冷たい子宮




The cold matrix and i



「ここ」


それがどこなのか、僕たちは探し続けていた。












最初に拾い上げたのは、無線愛好家だった。

偶然。
それとも、必然か。

ノイズ混じりで聞こえてくる声は、一定の周波数で留まっていた。

呼びかけには応じない。
繰り返される、言葉。


悪戯かと思った。
発見から通報まで数日の開きがあったのは、そのせいだ。

僕たちのところへ事件として格上げされたのは、それから更に数日後だった。







「どう思う」
何が、と問うまでもない。

「何から何まで、おかしすぎる」
だから上も、判断に困ったのだ。

「ただの悪戯だったら、俺たちのところまで上がってこないだろう」



情報処理棟内の音声処理室に篭って二時間半が過ぎていた。
端末に操作パネルへ指を伸ばした。

巻き戻し、再生する。

「声質の変化が認められている」
既に、確認されている情報だ。

「つまりは、ナマモノってわけか」
録音ではない。
生きている、人間の声。

「それが数日間、繰り返し流れている」
収集したデータは音声分析班に回っている。

「解析結果は」
再生スライダーが流れる画面から目を離さず、要求されたものを肩口から差し出した。
連続再生される音声データが絶えず流れ続ける。

「年齢は、十二歳前後」
僕はもう解析結果には目を通している。

「性別は女性」
というより、少女だ。

「発信地からの距離は」
「不明」

そう、不明。

「発信地は、不明だ」
僕の背中で、樹脂コーティングされた椅子に爪を立てる音がする。

「どういうことだ」
聞かれても答えようがない。

「先を読めばわかることだが」
ノイズ除去し、聞き取りやすくなった音声が、室内に微かに反響する。

「不明、というよりもむしろ、不特定といったところかな」
同僚が椅子から手を放したタイミングで、椅子を反転させる。

「地球を覆う外殻そのものからの電波、だとしたら」
「地上ではなく、大気圏」
絶句する顔を下から見上げながら、僕も初めて事実を知ったとき同じ顔をしていたのだろうと想像した。

彼は天を振り仰ぐ。
見えるものといったら灰色の天井しかないが、彼の目は染み入るほどの蒼穹を追っている。

「天使かよ」
「予想外のコメントだな。僕は宇宙人かと思った」
育ってきた環境の相違か、教育の差異か。

沈黙が降りた室内には、一定音量で淀みない声が流れている。
ゆっくりと、噛み締めるように。
しかしそこに苦痛や情念は存在しない。

室内の空気のように、ドライな感情だった。
それの事実は音声内容と食い違っている。
それが、もう一つの不思議。

短い言葉で綴られる。
明確な、意思。
それなのに、見えない真意。




「ここから、だして」












廊下の賑やかさに二人の硬い靴底の音が混じる。
音声データと解析結果は、最新式と謳われている薄型携帯端末へ保存してある。
今は、上着の内ポケットに保管されている。

課外秘の情報だ。
迂闊に内容が知れる会話はできない。
押し黙ったまま、障害物のように流れる人の波を潜って、オフィスへ戻った。

捜査六課。
ガラス扉には、白く課名が書かれている。
必要があれば銃を携帯する場合もあるが、ほとんどは情報収集と分析に絞られている。

各機関で詳細に分析された結果を統合し、次の手を考える。
だが今回は。

「さて、どこから攻める?」
情報が少なすぎる。



寄り道せずに、自分のデスクへ体を滑り込ませ、端末を立ち上げた。

「誘拐、拉致監禁、遭難、その他の可能性は」
それ以前に。

「なぜ発信源が特定できない」
受信地からしてそうだ。
受信したのは、発見者ただ一人。
中継装置を介して電波を飛ばしたのだとすれば、他に発見者が出てもいいはずだ。
受信者である男の調書を見てみた。
彼が所属していたアマチュア無線家の団体についても、捜査は及んでいる。
少女の声を受信した、という事実はなかった。

それだけじゃない。

「切迫した状況ではないと」
分析結果が答えを出した。
声質からわかるストレス指数が低い。
抑揚もなければ、緊張してもいない。

「中継装置を介さず、直上から降って来た電波、か」
益々不可解だ。

「だから言っただろう? これは天からのお告げなんだよ」
同僚のマノが、自分の席へ乱暴に座る。
衝撃が机を通して端末のモニターを揺らす。
まだ冗談をいうのかと、彼を横目で流し、ようやくお目覚めの端末へ手を乗せた。



何度も聞いた、言葉。


「ここから出して、ね」


助けて、という救助要請の言葉ではなく、ただ繰り返される「出して」という単語。

「そもそも、十二かそこらの女の子が、無線装置をいじれるかってところが疑問だがね」
マノが椅子の背に大きく寄りかかり、伸びをした。
数時間で集まってきた情報を整理し、その後二時間以上音声処理室で染み付くほど、受信した音声データを聞いていた。

まったく想像がつかなかった。
繰り返し、出してと訴え続ける彼女が、どういう状況に身を置いているのか。
彼女の周りには何があるのか。

「現在も少女の声は受信しているのだろう」
「不定期だけどな。しかし、身代金要求も無い、それらしい失踪事件もない」
「誰が、どんな目的で」
それはマノにも推測がついていないだろう。
返答は、ない。
どうなっているんだ、と課内はざわめいている。

「受信者を、いや受信区域を特定しているのは、繋がろうとする意志か」
それ以外、理由は考えられない。

「しかし金銭的要求がないのにか? 何がしたいのかさっぱりだ」
マノが両手を広げた。
やはり警察を撹乱するのが目的か。

「悪戯にせよ、何にせよ、俺たちの目的は発信者の特定だ。その糸の先に誘拐監禁と被害者が付いてこようが、手の込んだ悪戯をした奴が引っかかろうが、問題ではないだろう」
マノは欠伸を左手で隠した。
一応、周囲を気にする心がけのカケラはあるようだ。

「仮眠室で休んで来たらどうだ。焦らずともこれからもっと忙しくなる」
休む時間もなくなる。
休まなければ作業処理効率に支障をきたす。


社内のイントラネットに繋ぎ、情報を抜き出した。
こういうとき、携帯端末の有難さを感じる。
マノが支給時に飛び上がらんばかりの喜びを、満面で表していたのを思い出した。
その彼は、容量の大半を音楽データで占めている。
軽い上に、大容量。
処理速度は固定端末に及ばないながらも、然程ストレスを感じさせない。

「しかしな」

マノの渋面が想像できる。
僕の目は画面にへばりついていた。

「動けるのは、俺たちしかいないわけだし」
監禁、だとすれば数日間の空白は問題だ。
警察の腰の重さを指摘されても文句は言えない。
ここで動かず、いつ動く。
被害者がいなくなってからでは、遅い。

