとう」
紅い果物を片手に、ラナーンは露天を去った。
アレスはどこだろう。
何を見ているのだろう。
そう、思いながら。













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