Silent History 08






人間の体は半分以上が水でできている。





水を通して伝わる力が、それを教えてくれる。






ラナーンは、ひとり
地下の水部屋で大きく息を吸った。

ここへ来るといつも、デュラーン王国の水の豊かさを思う。



隣国以外の外国へ出たことはない。

書物で得る知識しかなくても、分かる。


王宮では至るところに水が流れている。
街中でも、同様。
水路が張り巡らされている。


この城の地下にも、水が走っている。
水が、エネルギーを循環させているのかもしれない。

石の床へ膝をつき、水路へ右手を肘まで深く沈める。


皮膚を越え、体液と水とが同化する感覚。
体の奥に、静かに燃える炎が灯る。



これが、魔力。



水底に横たわる、水部屋の主に手を触れた。

冷たい感触。



おはよう。

時間だ。

ここは心地いいけれど。

もうここには戻れないんだ。

おれたちは、行かなきゃならない。

これからは、おまえが頼りなんだ。

だから、連れて行くよ。



ラナーンは、そっとそれを持ち上げた。

惜しむように水を滴らせ、剣はラナーンの手の中で青く浮かび上がった。










静かな夜は、嫌いではなかった。
白い月を眺めるのは、むしろ好きだった。
けれど、これほどにまで沈黙が痛々しいのを、ラナーンは感じたことがなかった。


鳥の空気を削り取るような鋭い声が、澄んだ空気を貫く。

静寂が不気味だと感じるのは、ラナーンの主観。
ラナーンの心が、何もかもを憂鬱に塗り替えていく。

後二年。
成人すれば、城外の人間にこれがラナーン、王の息子だと公にできる。
そうして温かく次期王の補佐として迎えられる。

ラナーンは、平穏を愛していた。

ずっとそんな世界が続くと思っていた。

それが、今

宝剣を鞘に収め、ただ一人、夜風に髪を弄らせている。

さよならを告げず、孤独のまま育った城を発とうとしている。



自室から戸外へ脱出するのは容易だった。
窓は開放されているし、夜中の場内は人も疎らだ。

城壁と城との狭間が問題だった。
警備の兵が夜通し警戒している。

小国であり、土壌は富み、治安も行き届いている。
賊が堅牢な城に入り込む可能性は薄いが、警備は万全を期していた。

その夜警は、城壁より高い問題だ。



足元で、小枝が弾ける。
草が擦れる音がする。
足音を忍ばせていても、経験の浅さが足元で音を立てた。

兵のおおよその行動パターンは頭に入っている。
自室から野外へ飛び出す露台は、絶好の観察場所だった。
兵の動きは、覚える気はなくとも、自然と脳に染み入っていた。

規則正しい動きで歩く衛兵。
彼らの間を縫うようにして、広い庭を抜け、ようやく城壁沿いまでやって来た。

幸い衛兵は誰一人として、ラナーンの陰すら気付いてないようで騒ぎは起っていない。


樹で完全に姿が隠れるところまできて、ラナーンは小さく息を吐いた。

腰から下げたままだった剣が、重かった。

アレスから、剣の指導は受けている。
真剣を握り、火花が散るまで競り合うこともあった。

それでも、今夜のように腰から下げたままということはなかったし
城の敷地内で、帯刀することもなかった。

身に着けているものは、一つの布袋と一振りの剣。

だからこそ、余計に重みを感じたのかもしれない。






壁に手を当てた。

広大な領地を囲む、外と内の境界。
いつもそれがとても高く、厚く、重く感じてきた。

子どものころ、近くに駆け寄っては下から見上げた。
首を反らせても、壁の頂上は遥か向こうで、手を伸ばしても届かない。

どれだけこの石は厚いのか。
この向こう側には何があるのか。
知りたい反面、恐ろしくもあった。

壁があるから。

強く外に出たいと望むことはなかった。


引き止めるものが多すぎるから。

束縛が、ラナーンの翼を絡めていた。


飛んだことがない。

飛ぼうと翼を広げたことのない鳥は、
広大な空と、地のない空間を恐れていたのだ。






