((( クロノ・クロウラ 08 )))




酒場の中は薄暗かった。
暖色の灯りで包まれる広くはない店内は、煙草の煙で更に見づらくなっていた。

初めてだろう、アルコール浸しの空間にも臆することなく、蒼は突き進んでいく。
入り口から数歩のところで立ち止まり、店内にあるテーブルをすべて見回した。
隅まで漏らすものかという気迫は、ただでさえ荒っぽい客たちを刺激する。



化粧の濃い女たちは、肩を寄せ合い、隣同士で蒼を見ながら囁きあう
などと、大人しく椅子に収まってはいない。


「喧嘩を売るつもりなら、買うよ」といった威勢のいい姿勢で、睨み返している。
色とりどりに鮮やかな髪だったが、どの女も一様に三白眼で凄んでいた。
男性客の何人かはすでに、腰が半分浮き上がっている戦闘態勢だ。


いない。


赤髪の少年を探した。
それらしい人を見つけると、蒼が視線をこちらに回してくるけど、ぼくは横に首を振る。

カウンターに赤毛の女は座ってた。
黒のスラックスを履いて小柄でも、女は女だった。
あいつ、じゃない。

しばらく動けなかった。
この場所が、最後の頼みの綱だったから。

西に来たことは覚えている。
来たのなら、必ずこの店で時間を過ごしたことも。
それから、この店にはあいつがいつもいることも。

だとしたら、ぼくの行き先をあいつが知っているだろう。


でも、もし。
あいつが、ここにいなかったとしたら?
すでに客を取っていて、店を出て行ったとしたら?
小さい店とはいえ、自分の客を相手にしていて、ぼくを見ていなかったとしたら?

考えるのが怖かった。

それは、蒼も同じだ。
祈るような気持ちで、見回していただろう。
自分の目を、何度も疑って。

でも、眼鏡を挟んでいても見える光景は真実だった。
映る視界に、あいつはいない。






今にも飛び掛りそうな男たちの凝視の中、石みたいに固まってた蒼の肩が動いた。
蒼の表情から、状況を読み取ろうとしたけど、声を掛けるより早く蒼が駆け出した。

突っ込んでいったら、間違いなく殺される。
あの男たち、ナイフぐらい常備してるんだから。
無茶だ!


蒼は振り向きもしないで、細い目を見開いたまま
肥ってメガネの埋もれたマスターがいる、カウンターの隅にある扉へと突進する。

ほかの客には目もくれず、真っ直ぐに。


「蒼!」
「おい!」


蒼だけに聞こえる、ぼくの悲鳴に近い声と蒼の叫び声が重なった。
「お前、織を知ってるだろ」

座りかけた一人の客に、蒼が手を掛けた。
そんな優しいものじゃない。
蒼の背中で塞がれてはいたけれど、ぼくからは蒼が捻り上げた、客の細い腕だけが見えた。
蒼? 何してるんだ。


まさか


「蒼、その人」
赤く燃える髪が、蒼の脇から覗いた。
「そいつだ」
「やっぱりか」


「何するんだ、放せよ!」
噛み付きそうな、猫みたいな金切り声。
聞き覚えがあった、間違いないこいつだ。

「そいつだ、蒼。見つけた、やっと」
店に入って、初めて蒼がこっちを見た。



カウンター横の木の扉から、用を終えてでてきたところを、捕まえた。
よかった。
見えないところだったけど、でもちゃんといた。


「話がしたい」
「ってぇな。あんた、客? それともおれに喧嘩売りたいわけ? どっちかにしろよな」

放された左手首をさすりながら、蒼を睨み上げる。
蒼は、眉間にしわを寄せたままの鬼面で、一番奥の席に視線をずらした。





「で、あんた何飲むの?」
壊れそうに軋んでいる椅子に座るなり、赤毛が言った。
もちろん、こいつが支払うわけじゃない。
蒼が黙ってるのに舌打ちをして、店員に注文する。


「あんた、おれを買うの? ならさっさと」
「織を知ってるな」
「誰?」
「織だ」
「だから、誰だよ」
そっか、こいつぼくの名前知らないんだ。
お互い、聞く必要なかったから。
会いたければ、ここに来れば大抵会える。
必要なら、そうすればいい。

「髪は薄茶色、目は大きくて、年はお前くらい。少し前に、ここに連れて来ただろ。『西は稼ぐのにいい、少しきついけど』って言って」
木の椅子の上で脚を組みかえて、少しの間天井を見ていた。
ぼく以外にも、何人もここに連れて来てる。
すぐにはわからないだろうな。




「そっかあいつ、織っていうの。ふぅん、なかなかいないタイプだ。慣れてないっていうか、馴染まないっていうか。普通、仕事やってるとさ、自分がどんな顔だかっての、わかってくるんだよな」
顔がいいと、上客に売れるし、まずいとそれなりの客だ。

