白の庭で






フレデリカ・ジェンダーは言った。

「この世に、愛などない」と。

それが、経済学者としての観点からの分析なのか
それとも、彼女自身の体験に由来する発言なのか、気になった。


答えは、すぐに見つかった。


いえ。その逆。


答えは、ずっと見つからないのかもしれない。

そのインタビューの後、数え切れないほどの記者から
なぜそのように思うのか、と質問が絶えなかった。

彼女は答えなかった。
ただ、微笑を浮かべるだけで。




















「エマ」

呼ばれてわたしは、顔を上げた。
聞きなれた声。

声の音量からして、隣の部屋から叫んでいるのだろう。
返事を返すより早く、わたしは日に焼けた木の椅子から腰を浮かせていた。

わたしは長年窓の前に置かれているこの椅子が好きだった。
いつもそこにある、変わらないものの象徴に思えるから。
椅子の脚が、床板を削り取っていこうと
いつもそれは日の光を浴びて窓際にあった。


手にしていた本を、テーブルの奥へ乗せた。
端へ寄せられたカーテンの陰に、日を避けて置く。




「何でしょう」

開け放たれた書斎の戸口から声をかけた。
彼はちょうどわたしの名を呼ぶため、口を半分開いたところだった。

絶妙のタイミング。
まったく計っていない偶然、とは言い切れない。

彼は開いた口をそのまま、用件を言うのに使う。
その反応の速さと無駄のない動きに、感心した。

「あと二十分ほどで、ローランド叔父が来る」

部屋の中央に立ち止まり、腕組みをした不機嫌顔で苦々しく言った。
ローランド様は、彼が最も苦手とする人種だったから。




「お昼をご一緒されますね。ローランド様の分もご用意いたしましょうか」

「そうか。ああ、もうそんな時間か」

彼は乱れた髪に、手を差し込んだ。

わたしが聞きたかったのは
外で食事を摂るのか、家の食事を食べるのかという選択だった。

「もう食事の用意はしているんだろう」

ローランド様が来る予定はなかったので、彼の分の食事は用意していなかった。

「ローランド様お一人分でしたら、すぐにご用意できます」

若い主は頷いた。

「お茶もお持ちいたしましょうか」

「それまでには追い出すさ」

そう言うだろうと予想していた。

「いや、待て。やっぱり用意してくれ。そうだな、クッキーにしよう」

「分かりました。用意するよう伝えておきます」

この館が抱える料理人の焼き菓子は、ガスパレル街でも最上だ。
現主人の父君が、甘党だったことは有名で、それが長じて菓子職人を選り抜いてきた。



「違う。エマのクッキーだ」

「それは、わたしの仕事ではありませんが」

格別料理が上手というわけではない。

まして、あの堅物ローランド様の口に入れるとなれば
文句の十や二十は叩きつけられるのは確実。
料理人に頼めば待たせることもなく
ローランド様を十分満足させられる一品を焼き上げる。



「ご命令ですか」

「お願い、だよ」

「ならば、お受けするしかありません」

「大丈夫。叔父には食べさせないよ」

お茶の時間までに追い出す、という言葉を撤回するつもりはないらしい。

「残る問題は、ご自身だけですね。後十五分しかありません」

起きたまま櫛を通した様子のない、乱れた髪。
昨夜、夜着に替えることなく眠ったのだろう。
綿のシャツは胸元が開いていた。

「お召し替えのお手伝いをいたしましょう」

書斎の隣へと先導した。
主の着替えを手伝ったのは久しぶりのことだ。

わたしが、彼と出会ったのは五年前。
そのときには、髭を黒く生やした父君が健在だった。
幼い子どもはわずか十一歳だった。



ニスが滑らかな光沢をだしている扉を開いて、上着を。
その下からは美しい長方形に畳まれた、シャツを。
スラックスは、上着の側に掛けてあったはず。
最後に灰色の薄いソックスと、艶やかな皮の靴を用意した。