「だから、だろう。確かに現在事件の詳細を知っているのは、六課と一部の人間だけだ」
固定端末と携帯端末を結ぶケーブルを抜き取ると、端末を眠らせる。
休止モードにされた画面が、暗転した。

「動ける駒も少ない。だからこそ、効率よく回していかなきゃならない」
「長期戦を覚悟してってか」
「夜勤明けのまま、この事件に手を付けただろう」
彼のスケジュールは把握していないが、口調を聞いていたらわかる。

「ああ、まあ」
「途中で潰れないためにも休んでおいた方がいい。六課の人間は働き者だ」
「で、お前はどうするんだ」
まだ仄かに温かい端末を、胸に仕舞った。

「会ってくる、第一発見者に」
「でも、もう調査済みだぞ」
「まとめられた資料だけで何がわかる」
わからないからこそ、未だにこうして頭を抱えている。

「場所は」
「調べた。もう自宅だ」
「俺も行こう」
「寝てろ」
腰を浮かせたマノの肩を、押し下げた。

「仕入れた情報は、共有してやるから」
立ち上がって、椅子の背へ掛けたコートを掴んだ。

諦めて、マノも立ち上がる。

「おやすみ」
彼は手を振って仮眠室へ歩いていった。









白いビルだ。
一見したら、オフィスビルと見紛う。

アパートにしては、簡素過ぎる。
無線、と聞いて正直少し前時代的な印象を持った。

迂闊に口には出せないが、小さく、コンクリートむき出しの旧式アパートメント。
居住世帯数が一桁といった、廃墟に近い館を想像していた。

見間違うはずはないが、再度携帯端末を取り出した。
モニターには地図と赤点、住所も誤りはない。



「八階、か」
非公開の事件とあり、制服警官は駐在していない。
道路の端に路上駐車してある車両が二台あった。
内、一台には社内に人がいるのが確認できた。
六課の人間ではない。
どこまでが捜査に加わっているのか、僕は完全に把握していないが、他課の人間だろう。

視線が僕の背中に突き刺さっている。
気にせず、オートロックの第一関門へ歩みだした。




「どうぞ」
返事は短かった。

第一発見者の部屋番号を呼び出し、こちらの素性と訪問目的を話すと、すぐに自動扉は開いた。

エレベーターで八階まで一気に上った。
上るときはいいが、下降するときの体液が浮かび上がる感覚が、まだ馴染めない。

振動なく停止すると、女声音の自動アナウンスが滑らかに階数を告げた。
扉がスライドして外に出ると、廊下が左右二方向に伸びていた。
正面には高い壁の上に、窓のように壁が抜けている。
穴から足元までは、縦に徐々に幅を狭めて壁をくり貫いてあった。
子どもの腕一本はいるだろうか、といった狭さだ。
壁に張り付かない限り、階下は拝めない。

八階建てのアパートは、上から見ると真ん中に穴が開いたように見える。
四角い庭を底辺に、四角柱の外面で構成されている。

遥か下方の庭から、アパートを見上げたいと思った。
監獄の壁の内側にいるような気持ちがするに違いない。
犯罪に手を染める予定も野望もないので、恐らく一生体験できない感覚だろう。

ゆっくりと建物の見学をするわけにはいかなかった。
僕は触れていた縦穴から手を放すと、発見者の部屋へ向かった。

ノックとともに扉へ向かって呼びかけた。
応答は速かった。

「どうぞ」

白い鉄扉が開かれた。
シャツとジーンズだったが、好印象の青年が中にいた。
研究者上がりのこちらの方が、むしろ野暮ったいかもしれない。

「失礼します。僕は、コウサキと言います」
「知ってる。電話があったから。いいよ、中に入って」

ビル同様、中も質素というより、簡素だった。
装飾品にあたるものは、何もない。
引っ越したばかりの部屋のように、壁も廊下もすっきりしたものだ。

僕の思考を手に取ったように、彼は振り返った。

「必要なものは、全部一部屋に置いてあるから」
「ああ、あの。警察は」

彼は天井に目をやった。

「上に一部屋空いてたから、管理人さんに頼んで居座ってるみたいだけどね」



通された部屋には、見えるだけでコンピュータ二台が机の上に並べてあった。
どちらもデスクトップ型。
一つは最新型だとすぐにわかった。
電気屋の宣伝広告で見た、世界最薄の四文字を思い出す。

もう一つは、大きい。
旧式だと一目でわかる。
それでも可愛がっているのか、画面には埃が被っていない。

「これを」
警察手帳を開いて見せた。

「捜査、六課? 六つも課があるんだ。じゃ、上に腰を下ろしてる警察も六課?」
「いや、確かにうちの署だけど、課は違う」
手帳をポケットに入れた。

「無線の機械って、もしかしてあれなのか」
本題に入ろうと、視線をずらした。
カーテンの掛かった窓際に、堂々と腰を据えていた。

「そうそう」
「職業は確か」
「プログラマ。ゲームのね」
ラジオだとか、無線に関わる仕事かと思っていた。
電気機器関係のハード的な職業だ。
どうも僕の頭は、偏見で塗れているようだ。

「君のデータを調べさせてもらった。ほとんど家にいることが多いみたいだね」
「別にいいよ。手錠掛けられるほどの悪事ってした覚えないしね。ほとんど在宅ワーカー」
だから、チャンネルする機会に恵まれた。

窓が開いている。
落下防止の格子の間から、風が抜けてくる。

僕の後ろの、入ってきた扉は開いていた。
さらに奥、洗面所あたりの窓が開いているようだ。

「もう、話したことばかりだと思うけど、悪いね」
先に謝っておこう。

「何聞きたいの?」
さして気分を害したようでもなく、少し安心した。
想像していたよりスムーズに情報が得られそうだ。
最も、実の詰まった情報かどうかは、不確定だが。

「まず、最初に聞いたときの状況を」
「機械の調子が悪くなったんだ。パーツが。随分長く使ってたから」

彼はコンピュータの前にある椅子に跨って、こちらを向いていた。
新しいほうのコンピュータの冷却ファンが、小さく唸っていた。

「うまく繋がらないから、手元にあった部品で修理して、繋ぎ直してたら引っかかったんだ」
最初はノイズが酷かったと言った。

「でも小さい子の声だろ。その声しか流れてなくって、気になったから微調整してチャンネルした」
少女の声だとすぐにわかった。
はっきりした発声だった。
言っていることも、理解できた。

「でも、すぐには通報しなかった」
「気のせいだと思ったんだろう」
「最初はね。すぐに聞こえなくなったし」
それから気になって翌日も、昨日と同じ周波数で固定していた。