「あいつ、わかってんのかなぁ。自分が、どんな面してるのかってこと。仕事やってくうちに、目が変わってくる。顔も。何ていうのかな、とりあえず金。そのためなら何でもする。駆け引きだろうと、何だろうと。もちろん薬売ったりする奴も出始める」

ぼくを連れてきたそいつは、ぽつりぽつりとだけど話し始めた。
「でも、あいつは興味ないみたいだ。自分を飾ったり、うまく生きるために笑ったり。そう、笑わない。何であいつ、こんなところにいるんだろ」
「今、そんなことを聞いてる時間はない」
十八くらいかな。
痩せっぽちの男が、グラス二つを鷲づかみに持ってきた。
波立つぐらい音を立ててグラスを机に置くと、無表情のまま次の注文に歩いていった。




「あんたさ、その『おり』ってのの、客なの?」
「織を最後に見たのは、お前だと聞いた」
強引に押し切って話を進める。
そのくらいでなきゃ、本題になんか入れないんだ。



「見たね。連れてきて、話をしたのが、一ヶ月くらい前で、最後に見たのが、昨日だ」
「それで」
「客を取ってた。いつもみたいにね」
「どこに行った」
「は?」
「織を連れて行った客は」

蒼が机に拳を叩きつけた。
グラスに噴いた水滴が、流れ落ちる。

「知るかよ。どこ行ったかなんか」
「どんな男だった?」
「よく見てない」

蒼の視線がよほど恐ろしかったんだろう。
目をそらすと、瞬きを繰り返した。

「カウンターに座ってた。その、『おり』ってのが。で、また来てんだなって思って。しばらくして、一時間かそこらだ。客がきた。おれは交渉中だったし、あんまりそっちは見てなかったけど、背の高い男だ。肥ってない。黒い服着てて、あんたほどじゃないけど、金は持ってそうだった。で、『おり』の隣に座った」
「それから?」
「気がついたら、あいつと客、カウンターから立ち上がったんだ。あんまり来る客じゃなかった。おれ、見たの初めてだったし。でもよく金を落とす客みたいで、カウンターのクマが、へらへら笑って『またよろしくお願いしますよ』とかって、叫んでた」


黒いコート、背の高い男。


「どこだ。どこに行った。聞いてただろ」
宿のはずだ。
そう、この近くで。





滑らかで軽いコートが、風で翻っていた。
たまにいる。
上流階級の人間がふらりとこのあたりにやってくることが。
大抵、変な人間が多いけれど。
リスクはある。
でも、返ってくる紙幣の枚数は格段に多い。






「イン、って。えっと、『D』だったよなたしか」



D-A-R-T-S



ダーツ、だ。
そう。
思い出した。


「ダーツ・イン」
蒼が、呟いた。ぼくの口から漏れた言葉を拾って。
「えっ」


なんでお前が知ってんだよって顔してる。
「そこだよ、そこ、『ダーツ・イン』。あんた、行ったこと」
「ない」
ならなんでだよ、ってあいつが言葉を挟む間もなかった。


「どこにある?」
ガラス一枚通しても、蒼の眼光は鈍らない。

「近く。外に出て、右」
「それから」
「えっと、角曲がるんだ。三つ目のを右に」
蒼が、スラックスのポケットを探る。
黒い財布の中から、紙幣を二枚取り出した。

「おい、これって」
「ありがとう」

手をつけていない飲み物と情報料込みの飲み物代、赤毛を置いて席を立つ。
「おい、その、『おり』って」
「友人だ。だから探してる」


友だち、か。


ぼくを連れてきた、あいつは目の前の金に手を伸ばすことも忘れて、黙ったまま蒼を見送った。




外の雨は、なお、強くなっている。





「もう少しなんだ」
雨を見据えている。
先なんて、かすんで見えないのに。


「もう少しで、手が届く」


『ダーツ・イン』、ぼくが最後にいた安ホテル。
そこからぼくは?

それから、ぼくは。
今はどこかの路地裏に転がっている。

雨にかき消されていく視界のように。
消えていく記憶の向こうに、ぼくは見ていた。

酒場からの道に、あの日を重ね合わせている。
本当なら、来るべきじゃなかったんだ。
後悔を引きずっている。

「俺は、必ず織を見つける。だから、織もがんばれ。いいな」

蒼を、巻き込んではいけなかった。




だれかが側にいてくれるって、本当に温かいことなんだって。
蒼と一緒にいると、教えられることばかりだ。
ぼくは、蒼に何ができるだろう。

何も、できないよな。

だって、何も持っていないから。
自分の記憶でさえ、なくしてしまったんだから。


二年前からの記憶。
じゃあ、その前のぼくは何をしてたんだろうな。
ずっと、今みたいに、自分を売って生きてたんだろうか。
お母さん、お父さん、それに兄弟なんて、いたのかな。
友だちは?