振り向くと、主が立っていた。

前髪、横髪が湿っている。
洗顔は終わったようだ。
手に一杯の彼の服をベッドの上へ下ろすと、洗面室へタオルを取りにいく。

「グレアム様、こちらへ」

近づいてきた主の顔を包むように、柔らかなタオルを押し当てた。


「体の調子は、どうだ」

「問題ありません」

タオルで髪の一房一房を挟み、髪の水分を吸い取っていく。

「おかしいと思ったら、すぐに僕に報告しろ」

「分かりました」

主の側でお世話をさせていただいているとはいえ
わたしは他の使用人と同じ立場に過ぎない。

わたし自身の問題で、主を煩わせることもないだろうという
判断がいけなかった。


立ちくらみを起こしたわたしは
階段を下る最後の二段を踏み外してしまった。

結果、落下の衝撃で腕を擦りむいてしまったのだ。




「傷の具合はどうなってる」

着替えが終わって、 シワの入ったシャツの回収にかかっていたわたしの背に
声がかかった。

右袖口のボタン五つを外して、肘まで引き上げる。

四センチほど浅く捲れていた皮膚は
薄っすら境界が浮き上がっているものの、今はほとんど傷口が消えていた。



「さすが、ドクター・ミハエルだ」

「五分前です。わたしは調理室へ。グレアム様も階下へお越しください」

その前にランドリーへ寄らなくては。

「前は、二時間だったかな」

「と、三十二分です」

ローランド様の訪問は、ちょうど三週間前だった。

「そうか。今日は二時間の壁に挑戦してみよう」













調理室へ行ったとき
エミリアは部屋の角で今月号の料理本に集中していた。

三度目に呼びかけて、ようやっと顔をこちらへ向けた。

月刊雑誌に掲載されているレシピを実現するのが、彼女の趣味だ。

しかし、気まぐれな彼女。
作っている途中で、レシピのままでは面白くないと
何かしら変わったアレンジを加える。

一度たりとも、レシピそのままに作られた料理はなかった。

それを、グレアム様は気に入っている。



「アルベルトさんは、どちらに?」

エミリアは厨房内を見回した。
忙しそうに、一人はフライパンを動かし
もう一人は皿に飾り付けをし始めていた。

料理長はいない。



「薬草園じゃないかしら」

「行ってみるわ。お客様がお見えになるの。昼食はもう一人分用意してほしい」

「了解」

厨房の戸口を一歩進めば薬草園だ。
少し進めば小川が流れ、水棲植物が、群生している。

クレソンを摘んでいるのだと思ったけれど
アルベルトさんの姿は水辺にはない。



「アルベルトさん」

そっと呼んでみると、熊のような背中が
わたしの側にあった茂みから持ち上がる。

「エマ。もうすぐ食事はできあがる」

「ええ。催促に来たわけじゃないの。ローランド様がいらっしゃいます」

「もう一人分ね」


抑揚のない口調だけれど、嫌がっているわけではない。
彼の性格は温厚で大きな波がない。

大きな体に、小さな瞳。
それには、優しい光が灯っている。

「間もなく見えると思うわ」

「すぐに用意するよ」

「お願いします」

わたしは、またハーブの茂みに沈んだアルベルトさんを見届けて
黒いスカートを翻した。













事務的に過ぎていく毎日。
繰り返される、同じ仕事。

嫌だとは思わない。

その繰り返される中で、いつからだろう。
グレアム様から、わたしだけのお部屋をいただき、眠るようになったのは。

わたしと少しだけ、距離をとるようになった。





ハーブ園から白い鉄柵を抜け、庭へ回った。

屋敷を三分の一周ほどすると、表玄関が見えた。
大扉の前で、わたしは白いレース縁のエプロンの上に手を重ね合わせた。




ローランド様が黒く光る自動車で現れたのは、予定の時間を五分過ぎてから。
前回、その前と同じ。


わたしと並んで表に出ていた、痩身黒服の使用人が
停まったばかりの車へ駆け寄った。

恭しく腰を屈めて扉を引き開ける。

ローランド様が両足を地面に下ろしたとき
わたしは全開の扉と階段の間に立っていた。



「お待ちしておりました」

首を振ることもなく、ローランド様は段へ脚をかけた。

「お食事は、お済みでしょうか」

返事はなかった。

「ご用意させていただきました。後ほど、食堂へご案内いたします」

ようやく、コンクリートで固まっているのではないかと思えた首が
微かに縦へ動いた。




木の扉を押し開けると、八センチほど隙間が開いたところで腕が楽になった。

内側から五人が迎え出る。
先ほどの使用人と同じ制服だった。
彼は今、黒自動車を玄関脇の駐車スペースへと誘導している。




エマ! と叫びかけて、最初の一文字で踏みとどまった。
声の主は、グレアム様だ。
わたしの向こうにローランド様を見て、表情は引き締まり戦闘体勢に入る。

「これは、ローランド叔父様。ようこそ」

両手を広げて、歓迎の笑みをこれでもかと見せ付けている。