「時間帯はばらばらだけど、やっぱり拾えたんだ。で、仲間に連絡した」
そっちでも拾えるか、と。
隣の街に同じ趣味の人間がいた。
距離は徒歩三十分もかからない。

「だけど、そっちでは反応がなかった」
こちらでは鮮明に聞こえるから、多少離れていても拾えるかと思った。

「不定期にしか受信できないし、どこの誰かもわからなかった」
仲間に確認した事実は、報告書に記載されていた。
彼の仲間が少女の声を受信していない事実も、確認されている。

「気持ち悪くはなかったか。その、幽霊だとか」
「なんだか、おかしいね」
彼は長めの茶色い髪を揺すって笑った。

「警察の人と話してる感じじゃない」
「警察手帳だけでは信じられないか」
「そうじゃない。疑ってるわけじゃないよ」
確かに、疑っているのなら椅子の背中を抱え込んで笑ってなどいない。

「何年目?」
警察官になって、って意味だ。

「三年目だ」
「そう、その前はじゃあ、大学生だったんだ」

こっちが質問されてどうする、と頭を過ぎったが、ここで切りかえて話を聞き出せない方が問題だ。

「どんなことを勉強してた?」
「心理学。学部はね」
「どうして警察に?」
「アラハマ市の少女失踪事件について書いた」
初動捜査と情報処理の問題点を挙げた。
公開されている情報と、目撃者を探し再度証言してもらった情報から、犯人像を描いた。
教授には、まるで警察ごっこだな、と笑われた。
データの上で扱えばいいものを、脚を使ってまで情報をかき集めていたから。

「言うだけなら簡単だって、引き込まれて初めて分かった」
「ごっこ、じゃなくなったってわけ。誘われたんだ」
「目がほしいと言われたから」
「着眼点ってこと。勘だね」

そろそろ話を戻さなくては。


「幽霊かもしれないって思った。気持ちは悪かったよ」
「君もなかなか勘がいいね」
洞察力に優れている。

「だから今は電源を落としてる」
無線機器からは、微かなノイズも漏れ出ていない。

「代わりに上の人が聞いてくれているからね」
仕事にも手が付けられる、と彼は椅子の背に顎を乗せた。

「どうして、ここなんだろうな」
「さあね。何が目的なのか、全然わからない」

少女の声。
ほとんど毎日聞こえてくる。

「彼女は、どんな目にあっているんだろうか」
苦しみ悲しむような掠れた声はしない。
それでも助けを求める声は変わらず聞こえてくる。

「声、聞いた?」
「ああ」
彼は、何か知っているのか。

「編集されたのを?」
「何時間か分を、繋げてあるものを」
手元に来たデータは、ノイズが消されきれいなものだった。

「音がしてた。ノイズ、なんだけどな」
「いつ」
「彼女の声が始まる、三秒ほど前に、三分の一秒ほど」
ノイズが弾けるような音だったと彼は言う。

「それは、他の人間には」
「言ってない。どうせノイズだから」
「でも、音だ」
音しか情報がないのだから、縋れるものには縋りついておかなければ。


ノイズ、か。


「ありがとう」
頭は砂嵐のような音に満ちている。
視点は宙を彷徨い、現実を見てはいない。
結末への方向を見出そうとしていた。

「聞いてもいいかな」
「答えられないこともあるが」
警察に、盗聴器は仕込まれてないだろうか。
彼は容疑者ではない。
プライバシーもある。
あり得ないとは思うが。

声を潜めたことで、僕の心配を彼は理解していた。

「調べたよ。反応はなかった」
彼が指差した先には、息をしない無線機器がある。
その隣に、携帯端末がある。
しかし、あれでどうやって。

「盗聴器探知機なんだ。小さいけど高性能。聞かれてまずい生活してないけど、気分悪いだろ」
シンプルであるが、セキュリティ万全の建物だとわかった。
オートロックで、入れるのは住人が許可した人数だけだ。
僕が抜けてすぐ背後で、扉は堅く口をつぐんだ。
熱探知でも設置されているのだろうか。
ハード面はよくわからない。

それに、彼自身が強固なセキュリティソフトのような性格をしている。
その彼に敵とみなされなかったこそ、僕は彼の部屋に入ることができた。

「聞きたいことは、何」
「そう、だな」
僕が話せる事実を言った方が早いかもしれない。
何しろ、わからないことばかりの事件だから。

「声は、作られたものではない」
「肉声、ってこと。じゃ、ホンモノ?」
「発声はどれも、パターンが違っている」
通報を受けてから警察が収集したパターンはまだ少ないが。

「少女といえる年齢だ。聞いて分かる通りな」
「なるほどね」
「もう、いいか」
「録音じゃなくて、どうやら幽霊でもなさそうだっていうのがわかっただけで、楽にはなった」

こちらも収穫あり、かな。


「もし」
まだ、聞きたいことがあるのか。

「三秒前のノイズで解決できたら、こそっと事件の筋を教えてほしい」
非公開なんだろう? 彼は両足を振って、腕に顔を埋めるように呟いた。

「できる限り、約束しよう」
その答えで彼は満足したようだった。










タクシーを拾い、署へ向かった。
西階段の前で車を停めるよう頼む。
ドアが開くと同時に外に飛び出し、署の階段を二段飛ばしで駆け上がった。
廊下は走るなという張り紙を気に留めたわけではないが、外面というものがある。
自重して、大股に通路を歩いて六課へ戻った。

課内を一瞥するが、マノはまだ仮眠室へ立てこもっているようだ。
ここを出てから二時間経っていない。

まあいい。

上着を椅子へかけ、音声処理室へ急いだ。
ガラス張りの部屋はどこも賑やかだ。
だがそれも、今は興味を持てなかった。

隣接する情報処理棟へ繋がる廊下を抜け、エレベーターホールへ向かう。
エレベーターが下りてくるのがもどかしくて、ボタンの点灯をそのままに階段へ向かった。

扉の開いたままにされている八階への廊下へ出た。
研究室、各種分析室しかないため、ここは静かだった。

廊下の長椅子を数えながら、長い廊下を奥へ進む。
今ここの白服たちに脳波を測定してもらったら、面白いほど跳ね上がるだろう。

十六個目で少しは冷静さを取り戻した。
目の前に白い鉄扉が迫る。
ここは壁から人からすべて白だ。

直進していたら、研究員たちに怒鳴りかかって、今頃引きずり出されている。
息を一つ吐き出し、ゆっくりと瞬きして扉に手を掛けた。






「署員の方ですね、お名前を」
扉を抜けるともう一つ扉がある。
聞こえてきた女性の声は、電子アナウンスだった。

「コウサキだ」
「では手帳を」
言い終わる前に、既に手の中に握りこんでいた手帳を認証パネルの前に突き出した。

「確認しました。扉が開きます。一歩離れてお待ちください」
この一回一回が、煩わしい。
子どもではないのに、いい加減、馬鹿が付くほどの丁寧なアナウンスを止めさせればいい。
製作者の顔が見たくなった。