だとしたら、どうしてみんな、いなくなっちゃったんだろう。
どうしてぼくは、昔を忘れてしまったんだろう。
誰かを愛することを、忘れちゃったんだろう。
忘れなくてはいけなかったのか。
だとしたら、思い出したとき、ぼくはぼくでいられるんだろうか。


三つ目の角が近づく。
あぁ、その壁の向こうには、白い壁に囲まれたホテルがある。


汚れているのは、体?
違うな、心だ。
ぼくの心が、汚れている。


角を曲がった。

蒼、やめよう。

あそこには、行きたくないんだ。
歯を食いしばって、蒼のシャツを思い切り握り締めた。


行かないで。お願い。






白いシーツ。
叫んでも、叫んでも、声は届かなかった。
痛いって、やめてくれって声を絞り出しても
腕を離してはくれなかった。
あの地獄のような苦しみが、オーバーラップしてくる。
恐怖と痛みが、ぼくを引き裂いていた。

狂気に満ちた、男の眼。
獣のように、荒々しい息が顔に吹きかかる。
首筋に埋められた唇が、生温かくて気持ち悪かった。
服を破り剥がされ、ベッドに押さえ込まれる。
暴れると殴られ、痛いと叫ぶと、口を塞がれた。

きれいに撫で付けられた男の髪が乱れていく。
それは人としての理性を失っていく過程のように思えた。

殺される。
死んでしまう。

叩かれた、蹴られた。
重ねあう肌に、鳥肌が立った。

血のにおいがした。


朦朧とする意識の中、ぼくは再び黒のスーツで身を固めた男に、引きずられて宿を出た。
紙幣は。
破かれたシャツのポケットに押し込まれている。

宿の前、人の姿のない通りに出ると、男はぼくを置いて逃げるように去っていった。
規則、規律で塗り固められて身動きできなくなった狂気は、ぼくたちのような世界で発散される。
放出し終えて、乱れなく衣服を着込むと途端臆病になる。
切り替わる。
スイッチのように。
仮面のように。

そして、ぼくは。
ぼくは。






「どうした、織」
「死にたくないんだ、でも」
助けて。
お願いだから。

死んだら今ある記憶もなくしてしまう。

でも

蒼がぼくを見つけてしまったら。
きっとそれでもぼくは、蒼を失ってしまう。
繋がっているこの手が離れてしまう。
今のままではいられない。

雨が。
水が、顔を伝う。

「泣いてるのか」

雨なんかじゃなく。


逃げてたんだ。
ずっと。
ずっと。

誰かを信じるのが怖かった。
失うのが、怖かった。

感情を、自分を曝け出すことなんてできなかった。
痛いのは、嫌だ。

体以上に、心が痛いのは、嫌だ。

醜いのは、そうして逃げることばかり考えていた、ぼくの心。
まだ逃げようとしている、ぼくの心。






「嫌なこと、思い出したんだな」


終わらせよう。
今度こそ。


宿は、角の向こうにある。
でも、ぼくはそちらを背にし、密集したビルの隙間に視線を向けた。
きっとごみとネズミしかいない、そこに。


だれも、助けてくれないから。
これが、ぼくが招いた結果。
ぼくが望んだ、死。

誰の目にも触れず、静かに朽ちればいい。
そう、思っていた。

帰る家はあっても、迎えてなんてくれない。
涙を流す人間もいない。
小さな命、小さな死。
なら、静かに消えていこう。

でも、悲しかった。
寂しかった。




失うものなんて、何もないはずなのに。










蒼の目が、ぼくの視線を辿る。
行き着いた傾きかけているビルの隙間で停まる。

蒼の足が速まった。

ぼくは、失うだろうものの大きさに耐えられず、目を伏せた。


埃と泥に塗れた、路地。
置き去りにされたゴミバケツの裏側を覗き込んだ。

硬直した蒼の体。
止まる呼吸。
声なんて、でないだろ。


それが、ぼくの姿だから。
触れないだろ。
捨てられた人形のように、力なく壁にもたれ掛かる。




「蒼」って、ぼくが呼びかけようとする前に、蒼が屈み込んで腕を伸ばした。
殴られて紫色がにじんでいる、『織』の頬に指を這わす。


乾いた血が、絵の具みたいに雨に溶かされて、茶色く筋になって流れている。
顔も、体も、脚もすべて泥と血とで、滅茶苦茶になっていた。
見えている部分も、服で隠れた部分も、傷だらけだった。
建物の陰にもぐりこんだから、少しは雨は避けられたけど
汚れた体は、洗われなかった。


「織、ごめんな、こんなになってるなんて、知らなくて、俺は」
抱きかかえてくれる。
蒼が、近くにいるのに、『織』は目を開かない。

「ごめん。ごめん」
ぼくはここにいるのに、『ぼく』を抱えている蒼の温かさは感じられない。
ただ、立って蒼の背中を眺めていることしかできない。

「帰ろう」

蒼はぼくを、抱き上げた。



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