((( クロノ・クロウラ 05 )))




広い道。
晴れれば日が差し、雲が掛かれば隠されていく星が見える。
背が高いばかり、窒息しそうなビルの谷間とは違う。

ここは、住むための場所。
眠るための場所。

夜は静かで、朝は爽やかな風が抜ける。

何もかもが違いすぎていた。
踏み入れるはずのない場所だと思っていた。



灰色の石畳は、隙間なく詰められ
酔っ払いがつまずく心配もないほど平ら。

均一な色彩で、家々が統一されている。
秩序、そのものだった。

黒の鉄門が、闇に溶けて重い。
境界がにじむから、大きさを想像するしかない。

門前で立ち止まってしまった足。
いつの間にか蒼に握りこまれていた、ぼくの左手が引っ張られた。

「怖いのか?」
振り向いた蒼の顔が、外灯の逆光で陰る。
嫌な思いをするのを避けたい。
嫌われてると、知っているから。
結果が分かっているなら、わざわざ軽蔑の視線を浴びにいかなくてもいいだろう。

それとも、蒼の叔父さんだからぼくを人として見てくれると
心のどこかでは思っているのだろうか。

緊張、と少しの疲労。



雨粒が、大きさを増した。
髪が支えきれなくなった生温かい一粒が、頬を伝っていく。

「わっ」
蒼が飛び込むように鉄門に突進していった。
急に歩いたので、引っ張られた手の反動で
蒼の背中に突っ込みそうになった。

金属の擦れる音とともに、ゆっくりと門が開く。


大きな家。
蒼の家は、大通り沿いだし、叔父さんも医者だ。
納得はできる。
わからないのは、今この状況にあるぼく。
どうして、こんなことになってしまったのか。

ぐちゃぐちゃ考えてるうちに、巨大な木製扉が目の前だった。
重そうだって、外からでも分かる。
飲み屋の、男たちに撫でられて角の落ちたカウンターみたいに、艶々してた。

蒼は、何も言わない。
言わないまま、扉を押し開けた。

片腕で開けるのが大変そうな、厚い扉なのに蒼は、ぼくの左手を離そうとしない。
逃げないのに。

部屋は、暗い。
思ってたのに、予想は外れた。
灯りが点いてる。
蛍光灯ではなく、温かい色。
正面にある、弧を描く大階段の両端に、二つのランプが淡く灯る。

真っ赤な絨毯に、純白の彫刻。
どこの国のものか知らない、装飾としての陶磁器。
金縁の絵画。
そんなのを想像してた。

叔父さんは、装飾品収集の趣味はないらしい。
空間はたっぷりとってあるのに、飾らない。
蒼に重なった。


「気分は」
「さっきよりは、まし」
「でも手は冷たいし、顔色もよくないな」
それでも、何とか歩いて帰れる。
そう言うと蒼は、宿代わりにここを使えと言う。
夜は更けてきた。
雨音も絶え間なく聞こえてくる。
考えておこうか。

「行こう」
叔父さんのところへ。

「俺がついてるから」
左手を、強く握り締められた。
この痛みが、蒼の優しさだ。



階段が長く感じた。
上るたびに、蒼の硬い靴の音が響く。

二階へ上って、幾つか木の扉の前を通り抜けていく。
どの扉も、シンプルだけど、四隅には細かい彫が施されていた。
つると葉っぱの模様だ。
ほとんどが木製だった。
階段も、手すりも、床も、廊下も。


