((( クロノ・クロウラ 07 )))




「織、雨はきらいか?」




どうして、と聞き返すタイミングを失うほど、いきなりの質問だった。


「考えたことない」
「なら、考えて」


息が切れて、揺れている肩からゆらりと、蒸気が立つ。
空の下での営業活動だから、雨はないほうがいい。
体が冷えるから、好きじゃない。
それだけかな。
本当に、それだけだったかな。

嫌なことはいつだって雨の日に起こる。



月が見たいのに。
いつも何かが邪魔してる。
そう、透き通った声で言ったのは、誰だった?



「好きじゃなかったよ。雨の日は、嫌なことしかないから」
「嫌なこと?」
「そう。だってぼくが最後にここに来たときだって、降り出しそうな天気で」
最後?
記憶が走り抜ける。

自分が口にした言葉なのに、もう足跡すら残さない。
また、つかみ損ねた。

最後、来たのはなぜ?
誰と一緒にいた?


「ここで、この近くで仕事をしたことはあるんだな」
蒼は責めるような口調でなく、静かに話しかける。
それだけで、気分は救われた。


自分の仕事の話を、客でもない人間に話すのは初めてだ。
軽蔑の眼で見られるのは、気持ちいいものじゃないから。


「あるよ。西でも仕事ができるって聞いたから」
友だちを作って、ふざけあったりするんじゃない。
仕事のための情報の繋がりが、売るもの同士の繋がりだ。

どこかに雇われてっていうのも一つの手段だけど
そういうの、嫌だった。
仕事の上だって、人間同士だ。
絆、作るのが嫌だった。
仕事のできそうなところを探して、場所を変えてっていうのが、ぼくのやり方だった。


「噂みたいなもの。割りはいいけど、きついぞって聞いてた」
治安がよくない。
同じような雰囲気だけど、中でも西はぼくたちでも好んで行く場所ではない。
西に行けば、手に入らない薬はないといわれるくらい、ドラッグに浸っている。
女だけでなく、ぼくたちみたいなのも、夜に酒場に行けばいくらだって。

「来るたびに、道に迷うんだ」
「なのに、毎回無事に帰れたんだ」
「ああ、知り合いが連れて来て」
そうだ、どうして思い出せなかったんだ。
いるじゃないか、知ってる人間が。
ぼくを知っている人間が。

もしかしたら、ぼくを見つけられるかもしれない。
可能性がそこにある。
手につかめそうなんだ。


「あぁ、でも」


思い出せ、あいつはどこにいるんだ。
ぼくを知っている人間。
そしてきっと、西に来たぼくを最後に見た人間。
でも。

「だめだ、思い出せない」
どこにいるのかわからない。
せっかくここまで来れたっていうのに。





絹糸の雨が、粒になる。





立ち止まって、蒼を見上げた。
汗なのか、水なのか。
蒼のあごからぱたぱたと、水滴が休むことなく落ち続ける。


「雨は、きらいなんだ。いつだって、そうだ」
蒼の顔を伝う水の流れ。
涙のように。


でも、泣かない。
泣かなかった。
自分が明日死ぬかもしれないのに、死を恐れず、生きようとした。
いつだってそうだ。
泣かない強さが、見ていて痛かった。
誰が?

雨の日。
代わりに空が涙を流している。
誰の?

ぼくの。
違う、それはあの子の。



「雨の日はきらいだ」
それに、ぼくが最後に覚えてる日も雨、今日も雨。

「前に来たときも、雨の中だったって言ってたよな」
額を、顔を、真上から雨が叩いてくる。

「寒かった。でも、いつのことなんだろうな。時間すら、曖昧なんだ」
「どこに、行った? 客は、歩いてるだけじゃとれないんだろ」


頭がぼうっとするんだ。まとまらない、思考。
混沌としているから、記憶が乱れ飛ぶ。


「酒場に集まるんだ、ぼくたちは」
好きじゃないけど、お客はそこで拾いやすい。
「赤い看板の店、教えてもらった」
「客に?」
違う。
ぼくは、くらくらする頭で、ゆっくりと二度、首を振る。

「あいつだ」
「街の西側でも稼げるって言ったやつだな」
「そう。あのときぼくは、とても疲れていて」
お腹が空いていたはずなのに、それすら感じないくらいに体に力が入らなかった。

「もう、どうなってもいいっていう気持ちがあったのかな」
生きていても死んでいるのと変わらないって思ってたのかもしれない。
西は、危険な場所。
見回せばすぐわかる。