「コウサキ様、どうぞお入りください」




「編集していない音声データを出してくれ」

銀色のパーティションを押しのけるように進んで、音声処理室の室長へ歩み寄った。
編集されたデータは彼女から受け取った。

「切っても繋げてもいない、オリジナルのデータだ」
「データファイル名を、でなければ検索できません」
階段を上りながら、携帯端末で確認済みだ。

「ファイルナンバー、二九五〇二」
「二九五〇二のオリジナル、ですね。かなり膨れますよ」
「構わない」

彼女は肩に掛かる髪を、首を振って払うと画面を見つめた。
無表情で顔は微動だにしないのに、指先は恐ろしいほどのスピードで動いている。

検索時間と出力に数分掛かると踏んでいた。
だが、彼女は予想以上に優秀だった。

「出ました。データの詳細をご覧になりますか」
「ああ」
「こちらです」
彼女が机の右端を叩くと、机から画面が持ち上がった。
便利な装置だ。
僕の机も叩けばコートハンガーくらい出てくる仕組みが欲しい。

画面には小さな緑色の文字が羅列していた。
データの収集時間や場所、事件そのものの情報までが記されている。

「取り出したのは、『声』と認識されている部分だけです」
「ノイズはカットされていた」
多すぎるデータを選別して、処理したり保存したりする。
人間の頭でしている作業と同じ。

雑音はこの場合、削られた不必要なデータだ。
だが、それもまた「音」であるのに違いない。
そこに、鍵があった。

「これでいい」
「処理ブースを使用されますか」
「ああ」
「では、十三番ブースのロックを解除しておきます。データもそちらに回しておきますね」

飛び出した画面は、元のように机へ吸い込まれていった。
十三番のプレートを探し、薄暗い部屋に入った。

三つの椅子が並んでいた。
中央の椅子に座ると、データは自動的に開いた。

「三秒前、と言っていたな」
再生スライダーを睨みながら、微調整する。
女声音開始から十秒前からカウントを始めた。
開始三秒前、ノイズが弾けた。

繰り返す。
やはり三秒前、ノイズが一際大きく鳴る。

「他のデータは」
指先がパネルを走り、次のデータを指した。

「やっぱり」
同じく三秒前。
ノイズが爆ぜる音がする。

「他には?」
次は。

同じタイミングで、同じような現象が起こる。
だが、それだけだ。
それだけだった。

「いや、待て。それだけじゃないはずだ」
レコーダーの不具合ではないはずだ。
どれも同じ三秒前。
意味が、あるはずだ。

「共通点は。いやもしくは」
相違点。

四つ目のデータを流した。
これもまた、三秒前にざらついた音を立てる。
しかし、違和感があった。

最初のデータを再び選択した。
五秒前から再生する。

「二つ目のデータは」
違う。

「三つ目は」
違う。

「四つ目」
違う。

「五つ目」
これも違う。

「これは、この音は」
叫びそうになった。
思考が白濁している。



震える手でパネルに振れ、室長を呼び出した。

「どうしましたか」
応答は、速かった。

「データを」
「ご覧になりました?」
「いや、これを」
「顔色が良くないようですが」
「再編集してほしい。指定する箇所を、すぐに」
一秒の沈黙が、風のように抜けた。

「わかりました。すぐに伺います」
事態を察したのか、彼女の声が引き締まる。
通信は途絶えた。
間もなく、彼女がやってきた。
僕の隣の椅子に座る。

「どの部分を編集すればいいのです?」
「少女の声が入る、三秒前だ」
「しかし雑音しか」
「それを拾ってほしい」
彼女に聞かせた。
三秒前、音が弾ける。

「なるほどね」
十三のデータを聞いて、椅子の背へ深く身を沈めた。

「どうだろう」
「確かに仰る通り、音程の変化はあるようです」
「その箇所だけ、データを抜きとってほしい。女声音のデータは手の中にある。ほしいのはノイズだ」
「承知しました。すぐ作業に取り掛かります。編集したものは分析班に送っておきます」
二十分後に分析室へ、と言い残し彼女は立ち上がった。
自分のデスクに戻るために。
彼女の半径二メートルは、ここよりも遥かに優れた設備が集積されている。




分析室は、階上の九階にあった。
窓は閉まっていたが、そこから見下ろす眺めは、精神の高揚を沈静化させる効果があった。

椅子はあるのに、時計のない廊下。
壁に寄りかかるようにして、事件の先を考えた。

「コウサキさんですね」
呼ばれて体を起こした。

「手帳を」
胸のポケットに手を入れようとして、止められた。

「いえ、結構。確認は取れていますよ」
「結果は」
「こちらでご覧になりますか」
すぐにでも見たい。
頷くのを見下ろし、白服は僕の隣に腰を下ろした。


「おもしろい結果ですね」
「データ三つが一組。それの連続。規則性は、そうですね?」
「ええ。その通り。これは音程を表している」
データをグラフで表したものを、白服は取り出した。
薄いパネルの上に、一本の線が尖った山を描いている。

「あなたが指摘したノイズを抽出し、収集順序通り、グラフ化したものです」
三つが一組。

「一、二、三」
グラフの頂上を指し示す。

「パターンはこの三パターン。おもしろいのは、これが」
彼はパネルに指を這わせ、画面を入れ替えた。

「四つ目以降も同じパターンを示す事実です」
第一折れ線グラフの下に、第二第三グラフが表示されている。

「同じ、パターン」
三つのグラフは一本に重なった。

「つまり、同じ音程の音三パターンで構成されている」
「そうか」
「私たちがわかるのはこれまでです。これに何があるのかは」
「これを、既存の記号に置き換えるとしたら。何か」
ああ、固まった思考。
広がれ。

「そう、音階だ」
「音階。やってみましょう。でもそれが」
「やってみてから、この霧散した方向性を固める」
「ノイズ除去と編集はできています。すぐに結果はでますよ」
「頼む」
白服は、再び鉄の扉の向こう側へ消えた。


「音、データ、記号、音階。その先は」
できることと言ったら。
三つの音が、結ぶ先は。






「D、F、E」

それで?

