Silent History 11





これが、現実なんだろうか。

だとすれば、今まで過ごしてきた日々は、穏やかな時間は。

彼と共有してきた時間のすべてが、自分にとっての 現実のすべてだと、思っていた。



あれは、何だ。

金属音が、高く鋭く声を上げる。
耳を塞ぎたくなるような音。
それでも腕は、動かなかった。


叫びたくなる。
咆哮に包まれて、声を上げなければ、気が狂いそうになる。



ここは、どこだ。



デュラーンだ。
異世界でも、物語の世界でもなく、生まれ育った世界だ。


アレスは間合いを取り、上段に構えた剣の下で相手を見据えた。

少しでも相手が踏み込んで来ようものなら、即座に脳天を叩ききることができる。

だが、本能というものは恐ろしい。
それとも、これが意思というものか。

走り出した相手の標的はアレスへではなく、剣先を下へ落としたまま立ち尽くす、ラナーンだった。


重心を後ろへずらしたまま、半ば逃げる格好で
飛び込んできた獣(ビースト)を剣で払う。

「腰を落とせ!」

とっさにラナーンを庇うこともできず、アレスは叫ぶような声を投げつけた。

重心が倒れたままでは、満足に斬ることも叶わない。

後方へ飛びのいて、間を取る。
剣を中段に構え、アレスに学んだ通りに腰を真っ直ぐに立て、重心を安定させた。


先に斬り込んだのは、獣の方だった。
息が上がり、あえぐように開かれた口からは、長い牙が覗く。


そして、爪。


覆いかぶさるように襲いかかってきた獣の腹に、下から剣を突き立てた。

間近に迫った目と目。
吐き出される生温かい息。
断末魔の唸り声。


金瞳、その中でゆっくりと、瞳孔が弛緩していった。

ヒトのように。


ラナーンは声を失った。
叫ぶことも、呻くこともできない。
大きく開いた黒の目が、死んでいく獣の目を見つめていた。


爪は、ラナーンの肩を裂いていた。

突き上げた剣は、どうなっただろうか。
獣の体で遮られ、見えない。

アレスは。

動けぬ体で、その名前を呼びたかった。

「ここだ」
汲み取ったように、低く呟いた。

アレスは獣の背後にいる。
彼の剣は、背中から心臓の中心を貫いていた。

真っ直ぐ突いた剣に、絡みつくように息のない獣があった。
アレスの剣が獣の致命傷となったのは、明らかだった。

剣を引き抜かれ、投げ捨てられるように
ラナーンから引き離された獣は、その体と同じくらいの大きさだった。

ラナーンの剣は、獣のわき腹をかすったに過ぎない。


目を見開き、空中一点を凝視しているラナーン。
目には、脳裏には、消えることない獣の目が焼きついて離れなかった。

崩れ落ち立ち上がろうとしないラナーンの肩を、抜き身のままの剣を片手に、アレスが揺さぶった。


「おい!」
ラナーンが剣を放し、右手を持ち上げた。

胸の辺りを握り、手を開いた。
恐ろしくて、視線を落とせなかった。
服に染み込んだ生温かいものの正体を、知りたくなかった。

薄暗い洞窟内でも、分かる。
湿り気を帯びた、生臭い匂いが顔にまとわりつく。

「血」
「お前のじゃない」

放心したまま、手のひらを染めた赤を眺めていた。




剣を置いたアレスが、強く両肩を掴んでいた。
焦点の合わないラナーンを現実へ引き戻そうと、アレスは薄い肩を揺する。

ラナーンが痛みに眉を寄せた。
アレスのせいではない。
肩が紅く染み付いている。
布を裂き、皮膚まで達した創傷が、いまさらながら痛み出した。

「これは」

アレスが息を飲む。
吐き出される言葉もなく ラナーンの肩に残された、獣(ビースト)の爪痕へ恐る恐る指先を沿わせた。

「くそっ」












「アレス。気持ちが悪いんだ。これを、落としたい」

アレスは、ラナーンが落ち着くまで黙って側にいた。
ラナーンから話しかけなければ、何時間もこの場で二人、座ったままだっただろう。

「それに、それ」
刀身にまとわりつく、乾き始めた血液。

「早く、拭わないと」
懐から、紙を取り出す。
丁寧に白刃から赤を払うと、冷たくなった剣を鞘に収めた。

「あっちに川がある。水量は多くないが、そこでなら」












軽口の一つでも交わせれば、元通りになるのに。
こんな、痛々しい空気は嫌だった。

「怒っているのなら、謝る」
怖くて、動けなかった。
初めての経験だったから。

大量に流れ出す血も、剣が裂く肉の感触も、目の前で起こった死も。


しかし、それが言い訳にならない。

アレスが背後から剣を突きを入れたからよかった。
襲いかかられたのが、爪だったから、死なずに済んだ。

怖かった。
動けなかった。
だから、手は動かず、逃げることも戦うこともできなかった。
次からは同じようにはいかない。
確実に、命を落とすことになる。
ラナーンだけでなく、アレスもともに。