作られた笑いを演出しているのが、憎らしいほどよく分かる。

グレアム様の軽口を真似てみれば、「額にカエレと書いてある」だ。






談話室へ案内してくれと命じたのは、他のメイドだった。

彼女の後へ着いていくよう叔父の背中に腕を回して、促した。
もちろん、ローランド様のスーツに指先さえ触れてはいない。

わたしは、立ち止まってグレアム様の指示を待っていた。



「エマ。きみは、食堂の給仕には加わらなくていい」

「はい」

「花を摘んできてほしい。庭の白い花。林の側だったかな。細長い花びらが六枚の」

「アネモネですね」

首をかしげた仕草が、慎ましい花。
白のアネモネ。


「あれをテーブルに飾りたい」

「わかりました」

「その前に、クッキーを忘れないでくれよ」

グレアム様は、湿ったように艶やかな茶色の髪の毛を揺らせて
談話室へ歩いていった。













「手伝おうか」

調理室でエミリアが、わたしの腕にあるボールを覗き込んだ。
ちょうど、バターを落としたところだった。

「でも」

「クッキーでしょう。小麦粉は、ああ、あっちに用意できてるわけね」

ふるいに掛けられて、美しい山形を形作っている。
砂糖も、その隣に。

「バター溶かすだけなら、やってあげる」

エミリアは、ボールを横から抜き取った。

「クッキーか」



バターに陰が落ちたと思ったら、
わたしたちの頭上から、アルベルトさんが顔を出していた。


「アルベルトさんには、敵いませんけれど」

首を回すと、染みの入ったエプロンに顔を突きつけそうになった。
天井を見上げるように、壁の頂上にアルベルトさんの顔を捜した。

「一つくらい、いただけるのかな」

「わたしのでよければ」

「エミリアも、手伝うのか」

「私はバター係」

「監視しとけ。何を混入されるか分からないからな」

調理器具を片付け終わり、彼は続きの部屋へ昼食を摂りに行った。

泡だて器を放さないエミリアに代わって
わたしが材料を投入する。




「ローランド様、私たちのこと嫌ってるわね」

「そういう人もいるわ。仕方がないの。区別されて当然よ」

「でも、ここまで潔癖なんて。特にエマに対しては」


わたしは、平気。


「グレアム様がいらっしゃるわ」

それはエミリアも同じこと。

ローランド様が主ではない。
グレアム様がいるから、わたしは生きていけるのだから。


「グレアム様、昔は眠るまでずっとエマを放さなかったのにね」

エミリアの腕が止まった。
わたしは、彼女から泡だて器を受け取った。

「大人になられたのよ。もう、お父様もお母様もいらっしゃらないのだから」





旦那様は、奥様を連れて海外へお仕事に行かれていた。

幼かったグレアム様は、召使に囲まれてのお留守番。
わたしが、グレアム様と出会って季節が一周回った頃だった。






「エマ、グレアムを頼みますね。あの子、エマの言うことなら大人しく聞くのだから」


苦笑気味で仰った、奥様。

わたしは、答えた言葉を思い出していた。

いつものように「分かりました。お気をつけて」と
それだけだった。

気のつく言葉一つも差し上げられなかった。
旦那様、奥様ともにわたしによく気をかけて下さったのに。

わたしもまだ、未熟だった。





その旦那様も奥様も
二度とこの屋敷には戻っていらっしゃらなかった。

旦那様と奥様が出席なさっていた国際会議。

突如一弾のミサイルで爆音に包まれた。

燃え上がる会議場を目にしたのはモニター越しだった。





最初で最後。


泣き叫ぶグレアム様を、わたしは胸に抱いていた。

一人になってしまった彼を
黙って抱きしめることしかできなかった。






「エマ、もう十分よ」

掻き混ぜ続けていたわたしの手に手を重ねた。
その言葉はわたしの手に言ったもの。

なのに、わたしの思い出を止めたように思えて
はっとさせられる。



「あなたは分かってないかもしれないけど、グレアム様はローランド様にあなたを近づけたくないのよ」

「ええ。知っているわ」

「分かる? その意味が」

「ローランド様はわたしたちのような存在と、甥が一緒にいてほしくないのでしょう」

「そうだけど、でも。それだけじゃないのよ」

言っている意味が分からない。



「エミリア。この世界に愛はないと言った女の人がいるわ」

「どんな人?」

「経済学者」

エミリアは、ナイフをわたしに手渡してくれた。

「なら、世界には何があるのかしら」

わたしは、細長く伸ばしたクッキーを等間隔に切っていく。

「愛じゃないとしたら、みんなが愛と呼んでいるものって、いったい何だというのかしら」



ミス・ジェンダーは何を思っていたのか。
わたしたちが到達できないその微笑の下には、何を秘めていたのか。



「システムね。そんなものよ、きっと」

「愛が?」