もう、子どもではないラナーン。

壁は越えられる。
それだけの力を持っている。


恐れるものなどないと分かってはいても
踏み入れる新世界が、怖かった。

一人で生きていけるだろうか。

そればかりが、先に立とうとする。

このままでは、行けない。

引き返せないところまで来たのだから。

ラナーンは、掴む壁の石へ指を食い込ませた。
顔を上げて、茂みを息を詰めて進む。












音もなかった。

ただ、頬にかすかな風が触れた。
それだけだった。





突然背後から右腕を乱暴に引かれる。

不意打ちに加え、力一杯引き込まれたため、大きく後ろへバランスを崩した。

気配はしなかった。

声を上げる直前に、口を大きな手で塞がれた。
叫ぶ隙も与えない早業だ。


衛兵ではない。


それだけは確かだった。

衛兵ならばこんな真似はしない。
不振人物を発見したら、声を張り上げ応援を呼ぶはずだ。


考えた途端、戦慄が走った。


何者だ、と頭のなかで繰り返す。

抵抗するが、敵わない。
鼻を残し、口は完全に覆われている。

手のひらに噛み付いてやろうかと思ったが、背後を取られ頭を固定されていた。

もがくことはおろか、顎も動かせない。
背中に密着している人間の片腕に
二本の腕を押さえつけられ、逃れることも不可能だった。




このまま、誰に知られることもなく殺されるのか。


そう思うと、空しさと悔しさがこみ上げてきた。

一生であるかないかの一大決心をしたその夜に
実行できないまま人生を終えるなんて。





「見つからないとでも思ったか」

低い声がラナーンの耳を撫でる。
弦楽器を擦るような、艶のある男声。

背後の男がラナーンの口元から顎に手を滑らせた。



「声を立てるなよ」



脅迫だ。

指先は既に温もりを失っていた。
恐怖で肩が小刻みに振れていた。

男の目的は何だろう。


宝物庫の場所か。

王の居場所か。

金か。

腰に備えている剣は、何の役にも立たなかった。
ただの飾りだ。
抜くことも、それで相手を斬ることもできないのなら。

悔しくて、情けなくて、恐ろしくて。
さまざまな感情が混沌としている頭は、どうすべきなのか判断を下せなかった。

殺されるかもしれない。
にじんだ視界を遮るように、きつく目を閉じた。








突如、首筋に細い笑い声が触れる。
おかしいのを、必死にかみ殺そうとしているのがわかる、その笑い。

ラナーンを押さえつける腕が緩んだ隙に、体を滑らせ抜け出す。
十分な距離を確保して、振り返った。

相手はラナーンを再び捕まえる気はないようで、身体に触れてはこなかった。

顔を上げて、暗闇の中に浮かぶ男の顔に目を凝らす。

雲で薄れた月明かりの下、ラナーンは息を呑んだ。






「静かに」

言ったのは、ラナーンではない。

相手がそう言ってくれなかったなら、大声で叫んでいただろう。

「アレス」

精一杯、声を絞って叫んだ。
彼は頷く。
深い茶色の髪をした長身、湖の辺で眠っていたラナーンを目覚めさせた、男だ。

「笑いを堪えるのに苦労した。闇に紛れるどころか、かえって浮いて目立っていたぞ」



まるで始めから観察していたかのような口ぶりだ。

「いつから見てたんだ」

「俺だったら、部屋を抜け出す時に布を垂らして壁を降りたりはしない」

暗闇に包まれていて本当によかったと思った。
今のラナーンの悔しそうな表情を見れば、アレスは間違いなく声を上げて笑うだろう。



何をするにも、ラナーンはアレスの上を行くことができない。
アレスはいつもラナーンの行動を先読みして、一歩前から振り返るのだ。

「しかし、衛兵の横を通る時は寒気すら感じた。いつ見つかってもおかしくなかったぞ」

口調と発言が食い違っている。
笑いを噛み締めた言葉に、真剣さの欠片もない。
ラナーンはいたって真面目に、脱出計画を立てたというのに。

見るに見かねてラナーンを捕獲したとアレスは説明した。



