((( クロノ・クロウラ 06 )))




どうしてぼくは、あのビルの上にいたんだ?
すでに肉体を失くして。

あんなところに。

その前は?

欠落した記憶を補おうと、もがく。
それでもこの手につかむことができない。






ノイズが混じる。
耳鳴りがする。
思い出したいのに何かが邪魔してる。




人の目を引く鮮やかな看板が連なっている。
覚えてる。

狭い道。
ひどい臭い。
覚えてる。

空はいつだって霞んで見えた。
それは地面から放射される光のせい?
濁った空気のせい?
それも、覚えてる。

痛みばかり。
何のために生きてるんだろう。
探るために。
愛情を?
温もりを?
記憶を?
そう考えていたこと。
覚えてる。




でももっと大切なことを忘れてる。
とても、大切なこと。
胸の痛みは覚えているのに、どうして痛むのかわからない。
本当に、大切だったんだ。
一番。






また、路地裏?
あの廃ビルに戻るのか。


いや、違う。
これは、ここは、違う。




蒼と会った所よりも、もっと狭くて暗い。
道じゃない。
ドラム缶、ごみの山が建物の間に挟まるように放置されている。



ここは、どこだ。
人なんて通らない、ビルとビルの間。



湿ってる。
人工の光すら差さない。
闇だ。
誰の眼にも触れない。


そこに何がある?


自分の記憶が激しく断裂してるのがわかる。
思い出さなきゃいけない気がする。





間に合わない。
焦り。


早く、早く。


大切なこと、とても大切なことだったのに、完全に記憶から欠けているんだ。
思い出さなければいけない気がするのに、だめなんだ。

どうすればいいんだろう、
過去も、未来も全然見えないんだ。

どうすればいいんだろう。
どうすれば、ぼくは消えずにすむ?






意識が、深く深く沈みこんでいく。






「織!」
声がする。
これは、蒼の声?



水中から、水面を見上げてる感じ。
ふわふわして、ゆらゆらして。
このまま眠ってしまったら楽だろうか。



今は苦しいけど、きっともうすぐ楽になるから。
きっと、楽になるから。





「おり、おり」



掠れた声がする。
水面の向こう側。
泣かないで。
ぼくのためになんか、悲しまないで。




消えてしまって、当然なんだ。
いなくなってしまうべきだったんだ。
そう、いてはいけなかったのに。
消えるはずだったのに。




そうだ。




だって

ぼくは

罪を犯してしまったから。

取り戻せないほど深い、深い罪を。






悲しまないで。
そういっても、蒼はずっと泣いてるんだろうな。
ぼくの名前を呼び続けるんだろうな。
泣かないでいいから。
お願い。
泣かないで。
ぼくのために、泣かないで。



だから、手を伸ばした。
蒼の頬に触れるために。
こぼれる涙をすくい取るために。

水のように揺らいでいる意識の底から
重く溶ける右腕を引き上げた。






「そう」

声は、届く?