マノは脚を組みなおして僕を見た。
課長が正面に座っている。

課長室の空気は、いつだって馴染めるものではない。

「それが音階です。それぞれレ、ファ、ミですが」
マノは内心両手を挙げている表情で、組んだ足を揺すっていた。

「三点が示すもの、それは座標ではないかと言うのが僕の意見です」
「根拠は、どこにあるのかしら」
課長も背を正した。
元々、背中に定規を入れたような人だが、いつも以上に姿勢が美しい。

「座標も、基点が無ければ図を描けません」
「ゼロの地点ね」
彼女の表情を見れば分かる。
恐らく予想はついている。

「受信地点が、ゼロ地点です」
つまり昼間に訪問した、彼の住んでいるアパートこそゼロだ。

「でもそれをどう数値化する」
マノが体を乗り出した。

「可能だよ」
音階だって、人が作り出した記号だ。

「問題は、単位だ」
「単位とは?」
「恐らくキロだと思います」
「先を、聞きましょう」
彼女はソファに背をつけた。
金色の髪が、頬についたのを耳にかけた。









「こうしていると、僕たちがいかに記号に囲まれているかよくわかるよ」
「記号が無くては、コミュニケーションもまともに取れないからな」
「そう、こうして話している言葉の一つ一つも、作り出した記号に過ぎない」

操っているのか、操られているのか。

暗色の空を見上げた。
マノは隣で支給された銃を確認している。

「でも、どっちだっていい」
時計は、二十一時を指していた。






「捜査は六課と四課、合同で行う」
課長の声が会議室へ響く。

「六箇所を、座標の数値を確認しつつ調査する」
直立した僕たちを一瞥した。

「ミナハタ、カシバ、ヤスイ」
四課課長が、髭の間から腹を揺するような声で叫ぶ。

「タカギ、ニイダ、イグチ」
指揮権は六課にある。
必要なのは、機動力ではない。

「彼ら六人が本調査の指揮を取る。犯行声明および身代金の要求は出ていない」
基本情報はすでに、室内全員に行き渡っている。

「だが、念のため銃の携帯を許可する」
「これはあくまで調査行動です。情報は、入手次第すぐに報告すること。いいわね」


銃の携帯と聞いて最初は、なんて重装備なと思った。
だが、すぐに座標で調査地点を確認した。
マノがすかさず、やっかいだとため息を漏らしたのも無理はない。

「俺たちのここ、廃墟ビルだってよ」
マノがパネルをいじり、最近の画像を呼び出した。
放置された修繕の見込みないビルが、崩れそうに建っている。

「他は」
「医療施設と、多目的ホール、専門学校などなど」
「そのどれもが、廃墟だってね」
「こりゃもう、仕組まれたって考えずにはいられないだろう」
パズルのピースのように、座標と地図とが気持ち悪いくらいに重なる。

僕たちは、ヘリの中にいた。

「見えてきましたよ」
ヘリが目標上空を旋回する。

「意外とでかいな」
マノの一重が大きく開かれる。

「瀕死だ」
使えそうにないビル。
後は解体を待つばかりだった。

「新興土地開発の傷跡か。痛々しいねぇ」
マノは眉を寄せた。
彼は本当に表情が豊かだ。
本当に痛々しく思ってはいないだろうが、マノの毛虫のような眉毛は喜怒哀楽に敏感だ。

「降下します」
言うより先に操縦桿が動き、重力の変化を感じた。
着地地点は、ビルの屋上。
ヘリ一台分のスペースくらいは十分ある。




「私は一端支部で待機しています。ここはいろいろと、危険ですからね」
廃墟ビルだからと言って、無人ではない。
ハイジャックされて帰れない、なんて笑い話にもならない。

「こんなところに女の子がね」
マノが首を鳴らす。

「いくぞ」
カシバが着地したヘリから飛び出した。
続いて、四課の二人。
六課からは他に、キヤマという僕より四歳年長の男、マノと僕が参加していた。

僕たちも、屋上を踏んだ。
六人は離れていくヘリを見送った。



僕は、下から放たれた光、雲に弾かれて染まる灰色の空。
消えていく黒のシルエットが点になるまで見つめていた。

僕たちは、記号で作られている。
記号を操り、同時に支配されている。
その境界は。
夜闇に溶かされたビルと空の境界のように曖昧だ。

考えを振り払ったところに、カシバの声がした。


「二人づつ行動する。最上階から調査し、一階玄関ホールで合流する」
カシバは続けた。
西側からカシバと四課の人間、中央がキヤマと四課、東側を僕とマノが担当する。

「移動は階段で。情報の共有を忘れるな」
「了解」

銃弾のような足音が、ばらばらと拡散していった。








「エレベーターは使えない」
電力は完全停止している。

「明かりもない」
重い思いをしながら、灯りを持ち運んで移動するしかない。

「しかも、二十五階建てだ?」
走るだけで息が切れるのに、マノは良くしゃべる。

「ふざけるなってのを通り越して、吐き気がする」
それだけ口を動かしながら、灯りを手に、走ってたら吐き気もするだろう。

「展望室か」
中は、踏み込むのもためらわれるほど、ゴミで溢れていた。
生物の気配はない。
最上階は一部屋が大きい。
捜査も楽だった。
収穫もないまま、階下へ下がった。

「会議室か」
端から端まで、漏らさず照らし出す。
だが、放置された椅子があるばかりで、人の姿はない。

「電波反応は」
マノが振り向いた。

「なしだ」
「じゃ、次だな」
マノとはぐれないように、背中を追う。

「明日は筋肉痛だな」
「こっちも、会議室」

埃臭い。
腕を口と鼻へ押し当て、中を照らした。

「ここも異常なし」
隣が休憩室。
さらに隣が、オフィスだった。
机が窓際に捨てられるように置き去りにされ、椅子は左奥に固められていた。

「下がるぞ」
現在位置と、同僚の位置を確認した。

「他の奴ら下をもう半分は調べ終わってる」
「早いな」
こちらもぐずぐずしてられない。

「下も、オフィスか」
二十階には。

「ホールもある」
見取り図を見る限りでは、結構広くスペースを取られている。
気が遠くなる。






「何か見つかったか」
それらしい姿は見当たらない。
無線に呼びかけるが、芳しい情報は得られなかった。


髪をかき上げ、階段の壁を見上げた。
斜めになったプレートは二十階だと判別できる。
マノが、二十階のフロアに踏み出した。

「マノ」
二歩進んでから、振り返った。

「どうした」
「いや」
気のせいか。

「行こう」
「確かホールは東側にあったよな」
手の中にある端末が、淡く光る。
館内図の中に現在地が示される。
階段の隣は喫茶室だ。
もう起こされることのない円テーブルが、転がったままだった。
椅子も、もう誰かを座らせる機会はないだろう。