「本気で怖がってくれたわけだ」

これにはラナーンも口調を強めて反論した。声のトーンはもちろん落として、である。

「わざわざ声色を変える必要もなかっただろう」

「もう十年以上も一緒にいる俺の声がわかるかどうか、試してみたんだ」

結果は酷いものだったが。

「まさか、こんなところにアレスがいるだなんて、誰も思わない」

もっともな意見だ。
ここでようやく、ラナーンは一番重要なことに気付いた。

「ところで、何でアレスがここにいるんだ?」


人々が寝静まった真夜中の城壁内を一人で散歩する趣味など
アレスにはないはずだった。

「俺にはお前のお守りという、大切なお仕事があるだろうが」

ラナーンの側にいて、ラナーンを守る務めを負う。
王は、アレスの幼い頃からその太刀筋に一目置き、彼をラナーンの側に据えた。

ラナーンを守るべき立場にいるアレスが、なぜ城壁を越えようとするラナーンを止めたのだろう。


ラナーンは納得がいかなかった。
傍観していたなら、そこまで放置せず部屋を出る前に止めればいい。
本気で職務に忠実ならば、あからさまな方法で抜け出しを試みているラナーンを止めていたはずだ。



「もう、その役目も解ける」

「お前にその権利はない」

「父上が決めたからか」

王であるラナーンの父は、絶対だ。




「俺が決めたからだ」




アレスのあまりに堂々とした態度に、思わず首を縦に振ってしまいそうになった。

「アレスの意志など関係ない」

「あるさ。俺がその役目を望んだからだ。実力はある。結果はついてくる」

この上なく不機嫌なラナーンの口調にも、アレスは落ち着いたままだ。

「俺はお前を守らなくてはならない」

父も家族も捨てる覚悟はできている。
アレスが止めようとも、振り切ってでもこの城壁を越えてみせる。

「それももう、終わりだ」



守られる理由はなくなる。

ラナーンが王の子でなくなる以上、アレスが守る必要はない。

「ここを出るからか」

知っているのは、ユリオスだけ。
兄が、アレスに情報を漏らしたのか。

「連れ戻されるつもりはない」

「連れ戻すつもりはないんでね」






話が見えてこない。

「言っただろう。俺はお前を守らなくてはならないと」

何が、言いたい。

「ついて行く。嫌われようと、何しようと」

ただのラナーンを、守るだと。

「壁を越えたらもう主従じゃないんだろう。これは、俺の意思だ」




城を、出ることになる。
何もかもを捨てて、のことである。

「何、言ってるんだ?」

ラナーンが顔を伏せた。



言葉は嬉しい。
アレスがいれば、何でもできる気がする。
不安など、消し飛んでしまう。
しかし、嬉しいばかりではなかった。

「わかってるのか。デュラーンには帰ってこられないんだ」

言った声は、悲しみに満ちていた。
独りは、たまらなく心細い。
だからといって、アレスの人生を巻き込むわけにはいかない。

「いつ帰ってこられるのか、わからない」



「覚悟など、ずっと前からしている」



振り切れない。

アレスの意思は、ラナーン以上に強い。



「すべてを、残していくんだ。友人も、大切なものも、何もかもみんな」

顔を上げないままの、悲痛な叫び。


「すべてじゃない」


その言葉に、ラナーンが目を開ける。
それだけで、十分アレスの心が伝わった。

「父上を、かわいそうに思う」

その顔にはうっすらと笑みを浮かべていた。

「優秀な人間を一人、手放すのだから」

アレスは確信する。

どうあっても、アレスにとってラナーンは主であると。
許しを得てしか側にいられない事実に、内心苦笑した。




ラナーンは、聳え立つ壁を見上げる。

「登れますか?」

からかい口調のアレスが城壁を手の甲で叩く。

「さっきまではずっと高く思えたのに」

なぜだか今は、楽に越えられる気がした。













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