((( クロノ・クロウラ 11 )))




透けていった、織の体。
ガラスのように、氷のように薄く実体を失っていく。
存在が希薄になっていく。

天使に、そもそも実体があるのかすらわからない。
構成される物質は光か水か。
どちらにせよ、織は空気に溶けていった。

物質が粒子となり、光となって大気に溶ける。

織はその体とともに、意識を空気に同化させていった。

光を見ていた。
紅茶に沈めた砂糖のように、ゆっくりと輪郭を失っていく織を、蒼はただ見ていた。

手を伸ばして、消えゆく織を両腕で包み込んだ。
柔らかい確かだった感触は、すり抜けるように消えてしまった。

消えるなと願っても。
すべて棄ててもいい。
投げ出してもいい。
織を連れて行かないでくれと祈っても、蒼の声は届かない。

空っぽの腕の中を、呆然と何十分と眺めていたのかわからない。
部屋を見回しても、織はいない。
そこにはもう、織を消滅させた天使は、いない。

人として生き、人として、織は消えた。
消されてしまった。
あの白い天使に。




軽かった、体。

蒼は織のぬくもりを思い出そうとした。
ほんの少し前までは、その腕の中にいたのだから。

薄く開いたままの唇の間を、乾いた空気が流れていた。
両手が、かすかに振動している。

織は、本当に生きることをあきらめていたのだろうか。
大切なものを抱え込むことに、疲れてしまったのだろうか。
失いたくないほど、ずっと側にいたいと願い
自分を犠牲にしてまで守ろうとした少女との時間を、消去したいと思っていた。
本当に、そうなのだろうか。
考えても、言葉に出しても、誰も答えてくれない。





一人きりの部屋で、冷たくなっていた自分の体を抱え込んだ。
腕の中にいるはずの織は、もういない。

奥歯を噛み締めた。
すべての物を壊したい、破壊欲が腹から燃え上がる。
自分さえも。

拳が床を殴りつける。
何度も、何度も。
木製の床だから、こもったような鈍い音が、部屋を揺るがせた。

小指が変色している。
ひびが入っている。
骨が、折れているのかもしれない。

何もできなかった悔しさ。
止められなかった。
歯軋りする歯の隙間から漏れ出る懺悔が痛々しい。

織のいた痕跡すら、ない。
救ってくれたのに。
暗かった場所に、光を差してくれた。

汚れている?
そんなこと感じたこともない。
体も、心もきれいだ。

一緒にいた時間?
関係ない。
たった二日だろうと、時間にすれば何時間だろうと、関係ない。

側にいたい。
誰かを失ってできる傷が、こんなに痛いなんて。

だけど、織はもっと痛かった。
見守り続けてきた少女を、目の前で奪われたんだ。

そして今度は織を奪うのか。

やりようのない悔しさと憤りが、床へ打ち付けられる手に集まる。




拳の痛みが、叩きつける額の痛みが、心の痛みだ。
それでも補いきれない深いクレバスがある。
どうやって埋めろというんだろう。
わからないまま、同じ行為を繰り返す。
涙に床が濡れ、手が湿っていっても、止まらなかった。


吼えた。


声を聞きつけて、叔父が扉を乱暴に開いた。
その激しい開閉音でさえ、声にかき消されていた。


叔父の制止も、叫びに潰される。
彼の茶色の瞳が、織が眠っていたベッドに平行移動した。


眉毛が跳ね上がる。
あるのは、シワが寄り、所々乾いた血液がにじんでいるシーツだけだった。

蒼は、叔父の腕を振り払う。
手加減など、頭には一粒たりとも存在しない。

腕を背中へと振った次の瞬間、叔父の体は床をスライドし、窓際へしたたかに背中を打ちつけた。

動きが止まる。

すぐに立ち上がろうとするが、意思に反して体は動こうとしない。

それが幸いだった。
それ以上組み掛かってこようものなら、残ったのは
一週間鈍痛が続いた腰だけではなかっただろう。

長い脚が床を割る勢いで、駆け抜けた。
階段を、走り降りる音がする。


屋敷自体を崩れさせそうな、玄関の大扉を叩き閉める轟音に、肩を震わせた。


屋敷に、沈黙が戻る。



蒼は、家を出て行った。
確かめるように、叔父は耳を尖らせた。
気配はなく、ようやく強張った肺からゆるゆると、頼りない呼気を吐き出す。

安堵すると同時に、甥に初めて恐怖を感じたことに、彼は自嘲した。






織は、消えた。
蒼の腕の中で。

消えてしまったから。
いなくなったから。
探す場所などないのに、蒼は探さずにはいられなかった。


走る。
雨上がりの、空気の滞留する、コンクリートの道を。


息があがる。
眼鏡が吹き飛ぶ。
構わない。
レンズは割れて、水溜りの水を弾き飛ばした。


声は掠れていた。
湧き上がる涙で、喉は痺れていた。

それでも叫ばずにはいられない。

「誰かを愛することが、そんなにいけないことなのか!」
流れ落ちる涙か汗かを拭うこともせずに、ただ走り続けていた。

「ならどうして創った! その感情を! 大切に思う心を!」
禁じるくらいなら
罰を与えるくらいなら
初めから創らなければいい。

「どうして織を傷つける。そうまでして罪を創り罰を与えるのはなぜだ!」
言葉に答えは返ってこない。

 

振る腕は、重かった。
どこに行けばいいのか、わからない。

だからこそ、いまだからこそ、もっともっと
織を知りたいと思った。

失ったからこそ気づくもの。
その代償は、大きい。




また、朝が来た。

織と出会い
彼と街を歩き
織が魂だけの存在だと知った。

織を求めて駆け回り
見つけ出した。

眠りが醒めて
ようやく本当の意味で側にいられると思ったのに。
それもまた、夢のように儚く散った。

夜が終わり朝が来て、また夜になり朝が来る。
隣に、織はいない。





人間が、動き出している。
ここにいるすべての人間の命を引き換えにしても、織は戻ってこない。
蒼の中で織は、それほどまでに大きな存在になっていた。


鳥が騒ぎ始める。
今はそれすら、耳からは遠い。


街の隅まで、走り回る。
止まらない。
口には、鉄臭さがこみ上げてくる。


心臓が、壊れそうになる。
それでも良かった。
これを、悲しいという。

蒼には、わかった。
この痛みが、織の痛みだった。


大切に、大切に守ってきたものを失う痛みだ。

この痛みが胸だけでなく、体全体を包み込んで、消してしまってほしい。
蒼と同じ気持ちを、織が味わった。


もう二度と、感じたくないから
記憶ごと、感情を封印する。
織はそれを受け入れた。
もう二度と、愛することがないように。


気がつけば、星を見上げた丘へ来ていた。


織のことを知った場所だ。
自分のことを言い渋っていた。

あのときから、自分の過去を少しずつ思い出してきていた。
必死で押さえ込もうとしていた、織を苦しめてきた記憶が
蒼という存在に出会い、触発された。


霞がかった、街がある。
淡い光が、街と蒼を包み込む。


乱立するビル群。
密集する人間たち。
そのなかに、織はいない。
願いはもう、届かない。




再び、蒼は走り出す。
最後にひとつだけ。

「織」

こんなに遠いなんて。



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