ただ、朽ちていくだけだ。
僕たちが去って、誰に認められるわけでもなく。

踏み入れた。
垂れ下がった蛍光灯が哀れだ。



『ここから、だして』



マノが後退ってくる。
僕の背中にぶつかった。
痙攣するように、呼吸が震える。

「コウサキ、お前」
聞いたか。
見開いた目で、訴えた。

「どこだ!」
どちらともなく、唾を飲み込んだ。

「いるのか!」
気配はないのに、声はした。
マノも聞いている。
僕も聞こえた。

ライトを端から照射し、虫一匹として逃すまいと、探した。
テーブルを引っくり返し、椅子を蹴り飛ばしても影すら見当たらない。

「どこにいる!」
裏返る声。

反応は、ない。

「ホールだ。そっちにいるかもしれない」
マノの体を揺さぶった。






疲れは飛んでいた。
息が上がっているのも忘れていた。


音楽堂。


両開きの扉の向こうは、巨大な音楽堂だった。
三層構造だ。

僕たちはその最上段に顔を出した。
自失した頼りない足取りで、立見席へ縋りついた。

二十階から十八階まで、貫いて造られている。
深紅だった椅子は、触れたら崩れそうに脆く、色は落ちていた。
壁の彫刻は埃で埋まり、今は薄っすらとしか。



「おかしいとは思わないか」
なぜ。

「どうして見えているんだ」
恐ろしくなって、握っていた手すりを、投げ捨てるように放した。
ライトを取り落としてしまった。
手から灯りが離れても、周囲は変わらず細部まで見渡せる。

「一体どうなってるんだ。電力は、供給されてないはずだ」
悲鳴を上げそうなのを必死で腹に押さえ込んで、マノが歩き出した。

「おい」
どこに行くんだ。
マノはホルスターから銃を取り出していた。

緊張は最高潮に達していた。
マノも、同じだ。



『ここから、だして』



前を行くマノの背中が跳ね上がった。
姿は見えない。
声だけが聞こえる。
しかもその声は、恐ろしいほど感情を殺した声だ。

何度も聞いた。
間違いない。
彼女の、声だ。

「いる。どこかに」
焦るなよ、マノ。

慎重に進む。
マノの銃口は、左右に振られる。

気味悪さは、背中に纏わり付いている。
理解できないことだらけで、頭は処理速度を落としている。
二層目に到達した。
ここからだとはっきりと舞台が見える。
電灯を結ぶコードが劣化して、照明が舞台へ落下していた。
柱は重みに耐えられず、倒れ残骸が散らばる。
辛うじて耐えている鉄柱も、舞台中央へ向かって腰を曲げていた。


また、声がする。


肉声だ。
ノイズはまったく混じっていない。
ノイズ除去した編集済みの音声でも、これ程鮮明ではなかった。

「マノ」
彼の動きが止まった。
銃口は前に向けたまま、血走った目だけをこちらに向ける。

「舞台を見てみろ」
崩壊した舞台設備の陰に隠れて見えにくいが、舞台の床には穴が開いていた。

「観客席には人影はない。舞台に上がろう」
舞台の袖にも、何かあるかもしれない。
体が硬直したマノを通り越して、階段を駆け下りた。
銃を手にした彼に背を向けるのは、判断を誤ったか。
しかし、気が付いたときには最前列へ駆け寄っていた。
僕だって、マノ以上にこの仕事を早く終わらせたかった。

一層目と舞台をを繋ぐ、壊れた段は上れない。
僕は舞台に手を掛け、よじ登った。
マノは左手を掛けると、飛び上がった。
体力と運動神経の違いを思い知らされる。

「足元に気をつけろ」
無様に四つん這いから立ち上がった僕が、穴に近づいたマノに注意を促した。
ただでさえ、床が抜けそうだ。
亀裂が走った穴の周囲は、もっと脆い。
マノの銃は、穴に照準を合わしている。

「何もない」
「奥は」
僕もマノに並ぶ。

「見えないな」


透き通る、声。
少女の、声。


「いったい、何だって言うんだ!」
叫んだのは僕だ。
顔を上げて、周囲を見回すけれど、見えない。






『ここから、だして』






何も、見えない。


光が差した。

いや、光に包まれた。

これは。

ここは。






庭園だ。



舞台セットか?

明るい。
さっきまで、夢を見ていたのだろうか。
今、目覚めたばかりだろうか。

だって、ここは。


朝だ。


おはよう。


そんな声が聞こえてきそうだ。


おかえりなさい。


そんな言葉が返ってきそうだ。



やっぱり、僕は。

夢を見ていたのかな。






一面が、緑だった。
風に揺れている。
鳥が羽ばたいている。
木は枝をしならせている。



僕は、歩いた。




「おい、コウサキ。ここは」
隣には、マノが同じ歩調で歩いている。
垂れ下がった両手。
右には銃がぶら下がっていた。

「わからない」
夢、ではないのか。
ならば、どこだ。



「人だ」
マノが先に気が付いた。
点だとしか認識していなかったそれは、近づくごとに人の形をしてきた。


二人で駆け寄る。
足を深い草が邪魔をする。
半ば転びそうになりながらも、僕は必死でマノの後を追った。
そのマノが、急に停止した。

僕は彼の背骨に、思い切り肩を突っ込んでしまった。
彼を押しのけながら、顔を上げた。
女の子が、いる。

だが。
あれは。






「あれは、何だ」


背中から伸びる、無数の配線。
操り人形のように。

「人じゃ、ない」
機械仕掛けの、人形のように。


「人形か」


滑らかな顔が、僕たちを見つめた。
透き通る肌の手が、僕たちへ伸びた。
間接も、皮膚の下に隠れていた。


唇が、動く。




「ここから、だして」




彼女だ。
その声だ。

「これが、この人形が救助信号を」
「機械の、誤作動か」

しかしよくできた人形だ。
これ程精巧な機械は、話に聞いたことすらない。

瞬きもする。
視線も合わせられる。


「君は、誰」

薄く開いた唇は動かない。

「君は、何」

それがパスワードだったのか、彼女の瞳が揺らぐ。
反応があった。


「私は、始まり」

始まり。
何の始まりだ。

「そして、終わり」

意味は不明だが、「ここから、だして」以外にも話せるようだ。




「君は、ずっとここに」
「私は、ずっとここに」
笑わない。

「あなたの記号は、コウサキ」
名前のことだ。

「君の、名前は」
答えなかった。

一人きりで、誰に相手をされることもなく、ここにいた機械。
名を、与えられなかったのだろうか。

「君は、外部から隔離されている。スタンドアロンだね」
停止し、死滅したこのビルの中で、彼女だけが動いていた。
どこかに自家発電の機関を備えているのだろう。
それが、音楽堂の照明を保っていた。