蒼が、立ち止まった。
扉の下からは、玄関と同じ黄色い光が漏れている。

蒼の硬い手の甲が、木戸をノックする。
気持ちいい音が響いた。



「叔父さん、ちょっといいですか」
何時だと思ってるんだ! っていう怒号、飛んでくるかと思った。

真夜中のこの時間。
ぼくたちにとっては仕事の盛りだけれど、ここは眠りの底にいる時間。

でも、そんな怒鳴り声は、飛び出してこなかった。
すぐに返事は来ないけど、数秒してから、「いいぞ」という低い声が、中でくぐもって聞こえた。

「失礼します」と、言い終わらないうちに、蒼が扉を開けていた。
手を引っ張られて、部屋に連れ込まれた。

「どうした。ずいぶん遅くまで起きてるじゃないか」
「ええ、まあ」

蒼の背中の向こう側から、優しく響くような声が聞こえてくる。
弦楽器のように、滑らかだ。
腹に響くような、心地いい音だった。

「叔父さん、診てもらいたくて」
「夜中に来たと思えば。お前の行動は、予想がつかんな」

部屋の入り口いっぱいを陣取っている、蒼。
見えるのは前を向いている蒼の背中と、あたたかい光だけで
ここからは、「おじさん」の姿が隠れて見えない。

「どこが悪いんだ」

ようやっと、蒼がこっちを向いた。
「ほら」
ぼくの肩に手を置くと、部屋の中央へとぼくを押し出した。
「名前は織っていうんだ」

もっとおじいさんを想像してた。
ゆっくりと、落ち着いた口調と声は、もっと年を重ねてるものだとばかり、思ってた。

目の前にいるのは、茶色い髭のおじさん。
きれいに切りそろえられた髭を取ってしまったら、きっと
蒼と並んでも、兄弟で通るだろう。

目に、若さがあった。
生気に溢れた光。
それは炎の揺らめきにも似ていて、生きようとする力が湧きあがるみたいだった。

おじさんは、ぼくを見て、わずかに目を開いた。
その表情を見ても、驚くことなんてない。
ぼくのこの姿をみたら、そう思わずにはいられない。

服も、彼らにしてみれば、ぼろ布に等しいだろうし
気品や上品。
そんな単語とは正反対だから。
当然の反応だ。

おじさんは、ぼくと目を合わせようとすらしない。
「蒼、これはどういうことだ」
純粋な、疑問文だ。嫌悪はない、軽蔑もない。
純粋に、ただただ、理解できない。それだけ。

「どうって、見たままでしょう?」
対して蒼には、少し苛立ちが目立つ。

「蒼、もういい」
目の前で喧嘩なんて、見たくない。

「夜中に冗談か? それとも、寝ぼけているのか」
「どちらでもない」
「なら、どういうつもりなんだ」
ため息、呆れ顔。
ただでさえ、夜中に押しかけてるんだから、もうこれ以上迷惑はかけたくはない。

ぼくは、扉を押さえる蒼の袖口を引っ張ったけれど
蒼は、おじさんを見たまま動かない。

「診てほしいと言った。叔父さんなら、偏見は持たないだろうと」
「まったく、言っている意味がわからんな。何を診ろというんだ?」
「だから、ここに」
ぼくの薄い肩を、蒼が背後から両手で叩く。
叔父さんは、蒼を見据えたまま視線を動かさない。

「そこに」
初めて、おじさんと目が合った。
優しい思慮深い目が、今は眉をしかめた険しい表情に沈んでいる。

「何があるっていうんだ」
頭が真っ白になった。






「何も、ないじゃないか」







何も、ないじゃないか。




なにも、ない。






彼は、ぼくを見ていた。
ちがう。
ちがうのか。
彼ははじめから、部屋に入った初めから、ぼくを見てはいなかった。





みえなかったんだ。



空気のように。
実体がなくて。

じゃあ何。
ぼくは、何?






寒い。
怖い。
嫌だ。
嫌だ。
だとしたら、ぼくは。
ぼくはいったい。


ああ、また。
頭が痛い。


顔を覆おうと持ち上げた両手。
見下ろすと、床が透けて見えた。

「う、っあ」
蒼の手に触れた指。
服をつかんだ手。
雨粒を感じた甲。
輪郭が薄くなって、ヴェールのように透けている。

自分の体なのに、怖い。
なぜ?
このまま消えるのか?
空気に溶けて。
何もかもを、置いて。






「や、だ。嫌だっ! そう、蒼!」
助けて。
お願い。
たすけて。

子どものように泣き叫んだ。
目を閉ざし、腕を抱え込んで。

「織っ」
気分が悪い。
体が冷たい。
部屋は、温かいはずなのに。
支えてくれている蒼の手は、温かいはずなのに。

どうしてこんなに寒いんだろう。
どうしてこんなに不安なんだろう。

お願いだから、放さないで。
その手を、放さないで。
「おい、織」





蒼の声が遠くで聞こえる。
ぼくを呼ぶ声が。





ぼくの感覚はどこに行ったんだろう。
もう熱さも、呼ぶ蒼の声も聞こえない。
また、闇だ。
黒い世界。
何もない世界。
ぼくが戻る、場所?



体の中にある、痛み 苦しみ 悲しみ よろこび。
どこにいったんだろう。

すべての感覚がゼロに戻っていった。


目が覚めたら忘れてしまっている夢を思い出すのは
いつだって夢の中にいるとき。
現実の世界では、消えてしまった夢。




それと、同じで。
暗いこの場所はきっと、始まりの場所で、終わりの場所。
過去のぼくが、浮かんでは流れていく。




感覚をすべて失って、ただ広いだけの空間に漂う意識。
肉体も記憶もなく、ただ流れていく情報を受容するだけのぼく。




霧雨の中歩いた歩道が流れる。
丘の上の暗闇。
蒼と歩いたネオン街。
流れて漏れる賑やかな音楽。
嬌声と怒声。
騒がしいメインストリート。
枝のように伸びる裏道。
狭くて汚れた路地。
コンクリートの廃ビル。
無造作に積み上げられたコンテナ。
放り出された廃材。
狭い夜空。

それから、ぼくは。
そのまえの、ぼくは?







考えるほど、頭に霧がかかる。
思考はまとまらず、不安定のまま。
記憶のスライドショーが、くるくる回っていた。


ぼくはどこに行くんだろう。




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