視界にゴミの丘が入らないことはない。
人間の匂いと、ゴミの匂いが同化してしまっている。


よくよく見ると、ゴミ袋の側に、ドラッグの残骸が落ちている。
あちこちで、人が寝そべっている。
生きているのか死んでいるのか判別できない。
それは見てみぬふりで、放置されたまま。

「お金がなかった。生きるには、食べるには必要なのに」
「それで西へ」
蒼が、ぼくの手をとり、抜け殻のビルの軒へと引っ張っていった。
雨に濡れるっていうより、頭から水を被ったみたいになっていたから。

「体が動かなくて、どうしようもなかった。だから、一回働いて少しだけ休もうって思ってた」
西の方がリスクがある分、見返りも大きい。
たとえ辛くても、一日だけ我慢すれば、少し休める。
そう思った。

「酒場、教えてくれたのもそいつだった」
「どんな奴だ。顔、思い出せるか」
「赤い髪。ぼくと同じくらいの年で。でも、どこにいるのかわからないんだ」
雨が降る。
体はだるくなる。
うつむいた顔に、蒼が指先で触れた。
温かいと感じるのに、この体もニセモノなんだろうか。
こんなに悲しいのに。
心が、痛むのに。

「大丈夫だ。このあたりの景色に、覚えはないんだな」
だったら、ほかを探そう。どこかに必ず、ここだっていう場所があるから。
蒼のその言葉が支えだ。


見えない、ぼく。
見える蒼。


ほかの人が見たら、蒼の一人芝居はさぞかし滑稽だろう。
でも、この場所が幸いした。
無関心同士が密着するように群れる場所だから。
他人のことなんか、どうでもいいんだ。


ぼくだってそうだ。
ぼくだって、そうだった。
自分のテリトリーに、他人を入れることなんてなかった。


「行こう」
早足で、裏道を歩きぬける。


体臭と死臭。
雨がそれをかき混ぜていた。
罵声が飛び交う。
酔っ払いがしわがれた声を上げる。


「どうして」
朦朧とした意識の中、心の声なのか、口に出しているのかすら判別できないくらいだった。


聞こえたのかな。蒼に。
振り向かない。
その代わりに、握られた左手が、少し痛かった。


もう一度呼びかける。

「どうして、今日会ったばかりの人間にこんなことするんだ」
「わからないか」
わからない、そんなこと。


「わからないだろうな」
だから聞いてるんだ。


「俺は、織に助けられたんだ」
いつ? どこで?


「本当に死にたかったのは、俺の方かもしれないな」
死にたい? 
だって、あんなに生き生きしてたじゃないか。


家族もいる、教養もある、きっと友だちだって。


「毎日同じ繰り返しで。どうでもよくなった」
贅沢だよな。
蔑んでいい、笑っていい、馬鹿にしていい。
甘えているって。
蒼はそう言って視線を外したけれど、ぼくは蒼の手を引っ張って引き止めた。

「笑わない」
「情けないだろう。目的もなく、生きてる自分に嫌気がさして」
「それはぼくだって同じだ。生きる目的なんて持っていない」
「でも周りを見てみたら、自分がいかに安全な場所で安穏と生きてきたのか気づいた」
悩みのない世界が、悩み。
平和すぎて、見失ったもの。

「知らなかったことが恥ずかしい。自分が何もしようとしていなかったことが情けない」
「蒼は、きれいだ。その心が。ぼくは、死が怖かった。今も、もっと」
痛いのは嫌だ。
苦しいのも嫌だ。


蒼が再び歩き始めた。
朝はまだ遠い。
陽は昇らない。
光は差さない。

雨のカーテンの中にいてもわかる。
ここは死に近い場所だということが。

ぼくの住んできた夜の世界。
でもここは、もっと恐ろしい場所だ。

この細い路地を覗けば、死体が転がっている光景は珍しくない。
ここに、来るべきじゃなかったのかもしれない。

静かに、終わるべきだったんだ。
ぼくは。

考えなかったけれど、この先に「ぼく」がいたとしても
仮に生きていたとしても、蒼を巻き込んでまで生きるべきなのかな。
そんな価値がぼくに、あるのかな。

「無理だよ。もう」
もう、やめてほしい。

蒼の手、だんだん冷たくなってくる。
雨で冷やされて、体は温もりを失っていく。
生きてるんだ、蒼は。
ちゃんと、この手は、体は生きてる。

だから、もう。

「やめよう。間に合わない」
記憶に自信がないんだ。
歩き回っても、似たような看板を横目で通り過ぎるたびに、不安がよぎる。
探しても見つからないかもしれない。

「この街で、たった一人のちっぽけな人間を探すなんて」
「探し出す。絶対に」
この雨の中、体を壊すだけじゃない
歩き回って殺されるのは蒼だ。
格好の獲物なんだ。
わかっていない。
服や顔を見れば、金を持っていそうな人間だって
すぐに分かるんだから。