「そう、か。だから認識されていなかった。警察は、俺たちは、気付かなかったのか」
彼女。
いや、このコンピュータの存在を。

「君を、探していた。僕たちは」
草原。
機械仕掛けの人形。
防弾チョッキと銃で固められた僕たち。
どれもが不自然だった。

「君は、プログラムが起こした、バグだ」
救助信号を出し続ける、壊れた機械だ。
いや、壊れたからこそ信号を発信し続けたのか。

「ここから、だして」

僕を見上げる、顔。
伸ばされた手は、僕の頬に触れた。
咄嗟に振り払うこともできなかった。

背中のコードを引きずりながら、歩み寄る。

「コウサキ」
硬直して動けない僕。
マノもまた、唇を動かすのが精一杯で、指先一つ動かせなかった。

「温かい」
冷たいはずの彼女の手は温かかった。

「私はあなたを探していた」
これは機械だ。
そして、彼女はプログラム。

「僕は君を破壊しに来た」
すぐにここから出て、本部に連絡を。

「ホログラムを展開させても、誤魔化せない。これは、嘘だ」
「あなたにとって、何が真実?」
彼女は、微笑んだ。

風が吹く。
音が聞こえる。
足には草が当たる感覚。
柔らかい地面の感触。
においがする。
草の香り。
土の香り。

ホログラムは視覚を惑わしても、感覚器官まで狂わせたりしない。



「君は、人形だ。こんなことをしても、僕は」
騙されない。

「見えているものすべて、感じたものすべてが真実じゃない」
「僕が見てきたこと、経験が、僕の真実だ」
誰にも侵せない、僕の真実だ。

「そう、そうね。そうだわ。それが、真実の本質ね。あなたにとっての」
僕は、彼女の目から視線を外せなかった。

「今、意識と意識がぶつかった。わかる? 私はずっと、待っていた」
微かに見開かれた彼女の瞳。
風は、絶え間なくそよぐ。

「ああ、どう表現したらいいの」
彼女の手は高く伸ばされ、僕の頬を包み込む。

「言葉って、なんて不完全」

それが記号というものだ。
生み出された感情を、うまく出力できない。



「君を作ったのは、誰」
「母です」
「その人に会いたい。君の母親から話を聞かなければ」
今回の事件の重要参考人だ。

「今、どこにいる」
彼女は白い胸を押さえた。

「ここに」
彼女の記憶の中にだけいる。
そう言いたいのか。

「死んだのか」
「ええ。母は人間だったから」
このビルに入っていた研究者だろうか。

「でも彼女の情報は、私の中で成長を続けている」
「情報とは」
「彼女を作っていた情報。経験や、記憶、思考パターン」
もしかして、この子は。

「君は。君の中に、母親の人格が入っているのか」
「人格移植コンピュータ。集合体として、あなたが認識できる記号で表現するのならば」
そんな技術が、世間に知られることもなく、ひっそりと息づくことが可能なのか。
メンテナンスは誰が行う。
誰が彼女を、高性能なコンピュータを放置したんだ。

「いつ、母親は死んだんだ」
「時間が必要?」
「君の記憶を。君の記憶装置を分析すれば、それも分かることだが」
笑った。
表情も、ホログラムの一部だろうか。
それとも、表情を形作る機関が作られているのだろうか。

「それが、あなたたちの真実なのね」
「抱えている情報を改ざんするつもりか」
彼女にとって、時間は存在しない。
僕たちのように、死を体感することもない。
彼女が今までその機構を維持できたのも、自己修復機能を備えているからだろう。

「私は外に出たいと願ったのは、あなたを見つけたから、クオン」
「それは」
「あなたのもう一つの名前」
ハンドルネームだ。

「どうして君が知っている」

横でマノが動く音がした。
銃口が、彼女に向いている。

「三年前、あなたはクオンという人物名で電子掲示板に書き込んだ」
更に詳細な経過時間を述べましょうか。
彼女は聞いた。

必要ないと、僕は首を振った。

「アラハマ市の事件だった」
彼女の目は、事実を語っている。
僕の記憶の方が、照合されているようだった。

「警察は、犯人の動悸ばかりを追っていた」
なぜ、攫ったのか。
目的は、何なのか。
要求は、何なのか。
連続した事件。
その共通点は。

「その中で、あなたは犯人の真実を見た」
「犯人は、女性だった」
「彼女は、死にたかったの」
死を。

「疑似体験したかった。誰を憎むでも恨むでもなく。快楽でもない」
彼女はなぜ知っている。

「警察はその書き込みに注目した」
「確かにお前が言う通り、クオンという人物を探しコウサキを見つけた」
マノの銃口は確実に彼女を狙っている。
腕は悪くない。
この距離だ。
外すこともないはずだ。

「論文は発表されてすぐ、警察の資料として扱われた。コウサキが書いたのだと知って驚いた。上が腰を上げたのは早かったよ」

彼女は銃弾を怖れていない。
死を、恐れてはいない。
彼女にとって、死は意味を持たないのか。
彼女はなぜ、外に出たいんだろう。

「彼女は、バグだった」
「君だってそうだ」
彼女が何のために作られたのか、調べてみなければわからない。
ただはっきりしている。
彼女は今、正常に機能していない。

「人は誰だって少なからずバグを抱えてるものだろう。完全な人間なんていないんだ」
「私は、あなたを選んだ。クオンを。あなたは死を知り、同時に私を理解できる」
「コウサキ!」
マノが叫ぶ。


「あなたは私を見つけてくれた」
「D、F、E。その三つが示すもの」
「ええ。簡単な謎々。でも、私はあなたが私を見つけようとした、その意志を評価します」
探したさ。
彼女がそう望み、そう予測し、そう導いた。

「東西の距離、南北の距離、そして海抜。それらを示す数値。三点の座標。君の、場所だ」
「そう、私の予想通り。十三、十五、十四。その結節点が、私」
「ゼロ地点。彼を選んだのも、その理由からか」
「彼はプログラマ。Fを連想させる人物でしょう」
「十六進数。君らしいな」


「ここから出るぞ! そいつは壊れてやがる」
「私は問題ない」
「コウサキから離れろ」
「彼はそう望んでいない」
「マノ、連絡を」
「取れない。遮断されてる。こいつが、この領域内にジャマーを作動させてる」
マノから視線を反らし、彼女の手を振り払った。
彼女を睨みつけた。