伸ばした指が、蒼の顔に触れる。
「織、お願いだから」
しぼり出すような声で、囁いた。
空気に溶けかかって透ける手を握り締めた。
「消えるな」


「死にたくない」
「織?」

初めてだ。

「助けて、蒼。たすけて、ぼくを」
死ぬことも、生きること同じくらいどうでもよかった。

生きていたって、同じ毎日の繰り返し。
ぼくには何もなかったから。
友だちも、家族もなにも。
せめて愛する人がいれば、世界は変わったかもしれないのに。


でも、今は違う。
今は。


「ぼくを、たすけて」
意識が掠れる。
手は色を失っていく。
消えていく。


「消えるな」
蒼がぼくの手を握り締めた。
きつく、熱く。


温かい。
これがひとの温もり。


生きたいと思った。
消えたくない、と。


はっきりしたそのささやきが、ぼくを現実へと引き戻していく。
蒼の、手の温かさが、伝わってくる。
ゆっくりと、でも確実に、ひとつずつ感覚が蘇ってくる。

感覚を失っていた、蒼の顔に触れていたぼくの右手は薄い。
見えないはずの向こう側が見える。

あり得ない光景だ。
蒼はぼくに触れて、ぼくも蒼を感じているのに。

溶けて消えていくのか。
止めようもないのか。


「ぼくは、死んだのか?」
蒼は答えない。
答えを知るはずもない。

幽霊の手を握り締めて。

「あのときも、そうだった。やっぱり、目の錯覚じゃなかったんだ」
「いつ?」
「連れて行ってもらった、丘の上の公園」
あぁ。
気分が悪くなった。
今と同じ。


回る世界。
記憶の奔流。

画像が何枚も何枚もランダムに出てきて。
思い出そうとするけど、スライドは止まってくれない。
頭は痛くなる。

「織の体が、透けてた」
一際蒼の腕に力がこもる。
「目の錯覚だ、見間違いだって、思ったのに」

手だけじゃない。
体全体が色を失って薄くなっていくのを目の前にして
もう錯覚だと言い続けてはいられない。

死んでいる、体。
だとしたら、あの記憶は?
どうしてぼくはここにいる?
何も持っていなかった、ぼく。
この世に捨てて、消えてしまったって悔いなんてないはずだ。

「それともまだ、生きてるのかな」
暗く人の目から見えない、細い路地。
蒼に会う前の記憶。

見つけられるかもしれない。

ぼくがこうしてここにいる理由。
ずっと胸を締め付けている、消えてしまった記憶。

「生きてる、って」
「かもしれないってだけ」
確証なんてない。
でも。

「信じるからな」
「何もないんだ。信じられるもの、なんて」
「あるだろう」
蒼は、笑っていた。
「俺は信じる。織は生きてる」

眼に宿す強い力。
俺を信じろ、とそれは言う。










この街のどこかに。


自分の仕事、街の風景、言葉、家、客。
失わなかった記憶を丁寧に繋ぎ合わせても
なぜぼくが実体のない姿にならなければならないのか、答えは出ない。



限りある街だ。
探せば、見つかる。
どこかにいるんだから。

蒼は言ってくれた。

希望だ。
その真っ直ぐな気持ち、ずっと触れていたいと思う。
蒼の側にいたいと思う。

胸が熱くなって、締め付けられる。
この感じ。
知ってる。
いつだっただろう。






「時間がない」
蒼はぼくの手を引くと、自室を大股で横切ると、扉を力いっぱい開けた。
夜中だということを、まったく忘れてしまってる。


思い出せないのは、忘れていなければならない記憶だから?
思い出さない方がいい記憶だから?

でも頭の奥底では覚えている。
染みのように、心に馴染んでしまっている。
だから、上からいくら真っ白なペンキで塗り固めても、浮き出してしまうんだ。

大切にしてきた思い。

嫌なんだ。
このまま無になるのは。
蒼や、蒼と一緒にいる時間を捨ててしまうのは。







言葉通り、屋敷を飛び出した。
霧雨が、またぼくたちを包み込む。




夢の中で流れていった映像は言う。



西に。



ぼくに見せた。
きっと、ぼくがぼくと離れる前の記憶だ。
今、辿れる糸はそれしかなかった。



暗い夜の夢から始まったぼくは結局、夢の中で見た記憶に導かれている。



西、だな。
それだけ呟くと、蒼は走り出す。

街の西側にも、ぼくが住んでいたような歓楽街は点在する。
でもぼくは、西の街にはほとんど踏み入れなかった。
あそこには、行きたくなかったんだ。


メインストリートを駆け抜けた。
さすが夜中の高級住宅街。
ふらふら歩いている人間なんていない。

整備された道路の石畳みたいに、ルールに忠実だ。
ぼくたちは、そんな秩序に絡め取られることはなかった。

仲間意識はないのに、表面上で笑いあい、だましあい。
お金を貰えれば、何でもした。
求められるままに、体を差し出した。

卑しい?
でもそうするしか方法はなかった。

汚れてる?
そうして蔑んだ眼で見られるのはいつも。

でも、蒼は違うと言ってくれた。
汚れてなんかいない、と。


空気が変わっていく。
賑やかさが戻ってくる。
それが裏道に入っていくにつれ、緊張感も高まってきた。

一本、二本と深みに入っていくと、雰囲気はまったく違う。
夜の世界に踏み込んだ。

どうだ? って、蒼が走りながらこっちの様子をうかがうけれど
ぴたりと当てはまるところはない。

止まって、道を探して、走って。

積み上げられたダンボールの陰
建物と建物の、一メートルもなさそうな隙間、ゴミとゴミの間を
探しながら通り抜ける。

でも、記憶を呼び覚ます場所に重ならない。
ぼくは、いない。




無秩序に広がる、不規則な網の目の
一本一本を、つぶしていく。

「もっと、南かも」
空気が違っていた。
ここは、ぼくのまったく馴染みのない、空気のにおいがする。



体は、少しずつ動きが鈍ってきてる気がする。
はっきりと、動けないというほどの だるさじゃないけど、疲労感か。
諦めか。


コンクリートと、電気の世界。
ばらばらの街だ。改めて思う。
蒼と一緒にいるからだ。
蒼が、ぼくに違う世界を見せてくれたから。


どの店も、ネオンで飾り個性をだそうと躍起になっている。
でもそれが集まってできた通りに、個性は埋もれてしまっている。
本末転倒だ。












雨は飽きもせずに降り続いている。
何もかも、流してしまいたいんだろうか。
消してしまいたいのかもしれないな。
ぼくも、ひとも、この街も。
洗い流して、白く、きれいになりたいんだ。




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