「感情が」


感情。


「人間の心、それを形作っている脳なんて、複雑奇怪な情報の集合体なのよ」

エミリアは、丸いクッキーをつまんで鉄板に並べていった。

「お仕事は、これだけ?」

「お花を飾らなくてはいけないの」

「オーブンの準備はできてるわね」

「後は鉄板を入れるだけ」

四角と丸のクッキーは列を成している。

「いいわ。片付けとクッキーの面倒は私が見てるから」

「わたしがやるわ」

「気にしないで。今度私の料理を手伝ってもらう」













アネモネの花はすぐに見つかった。

緑の中で、白はよく目立つから。
籠の中に入れていたハサミを取り出して、五輪の茎を切った。

アネモネだけでは寂しすぎるから。
白に合う色を探して、庭を散歩した。


閉鎖された空間だった。


外では職にあぶれ、ごみのように折り重なる
わたしみたいな者がいるというのに。

わたしには、メイドという役を与えられて、ここにいる。

それも、ご主人様がいるから。

良識と風格を備えた彼は、ご両親を失ってからも
一人でこの屋敷を支えてきた。

わたしは、グレアム様のお力に、少しでもなれたらと働いている。


「このまま、止まればいいのに」

幸せな時間が、変わらなければいいのに。

でも、現実にはわたしたちを疎む人間がいる。
階級も何も、違いすぎる。

ローランド様が特別というわけではなく、あの方が外の世界の表象そのもの。



「でもわたしにとっては、今いるこの世界こそが現実なのよ」



外も内も関係ないこの庭で、この屋敷で
エミリアやアルベルトさんたちやグレアム様と生きていたい。



籠は花で一杯になった。
片手で持つのには重くて、両手で籠を提げて館へ戻った。
















廊下に点在する細い花瓶に、アネモネを挿して回っていた。

片腕に垂れるように溢れていた花は、随分と数を減らしている。

厚い食堂の扉を突き抜けて、若いよく通る声がわたしの耳に入ってきた。
考えるまでもなく、グレアム様のものだった。



「叔父上には、この家のことに口を出していただきたくはありません」

「何度も言っているだろう。お前は外の世界を知らな過ぎると」

「僕は僕の考えで屋敷を守っています。今までの選択を誤りだと思ったことはありませんよ」


確かに。
グレアム様はいつも、自信に満ちている。

だからわたしたち使用人は、安心して彼についていける。
両親を失ってもこの家が崩壊するどころか、安定している。

それも、彼の力だった。


「いつまでも、このままでいられないと分かっているだろう」

「だからどうだというのです。永久に同じものなどありはしない」


胸が突かれる気がした。
まだ調子が悪いのだろうか。

「私は反対だった。だが兄はお前にエマを付けることを認めていた」

「僕は満足です」

「それがいけないと言っている」

「僕がいいと言っている。それで十分でしょう」

逃げたいと思った。
逃げなければと。

立ち聞きはよくない。
わたしには、仕事があるから。

でも、離れられなかった。



「ずっと一人身でいるつもりか」

「叔父上には関係ない話でしょう」

「お前の財産には興味などない」

ローランド様にとっては、この屋敷は子ども部屋のようなもの。
取るに足らないものなのだ。

そこに住まう甥以外は。

言葉は厳しくても、ローランド様はまだ若いグレアム様が心配だった。





「いつまで人形遊びをするつもりかと、聞いているのだ」

「エマは、他の者たちとは違う」

「それを私は心配していたのだ!」

苦々しく口を閉じるグレアム様の様子が目に浮かぶ。
ローランド様の言っていることは、正しい。




そう。
ローランド様は、正しいのだ。




「お前と彼女たちは違う。立場が違う、それだけでない壁がある」

「機械だろうと、何だろうと、僕は!」

突き付けられた現実が余りにも鮮やか過ぎて。
考えずにいようと避けていた事実がそこにはあったから。






















お食事は終わっているはず。
お皿を下げて、アルベルトさんが片付けるのをエミリアと一緒に手伝う。

クッキーは放り出したままだから、お皿に載せて。

まだ温かいはず。
ローランド様はいらっしゃるから、お茶と一緒にお出しして。

そう、お茶の用意も。

ハーブティーがお好きなようだから
アルベルトさんが摘みに来るかもしれない。
籠を持って。

そうお花。
お花は。


わたしは。


「グレアム様」


愛など、この世には存在しない。


それを知った瞬間。
その答えを求めようとしたとき、わたしは期待していた。


人間だけが持つという、愛情。
エミリアが言っていた、感情。


それが、単なるシステムだとすれば。
プログラムの複雑な体系が、絡み合って生むものが愛だというのならば
わたしにも、希望はあるかもしれないと。