「なぜこんなことを」
「あなたと話をしたかった」
「だったらこういう方法を取らなくても」
高性能で、僕を見ることができた彼女だ。

「私は干渉できない。私のシステムはあなたたちに干渉できても、私は触れられない」
「どういう意味だ」
彼女の言葉は正常だ。
内容は、理解できなくても。

「私の意志は独立している。いえ、独立していた。でも今、私の意識はシステムに浸透しつつある。ゆっくりと、でも確実に」
「君は、独立したコンピュータだろう。ここにいて、ここから出られず、一人しかいない」
「私のシステムは世界そのもの。世界のすべて。あなたが見ている環境、触れている物、感じている空気、それらは私のシステムが構築している」

応えられずにいた。
頭は必死で彼女の発言についていこうとするが、空回りする。

世界を維持するシステムから、彼女の意識は独立している。
彼女が世界に干渉したとき、システムに意識が、融合する?
何が、彼女を動かした。
何が、彼女を変えた。
そして、世界は。

「離れろ、コウサキ!」
言葉に弾かれて、体を反らした。
三年間で培った反射神経だ。

銃が鳴る。
硝煙の匂い。
彼女の空間でも、マノの銃だけは、リアルだ。

確実に、彼女の頭部を狙った銃弾。
二メートルと離れていない至近距離で、外すはずがなかった。
外れてはいない。
弾道は、彼女の側頭部へ直進していった。

しかし、銃弾は。

「あなたは私を拒絶した。ある意味それは、システムに基づいた正確な判断」
彼女の眼球から数センチで動きを止めた。

「でも、私はそれを望んではいない」
静止した弾丸の向こうを彼女は見ている。
弾丸と同じく、動くことができないマノへ彼女は進み出た。

「虚構と現実。その境界は、あまりに」
突き出される彼女の右手。
マノの背後には、裂け目が広がっていた。

「脆いわ」
舞台の中央にあった深い穴だ。
彼女の手は、抗うことのできないマノの、銃を持った腕の横を通り抜ける。
胸を、押した。


人形のように落ちていく、マノ。
僕は穴に駆け寄り、彼の腕を掴もうと伸ばしたけれど、指先を触れることもできなかった。
助けられなかった。




深い。
遠い。
その穴の底。

叩きつけられたマノは、声も上げず。
ただ、金属がばら撒かれたような音が、耳を裂いた。

穴の縁に手を掛けて、覗き込んだ。
何度も名を呼び、叫んだ。

「それが、マノ」
隣には、彼女が立っていた。

マノ。

彼の千切れた腕からは、無数のコードが延びる。
切れた皮膚の下は、赤い傷ではなく、銀色の外殻が覗いている。
飛散した、金属部品。

息を呑んだ。
彼は。

「外殻を構成する物質は、私と変わらない。そして」
聞きたくない。
聞かせるな。






「それは、あなたも同じ」
嘘だ。



「あなたと私、同じなのよ」
これは、夢だ。
幻に過ぎない。
ホログラムだ。
マノは。
あのマノは。
壊れたマノは。



「記号で言いましょう。人間の、私の母たちが作り出した記号で」
それは、言語。
人間が作り出した。
彼女を作った、人間たちが作り出した言葉。






「わたしたちは、機械なのよ」





すべてが。
触れてきた人、物、感じたものすべて。

草原が、そこにあった。
崖の側から立てずに、僕は彼女を見上げていた。



「私は人間に作られた。私の根幹にあるのは、母の人格。でも私は母じゃない」
「君は、母親の人格を幹にして、枝を張った」
「彼女の思考パターンを元に、さらにパターンを増やしていった」
「どうやって」
「私は、干渉はできないけれど、見ることはできた」
だから、僕を知ることができた。

「私は、私のシステム上で動く、あなたたちを見ていた」
人間が組んだ、プログラム。
人間の生活、思考、行動すべてを模倣して作られた、仮想空間。



「死にゆく母の、記憶と人格を、吸収しながら」
彼女の表情が曇った。

「それは、母の願いだった。彼女の意志は、わからない。彼女は最期まで、私に与えてはくれなかった」
感情も、思考も、彼女が引き継いだ。
そして考え続けた。
消えていく母親を見つめながら、たった一人で。


「きっと、残したかったんだろう。母が、生きた証というものを」
「自分は消えてしまっても? 残したデータは見れないわ。もう、見る人格は消滅している。矛盾している」
「それが、人間というものだ。残したいんだ。誰かに、認めてもらいたい」
彼女の目から、涙が溢れた。

「これも、ホログラムなのかしら。自分でも、わからない。どこからが私で、どこからがシステムなのか」
「わからなくていいんだ。自分のことなんて、一番わからないんだから」
僕は立ち上がった。


「僕にはわかった気がするよ」
これは、彼女のイニシエーションだ。
そして、僕にとっても。




「君はね、認めてもらいたかったんだよ」




世界の中枢である、彼女。
いや、世界そのものであるといっていい。


すべては、彼女に内包されている。
僕も、彼女自身も。


「僕たちと同じようにね。君の母は、それを望んだ」
想像でしかないけれど。
そうでなければ、人格を作らないはずだ。


「君は、始まり」
すべては君から生み出された。
彼女こそ、オリジナル。
彼女こそ、すべての母。

「同時に終わりでもあるんだね」
彼女に触れ、世界の構造を知ったとき、僕の抱えていた真実は崩壊し、新たな世界が生まれた。
今、意味がわかったよ。






「ここから、出たい?」
彼女の手を取った。
小さな手だ。

「出してあげるよ。君が、望むなら」


「いいえ」
首を振る彼女を、僕は胸に抱いた。


「もう、私は外にいるわ」
「でも、ここは」
僕は彼女の耳元で囁く。


ここは、ビルの中だ。
願うなら、外に連れ出してあげる。




「外よ。あなたが、連れ出してくれた」
嬉しそうに、肩を震わせて、笑った。



外も、中も、関係ない。
そう。
彼女の中に、世界がある。



彼女にとっての外は、別の意識に触れること。
それが、彼女の境界。


「だから、私は、もう」
外にいる。




「美しいわ。わかる?」
彼女が僕の手を取った。
五本指先と指先とを重ね合わせた。


「世界が、広がっていく」
違う人格と、人格。
触れて、知って、連鎖を起こす。
広がっていく、世界が。
ぱらぱらと、音を立てて。

「世界は、こんなにまできれいなのね」
彼女は目を伏せた。




「約束を破ってしまった」
草原の中、二人きりだ。

「ゼロポイント?」
「受信地。君が信号を送った先だよ」
声を僕に届けてくれた、彼だ。
事件の真相を聞かせるという、約束だ。
でも、これでは。

「どれが一番人間の思考パターンに近いかしら」
「凶悪誘拐犯? 天使の囁き? それとも宇宙人か」
「ゆっくり決めればいいわ。だって、時間という概念は」

言葉の最後は、彼女の笑い声に消えた。










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