水音が、少しずつ大きくなっていく。

山の上に降る雨が土中を染み入り、ろ過され澄み切った水を生み出していた。

「こっちだ」
水源をアレスが見つけた。
水量はない。
小川と呼ぶにも憚るほど、細い水の流れが、溝に沿う。
アレスの言った通りだ。

浴びるほどには湧いてはいなかったが、血を洗い落とすには十分だった。

「上着を」
湿った上着を受け取ると、アレスは岩の溝を削るように走る湧き水に浸した。

「肩、見せてみろ」
「牙じゃない。菌は入ってないと思う」
「いいから」

肩を半分、外気にさらした。
湧き水の側。
空気は澄み、何もつけない肌には涼しすぎる。

思ったほど深くない傷に、アレスは知らず安堵の息を漏らした。
重なった服の布地が幸いした。
薄く横に走る傷口は、皮を裂いただけだった。

「すまない」
アレスが裂けた皮膚を洗い清める。

「何が」
何度も手のひらに汲み取られては、肩へかけられる水が冷たかった。

「謝ることなんて、何もない。それどころか」
アレスは、ラナーンの命を護ったではないか。
近衛としての職務を、きちんと果たしている。

傷口を布で拭い終え、肩に服を被せた。
小さなささやき声でも、驚くほど反響する。

「剣を持つ資格すらないんだ。斬れない剣なんて」
自分の身すら守れないなんて、情けないにも程がある。
その呟きに、アレスは答えてはくれない。

「獣の目を見ただろう」
アレスはラナーンの剣を手に取った。
城の宝の一つだ。
父から与えられた宝剣を、誰の手にも触れさせたことはなかった。
アレス以外には。

剣を水に入れると、青白く刃が光を帯びた。

「あれを見るといつも思う。獣とは、いったい何なんだろうと」
切っ先にこびりついた血痕が、冷たい水に洗われ溶けていく。

その様を、アレスは何も言わず、見つめていた。
顔は下から湧き上がる光に、青白く照らし出される。


獣は、なぜ人間を殺そうとするのか。
喰らうためか、そうではないのか。
そして、彼らはどこから来るのか。

そこに、すべてがあるような気がした。


クレアノールはもうすぐ終わる。
光が、戻ってくる。

















何時間、薄闇の中を歩き続けていたのだろう。
長く感じたのは、錯覚か。現実か。
アレスが、何を考え込んでいるのか分からないまま
会話らしい会話もせず、ただほぼ一本の道を進んでいった。

途中、何人かすれ違うこともあったがその誰もが、屈強な男たちだった。

上下左右、広く掘られ、整備されたトンネル。
暗闇の先に、小さな白い点が見えた。

「出口だ」
知らず、ラナーンが漏らした。

半日ぶりの光が、懐かしい。
目の前が、鮮やかな緑に覆われた。


光が、こんなに人間を安心させる。

草原が広がる。
緩やかな弧を描いて、土道が伸びている。
その先端には、街が連なっていた。

アレスを見上げた。
真っ直ぐに、揺ぎ無い目で、街を見据えている。
あれが、ノースフラネ。

デュラーン王、ディラスの息子でありながら
デュラーン王国内の街に、出向いたことはなかった。

親密な交流のある、隣国ファラトネス。
同じ島国の隣国へ赴くときでさえ、民衆の目を避けるように移動した。

改めて思う。

守られていたことを。
常に付き添うアレスをはじめとした、近衛たち。
人目に触れないよう帳の掛けられた車。
何よりも
長兄以下は十八まで、その素性を知られてはならないとされた法に守られていた。

城壁の中に、さらに高く強固な壁に囲まれていたのだ。
甘さばかりを知り、現実の渋みを知らず育った、ラナーン。
しかし、死はすぐ隣にある。

憎しみか、怒りか。
光を放つ目から、命が消えていった。
死は、獣(ビースト)にも、人間にも、平等に与えられる。

死にたくないなら、死を恐れるなら、震えている暇はない。
立ち上がり、戦う。
自分を守る。
それだけだ。



「お前に剣は、抜かせない」




ラナーンを見ず、小さくまとまる街を、この先を
痛いくらい真っ直ぐな澄んだ瞳で、アレスは見つめたまま。

咄嗟に、切り返せなかった。
アレスの言葉の意図が、見えなかったからだ。

聞き返すため、真意を問うため、アレスの名を呼んだ。
答えは、返ってこない。

目を合わせようともしない。
アレスは、それ以上何も言葉をくれることはなかった。

その口調は重く、ラナーンが踏み入ることのできない深みを抱えていた。


失望したのだろうか。
城を出ても何もできない、ラナーンに。

アレスに守られているだけ。
命を懸けて戦う中、人形のように立っているばかりでは
ラナーンばかりか、アレスの命まで削りかねない。

もう、ラナーンは守られる王子ではない。
城壁はない。
自分の命は、自分でしか守れない。

それすらできないラナーンへの、アレスの失望。

安穏と暮らしてきた。
平和な世界が当然あるものと思ってきた。

そのすべてが、今はもう、どこにもなかった。




光は、心の平安を与えてくれる。
隠れたものを照らし出し、物事の真実を明らかにする。

ラナーンは、それに今、恐怖をも感じていた。

見えなかったものをさらけ出し
見ようとしていなかったものを、突きつけられる。
それは、現実。
それは、痛みや苦しみ。
卑小さ。
醜さ。
恐怖。
不安。

それに、無力。


ラナーンは、光の下に出た。
アレスは、城の陰に隠れていたラナーンの負を、目にした。

アレスが漏らした言葉は、ラナーンにとって
ラナーンの未熟さを嘆いたものにしか、思えなかった。













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