わたしにも、グレアム様を愛することができるのではないかと。
この気持ちが、心が、愛なのではないかと。


だから、必死に答えを求めようとした。


愚かだ。


人間と並び立つなどできないことは分かっているのに。
グレアム様の近くにいたい。
ずっと側にいたい。

答えを見つけられれば、わたしはグレアム様に近づけるという希望。



柔らかな皮膚を持っても
流れる体液を持っても
動く二本の脚を持っても
決して持つことが叶わないものを求めていた。


わたしは、消えるべきなのだろうか。


積み重なって捨てられた、黒いスカートの彼女たちが頭に浮かんだ。


虚空を見つめたまま、壊れた腕を力なく垂らして
機能を停止していた。

いずれ、わたしにもその日が来ると、恐れつつも理解していた。

必要があるから作られ、必要がなくなると廃棄される。

主のために動き、働き、偽りの生命を与えられる。


それが、わたしたちの役目。
人間にはなれない。











「エマ」

報われない、階級の違う使用人と主人との恋。
書庫に眠っていた、埃にまみれた物語。

同じだと思っていた。
知らず、わたしと重ねていた。

でも、わたしはスタートラインから違うのだ。
同じフィールドに立つことすらできないのだから。



「グレアム様」

「アネモネが教えてくれた」

手を緩めて、零れ落ちていったアネモネたち。

「ローランド様にお茶を」

「帰したよ」

「二時間六分」

「惜しいな」



わたしは、あなたに何をしてさしあげられますか。

あなたを思うと、壊れそうになるのに。

どうすれば、あなたの側にいられますか。






「エマ」

手が、わたしの頬に触れる。

いつの間に、こんなに大きな手になったの。

わたしは、変わらないのに。

あなただけが、どんどん変わっていく。



「わたしは、旦那様と奥様が亡くなられたときも、涙を流すことができませんでした」

頭が真っ白になって、スリープ状態になろうとする。
でも、人間のように感情を外部に出力する手段はない。

「わたしは、自分で自分の傷を治すこともできない」

包まれた頬が温かい。
刺激の受容機関はあっても、 誰かを温められはしない。


どうして。

わたしは、頬を包み込むグレアム様の手に
手を重ねた。

温もりは伝わるのに。
この温度は、覚えているのに。
どうしてわたしたちは、こんなに遠いの。







「わたしはいずれ、壊れてしまいます」

「人だって、死ぬときが来る」



わたしのメモリを入れ替えても
外殻換装しても
いつまで今のわたしを維持できるかわからない。



「わたしは、機械です。人間じゃ、ない」

「だから一緒にいてはいけないのか。愛してはいけないのか」

「グレアム様の血を残しては差し上げられない」

「必要なのは、血を残す手段ではない。エマだけだ」



一時的な、感情の乱れ。
そう、錯覚されているのかもしれない。

「ローランド様が仰ったように、外に目を向けられれば」

「見たさ。ここにいるのは機械だけじゃない。外にも、友人はたくさんいる」

「これから見ていくのです。十年、二十年すれば、きっと」

「今までの時間はどうなる。僕はエマと共にいた。違いを知った。エマは誰でもない、僕の中で特別な存在だと気づいた」

「けれど、外から見たら」

「お前の目に映っているのは、外の世界か? よく見てみろ。何を見ている? 何を考えている? お前の前には何がある」





噛み付くように、叫んだ。

恐ろしいというより、むしろ胸が痛くなった。
頭も痛い。

「グレアム様が見えます」

「それが、現実だ。いつも僕の前にはエマがいた。これからだっている。エマのいない世界は考えられない」

「はい」



グレアム様が座り込んだ。
草の緑が服に染み付かないかと心配してしまう。



わたしのプログラムがそうさせる。



「この場でプロポーズするべきかな」

「結婚など無理です」

「必要ないだろう。人間が考えた制度だ」

離れないように、より強固な繋がりを持とうとして。
そして、周囲の世界に認めてもらうために。





「代わりに僕は、囁こう。愛しているよ、エマ」

それが、作られたものだとしたら。

情報の蓄積とシステムの複雑化によって生まれるものだとしたら。
ずっと一緒にいたいと思う気持ちを、そう呼ぶのならば。

「わたしも、愛しています」






この世界に
愛という、特別なものは存在しない。




答えは、言葉にしなくても。
それぞれの心にあると。



経済学者は長い脚を組みながら
神秘的な微笑で、答えていたのだ。















<<<<< re-turn to novel page
















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送