「もういいんだ。もう、十分。蒼に会えた。友だちができた。もうそれで」
「言ったよな、織。『死にたくない』って。『助けて』って」
「もういいんだ! やめてくれ。やめて!」
辛いんだ。ぼくが。
ぼくのために、こんな場所に来なくていい。雨に濡れなくていい。
人を好きになって、大切な人を失うなんて、たくさんだ。

「痛いんだ、胸が。いやなんだ、もうこんな思い、したくないって思ったのに」
「織?」

目を瞑った。
闇が襲う。
ちがうな。
始まりに戻っていくだけ。


「織」
両肩をつかまれた。
向かい合わせにつき合わされる蒼の顔は、これ以上ないほど真剣だった。

「話がかみ合わない。わからない。織、どこまで覚えてる。失った記憶はどの部分だ」
薄く目を開け、脳内に残る記憶を追っていく。

「ぼくがこの街に来たのは、いや違うな。気づいたら道の真ん中にいた」
街のほぼ中央を走るメインストリート。
流れる車を横目に、ぼくは立っていた。
手には何もない。
服は上等とは言えないシャツとズボン。
着ているだけで、他に何もない。
ポケットの中は空っぽだった。

放り出されたようなぼく。
記憶はそこから始まった。
それ以前は何もない。
真っ白だ。
言葉は覚えている。
それから、頭の中に残っていたのは「織」という自分の名前だけ。
ぼくがぼくであるための証は、それだけだった。

何もなくて。
生きようと、生きたいという気力すらなくて。
でも、死に走る勇気もない。

壁に背をもたせ掛けて立っていた。
いずれ朽ちていくだろう。
放っておいたら、水を与えられない植物のように。

でもぼくは拾われた。
腕を引かれ、宿へ誘われる。
腕を振り払って断ることはなかった。

朝が来る前に、灰色のコートをまとって男は紙幣を数枚
ベッドに残して去っていった。

生きる術はある。
売れるものがある。

いつまで続くかわからない。
死ぬときが来るとすれば、それまでだ。
自分で死ねないのなら、時間に身をまかせよう。

「ぼくは誰も愛さない。愛することなんてできない」
怒らない、泣かない、笑わない、悲しまない。

「きっと、死も生もどうでもよかった。どっちでもよかった」
そのぼくも、死の瞬間が来るんだ。
土になるときが来るんだ。

「西に来た。そうだと思う。はっきりとは覚えていなくて、記憶が混乱していて」
欠けているのは、最後にどこにいたのか、誰に会ったのか、どうして死んでしまうのか。
ぼくは、どこにいる?

「探してみせる。必ず。織を、消したりなんかしない」
止められない。
真っ直ぐな蒼を、止めることなんてできない。

本気で嫌なら、突き放せばいい。
殴ってでも止めればいい。
でも、ぼくにはできなかった。
できないほど、ぼくの中で蒼が大きくなり過ぎていたから。
失ってしまうには、余りにも大きな存在。






「赤い、看板だ」
拭われない埃と時間で劣化して茶色染みてはいたが、楕円計の赤看板がぶら下がっている。
すぐ下にある入り口からは、濁った窓ガラスを淡い光が抜けている。
木戸も、石畳も、不揃いの石で組まれた壁も。
見慣れていた。
それらすべてが、脳の奥底にある記憶を掻き出してくる。


「あそこだ」
ぼくは、戻ってきていた。

でも、怖い。
この先を知るのが。




「生きてるんだ、まだ。お前は生きてるんだ。なら、最後まであきらめるな」
死にたいのは、俺の方かもしれない。
言っていたやつが、あきらめるなだって。

消えてしまったはずの心が、また鮮やかになっていく。
消えたんじゃないのか?
消されてしまったんじゃないのか?
すべてを諦めたんじゃないのか?
なのにまた、ぼくを苦しめるのか。

今更戻ってきても。




「しっかりしろ!」




叩きつけるような大声で、蒼が叫んだ。

「あの中に、いるんだろう?」
わからないさ。またあいつに会えるかなんて。
名前、聞かなかったし。

外には、酒場の騒ぎ声が漏れ出していた。
男の咆哮、女の金属的な悲鳴、笑い声。

脚が重かった。
入りたくない。
その空気がいやなのか、これから先に起こることを予感してのことなのか、そんなことわからない。


わからないけれど、とても寒かった。



 <<< go to next scene >>> 

 <<< return to contents >>> 

「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「 「
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送